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第32話 銭湯は月の湯

   7 銭湯は月の湯  台所に漂う異臭はなかなかとれなかった。壁も黒焦げのままである。  富樫のおっちゃんが専門の業者を入れて何かと作業をしていたが、元に戻すには安くない修復工事が必要だった。台所や食堂の壁紙を張り替えて天井も塗り直す工事である。  だが何しろこの家は近々に解体するのだ。  ならば無駄に金をかけずに耐え抜くという方針がとられたようである。  横浜の兄もやって来て、腕組みをして台所のガス台と対峙していた。  焼けた電気炊飯器に代わる新品をくれたのは富樫のおっちゃんだった。 「火事見舞いということで」と無償提供だった。  以前の物に比べて随分と小さかったが、 「三人分ならこれで充分よ」  と叔母ちゃんは満足そうだった。辺りの臭気や汚れさえ我慢すれば、日々の調理に差し支えはなくなった。  そして、ある日帰宅すると食堂の雰囲気が一変していた。  あの欅の一枚板のテーブルがなくなっていたのだ。  代りに四人掛けテーブルが置いてある。デコラ張りでパイプの四本脚。それこそ町の中華料理屋にあるようなテーブルである。  昔、欅の食卓だけでは足りない時に持ち出された物である。どこにしまってあったやら。 「爺ちゃんが十周年記念に造らせたテーブルだから、火事で焼けたらもったいないって。崇さんが横浜の会社に運んで行ったわよ。わざわざトラックで乗り付けて」 「……兄ちゃんが?」  広い食堂にちんまりと置かれたテーブルを囲むのは、あぐりと婆ちゃんと叔母ちゃんの三人である。  部屋の壁に造り付けの食器棚も、よく見ると中の食器が随分と減っている。ずらりと並んでいた陶磁器やガラス器がなくなり隙間ばかりが目立っている。 「食器まで持って行くのよ。高い焼き物とか選んで。ひどくない?  松山のさおりちゃんは伊万里の大皿を欲しがってたし。まゆかちゃんはお嫁に行く時はバカラのグラスセットをもらうとか言ってたのに。  みんな崇さんが持ってっちゃった」  と叔母ちゃんは赤ワインを手酌で呑みながら愚痴を重ねる。  あぐりは別に欅の一枚板のテーブルにも作家物の食器にも特に思い入れはない。  とりあえず飯が食えればいい。何なら白いご飯に生卵を落して醤油を回しかけただけでもいいのだ。  もちろん食卓が卵かけご飯だけのことはないのだが。今日はキャベツと油揚げの味噌汁、さつま揚げを焼いたのに生姜醤油をかけて、蓮根の梅酢和え、青椒肉絲など。  その青椒肉絲をご飯にどっさりのせて食べながら、婆ちゃんは言ったものだった。 「この部屋は何だか変な臭いがするねえ。ご飯がまずくなるよ」  叔母ちゃんはワイングラス越しに睨んでいる。  誰がこの臭さを作り出したのだ?  と言いたいのを堪えているのだろう。   浦安のまゆか姉ちゃんは十月最後の週末に帰って来た。婆ちゃんを銭湯に連れて行くためである。が、食堂に一歩足を踏み入れた途端に、 「うそ! 何これ、どうしたの?」  と仰天した。  炊飯器を焚いて火が出たことは知っている。  驚いたのはそれではなく、テーブルや食器のことだった。久しぶりに来る者にとっても、この変化はあんぐり口を開ける程のことらしい。  叔母ちゃんはデコラテーブルでほうじ茶を淹れながら、ここぞとばかりに横浜の兄の仕打ちを訴えている。まゆか姉ちゃんが持って来たドーナツを頬張りながら。 「大体あの伊万里焼の大皿は、あっちゃんが生まれた時にお義姉さんの実家から贈られた物なのよ。あちらのお爺様は目利きだったから」  と叔母ちゃんが言えば、まゆか姉ちゃんも口を揃える。 「聞いてるよ。兄ちゃんの時には有田焼の大皿が贈られたって言うじゃない。  なら、兄ちゃんは有田焼だけで、伊万里はあっちゃんが持ってくべきよね」 「いや俺、皿をもらっても……」  というあぐりの遠慮はスルーされた。 「悦子さんとこのお爺様は趣味人だったわねえ。焼き物だけじゃないよ。俳句をひねったり絵手紙を書いたり……私と比呂代ちゃんは一緒に絵手紙を習いに行ったものさ」  こういう時は婆ちゃんも正しい記憶が蘇るらしい。  女性陣は箱入りドーナツを次々と腹の中に収めながら言い募るのだった。  あぐりはそっと二階の自室に戻り、スマホチェックをする。  今日はまだ真生からの連絡はない。今日は一日フル勤務だから仕方がない。  ベッドに寝転んで天井を眺めて居るうちに、何やらまたむらむらと欲情して来る。  実のところ、欅の大テーブルが安っぽいデコラテーブルに取って代わった日、あぐりは久しぶりに自慰に耽ったのだ。  どういうわけだか部屋に戻るなり激しく催して、布団にもぐり込んで一人で事に及んだのだった。  考えても見ればセックスはスワンホテルで江口主任とやったのが最後だから、たまっているのは確かである。  けれど、身体の底から突き上げる激しく狂おしいまでの衝動は、まるで思春期に戻ったかのようだった。  自分を握り締めて攻め立てるだけでは飽き足らず、全身の肌をシーツに擦り付けてあられもない声を上げている。喘ぎに喘いで果てたと思えば、また手が動いている。猿か自分は?  揚句の果てに妄想は田上真生に及んでいる。  駄目だ!  こんなことであの人を穢してはいけない。  神まで持ち出す高潔な人物をこんな時に思い描いてはいけない。  と否定すればするほど淫欲は燃え上がり、空想の真生を組み敷いては犯し犯され切ない声を上げているのだった。  一体これは何なのか。真生に対する恋情の表出?  そうなのかも知れない。いや、単なる劣情に過ぎない。  欅のテーブルが失われたあの夜、あぐりはひたすら自分で自分を慰めていたのだった。  そして今日もまた、そろそろと股間に手を伸ばしたところで階下から、 「あっちゃん、月の湯に行くよ」  と、まゆか姉ちゃんに呼ばれて飛び起きたのだった。

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