30 / 59
第30話
入院した時、三田村さんにもらった猫雑誌を暇に飽かせて熟読した。
そこに書いてあった猫とつきあう三箇条。
①目を見ない。
②構わない。
③静かにする。
了解。
身体を倒して畳の上に寝転んだ。室内はごくかすかに真生の匂いがする。あの硬い髪につけられたヘアリキッドの香りも漂っている。あの髪にはまだ触れていない。どんな手触りだろう。と思いながら瞼を下ろす。
くしゃみをして目が覚めた。
足元ばかりが妙に温かい。身を起こして見ると、広げた両脚の間に黒猫が入って眠っていた。あぐりの脛に顎をのせている。
何故か口元がほころんでしまう。
身体がかなり楽になっていた。目はまだしばしばする。明日は眼科に寄って出勤するからまた遅刻か。
そう思っただけで江口主任の顔が浮かぶ。
黒猫を起こさないようにそっとポケットからスマホを出す。誰かに見られても差し支えない内容にしようと頭をひねった結果、ただの箇条書きになってしまった。
〈社内であんなことをするのはやめてください。もう二人きりでは会いません。さようなら〉
LINEではなくメールで送る。少なくともあぐりにとっては決別のメールであった。
黒猫が身を起こして大あくびをしている。そして窓際の籠(リリカが使っていたベッド)にのそのそ移動すると丸まってまた眠り始めた。
よく見ると片耳の先端がV字型に切れている。喧嘩でもしたのだろうか。
見上げると壁の時計は三時を過ぎている。数時間は熟睡したらしい。
机の上に掌サイズのポストイットの束がある。端に製薬会社のロゴが入っている。ペンスタンドから抜いたボールペンにも同じロゴが入っていた。
〈ありがとう あぐり〉
ポストイットの一番上の用紙にそれだけ書いて、
「真生さんが読むまで、いたずらするなよ」
と籠ベッドで寝ている黒猫に注意をしてから玄関を出た。
半袖Tシャツでは震える寒さになっていた。ドアの鍵を閉めると、改めて合鍵を自分のキーケースに取り付けた。
あぐりのキーケースは面ファスナーがバリバリ安っぽい音をたてる布製である。家の鍵や中古のホンダのキーも付いている。にわかにそれが温かくなった気がして手の中に握って深夜のコインパーキングに向かった。
家に着いてまたキーケースの鍵で玄関ドアを開ける。
一歩足を踏み入れただけでも室内に異臭が残っているのがわかる。静かに階段を上がろうとしたところ、仏間に何かの気配がする。
そっと襖を開けると、暗闇に蝋燭の火がゆらめいている。
仏壇の中で蝋燭二本に火が点いたままである。半ば以上に減っているのは、かなり前に点火したのだろう。気配と思えたのは、ゆらめく炎が芯をじじじと鳴らす音だった。
つい今しがたまでの安寧な気持ちがたちまち消えた。
おそらく婆ちゃんが火を点けたまま寝てしまったのだろう。
自分が気がつかなければ火災になりかねない案件である。
蝋燭の炎は吹き消したが、それだけでは安心できず、指先で芯を摘んで完全に消えていることを確認した。
東京の落語家には四つの位がある。見習い、前座、二つ目、真打である。
最高位の真打の名称は、昔は高座の舞台照明に使われていた蝋燭の芯を打って、火を消すところから来ている。
芯打ち……真打。
そうか。自分は真打か……などと思ってみる。諸々の感情を揺り起こさないためにも。
ともだちにシェアしよう!