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第31話

 翌日あぐりはしつこいほどにシャンプーして髪の匂いを消してから、眼科に寄って目薬をもらって出勤した。 「遅くなってすみませんでした」  事務所で江口主任に頭を下げたが、特に何も言われなかった。  昨夜のメールは読んだのか、何の返信もない。LINEにすれば既読だけでもわかったが、別れ話はメールの方がいいような気がしたのだ。  昼前には出庫したが、今日も物量は多く昼休みはとれなかった。運転の合間にコンビニおにぎりをペットボトルのお茶で流し込んだだけである。    夕方、一旦帰社すると襟首タオル仲間に配送の応援を頼まれる。 「まだ年末には早いのに、一人じゃ運びきれないよ」  というわけで、トラックに同乗して配達を手伝う。停車した場所でそれぞれに荷物を持って走るのだ。一人より効率がいい。 「おっ、襟首タオル組で同乗ですか。後ろ大丈夫ですか?」 「篠崎さんと一緒じゃ、バックに気をつけなきゃね」  森林コンビが帰り際、運転席に並んでいるあぐり達を見上げてにやにや笑っていた。何がおかしいのかわからない。  車が走っている間、あぐりは婆ちゃんの惚け具合についてぽつぽつと話して聞かせた。襟首タオル先輩は、うんうんと頷いてから、 「及川さんさ、まほろば運輸に入ったらしいよ」  この際、関係ない情報をくれた。  及川さんとは最近辞めたベテランドライバーである。まほろば運輸も全国展開しているものの規模も知名度も足軽運送には及ばない会社である。  配送を終えて事務所に戻ると、 「おい。まだこれだけ残ってるぞ。今日中に配送してくれ」  と主任に命じられる。  今後は決して主任と二人きりにならないようにしよう。肝に銘じて夜遅くまでトラックを走らせる。  真生からのLINEメッセージが励みになる。荷物を配るために車を止める度にスマホを覗いてから運転席を降りる。 〈昨日は寝室を使わなかったらしいがベッドで寝てくれ。シーツもきちんと変えてある〉 〈ありがとう。奥の部屋は入ったことなかったから遠慮した。次から使うよ〉 〈黒猫はロブという名前の雄猫だ。人懐こいからすぐ慣れると思う〉 〈また泊まりに行くけど、真生さんがいる時にも行きたいよ〉  と送った途端に、月間スケジュールが返信されて来た。  真生が在宅の日時を狙って行けばいいのだ。  それはつまり何と言うか……二人で寝室のベッドを使うにやぶさかではないという意味ではないか?  あぐりはトラックのハンドルを握りながら、にやにや笑いが止まらなくなるのだった。  仕事は忙しくなるばかりだが、江口主任から過剰に接近されることはなくなった。あの別れのメールを受け入れてくれたのだろうか。  仕事帰りに真生の部屋に寄るのは、想像以上に息抜きになった。  直接帰宅して婆ちゃんの意味不明な話や、叔母ちゃんの愚痴の相手をする前に、一人ぼんやり空白の時間をもてあそべるのだ。こんな贅沢があろうか。  時には黒猫ロブを撫でることも出来る。胡坐をかくと膝に額を擦りつけて来る。確かに人懐こい猫だった。  ひんやりとした毛並みに鼻を埋めて吸ってみたり、黒い肉球を指先でぷやぷや押してみるのも一興である。  実は真生が在宅しているはずの夜に訪れたこともある。だが部屋に明りは点いておらず、自分で鍵を開けなければならなかった。    部屋の机にポストイットが貼ってあった。 〈呼び出された 今夜は帰れないと思う Mao〉  Maoって何だ?  一瞬考えてから真生のサインと気がつく。  そう言えば直筆の文字を見るのは初めてである。くすぐったい気分でサインを指先で撫でる。  そしてポストイットは大切にポケットに入れるのだった。  遅れてLINEを確かめれば、かなり前に連絡が入っていた。 〈今夜は出産がある〉  几帳面に素早く連絡するのは真生の習慣のようだった。その点あぐりは杜撰である。我ながら既読をつけるのが遅すぎる。 〈出産は大概、夜から明け方にかけてだ。  危険な肉食動物が眠っている時間帯だ。  つくづく人間は弱い動物だと思うよ。  そんなわけで、休みをとっていても夜中に呼び出されることが多い。ごめん〉  ごめんとはつまり真生もあぐりと共寝したかったのだろう。  いつかきっと二人でベッドで……と、またにやにやする。  とにかく笑えればいいのだ。わははと笑えれば……そんなような歌があったな。

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