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第29話
そっと味わっていると、扉が開いて真生が顔を出した。
Tシャツにジャージのパンツをはいて、足元はクロックスサンダルである。
あぐりは手にしたカップを動かすことも出来ずに固まった。
「マスター。出来てる?」
尋ねる真生にマスターはサーモスタンブラーを差し出した。
「夜勤だろう。苦めのを濃く淹れておいた」
カウンター越しにそれを受け取って、ようやく真生はあぐりの存在に気づいた。
たちまち頬がゆるむ。あぐりの横に腰かけて、
「どうかした?」
改めて顔を覗き込んだ。
乾いた無機質な指が、あぐりの目元に触れた。健康診断のように指先で片目ずつ眼球を開いて見ている。煙のせいで充血している目である。
「明日にでも眼科に行った方がいい。ごめん。話を聞いてる時間はないけど」
と今度は優しさのある指で髪に触れた。濡れているのに意外そうな顔をする。異臭にも気づいているのだろう。
あぐりに出来たのは宙に浮いていた手を下ろしてカップをソーサーに着地させることだけだった。
「それと……」
真生はパンツのポケットから革製のキーホルダーを出すと、一本の鍵を外した。
かちりと音をたててそれをカウンターに置いた。
「渡しておく。今日からでも使っていいから」
あぐりは目の前に置かれた鍵をぼんやり眺めた。目を上げた時には真生は既に席を立っていた。
「悪い。夜勤の途中だから。本当に休んで行った方がいい」
サーモスタンブラーを持って真生は店を出て行った。あぐりはまだ鍵を眺めていた。
夜半に近いのに店内にはまだ数人の客がいる。真生がいなくなった店内でのろのろとスマホを取り出した。
夕べ、あぐりが眠りに落ちた後で真生から届いた、
〈二人きり。重要OK〉
という回答を初めて読んだ。
何のことだかずっと遡って読まないと思い出せなかった。何億光年前のメッセージなのだろう。
自分の部屋を避難所にして欲しいという言葉の後に、
〈変な事はしないから大丈夫〉
と続けている。田上真生はそう言ったからには本当に何もしないだろう。
でも自分はたった今、変な事をされて来たんだよ。
いや違う。自分から、したんだ。好きでもない上司と。
もともと性欲解消のためにつきあい始めたんだから自業自得だ。
視界がぼやけているのは眼球が煙で傷んだせいだろう。頬が濡れるているのは気のせいだ。
何度も配達に来た場所だが鍵を開けるのは初めてだった。
暗い玄関で靴を脱ぐ。灯りのスイッチがどこかわからない。台所から六畳間に入ると、片隅で何かの気配がした。
窓から差し込む街灯の薄明りに、黒い影がすうっと部屋の中を横切るのが見える。
あわてて蛍光灯の紐を引く。白く照らし出された部屋の中、机の下に黒猫がひそんでいた。金色の目を光らせて、未だ未開封のゴールドバンブーの箱や段ボール箱の隙間にうずくまっている。
あぐりはその姿から目をそらして、殊更にゆっくりと畳に腰を下ろした。
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