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第33話
中古のホンダに婆ちゃんとまゆか姉ちゃんを乗せて、本城町の月の湯に向かう。調べたところ真柴町の銭湯は既に一軒も残っていないのだった。
十月も末になると天も高くなる。青空にそびえ立つ銭湯の煙突ほど頼もしいものがあるだろうか。道に迷っても銭湯の煙突さえ見れば、ここがどこだかわかる。
十五時の営業開始と同時に入るために乗り付けた銭湯の駐車場には、まだ一台も車が止まっていなかった。
「あっちゃんも入ればいいのに」
婆ちゃんの手を引きながら、まゆか姉ちゃんは言うが、あぐりは首を横に振った。見知らぬ男どもの裸など見たくもない。二人が女湯の暖簾をくぐって消えると、
「あ、猫がいる」
銭湯の入り口とは逆に歩を進めた。
銭湯駐車場の奥にある空き地で皿を何枚も広げて野良猫に餌をやっている人がいる。
「あらら、あぐりくん。こんな所でどうしたの?」
三田村さんの声がして飛び上がった。
一瞬ここが職場だかどこだかわからなくなる。
疲れている……またあの部屋に避難しなければ(にやにや)。
「三田村さんこそ、何してるんですか」
聞かなくてもわかる。野良猫に餌をやっているのだ。わらわらと集まって餌を食べている猫の中には、片耳がV字型に傷ついているものもいる。
「さくら猫っていうのよ。避妊去勢手術を済ませた証拠に耳にカットを入れるの。ほらほら、桜の花びらみたいに見えるでしょう」
「痛くないのかな?」
「手術の麻酔中に切るから痛みはないって言うけど」
三田村さんは、はちわれ猫の切れた耳を撫でながら、
「ここにいる野良猫がみんなもらわれて家猫になれば、こんな印は必要ないけど。なかなかね。だからせめて繁殖しないように手術をするの」
「三田村さんは何かそういう団体に属しているんですか?」
「団体ってほどでもないけど。真柴本城保護猫の会。当番制で朝夕きちんと餌をやって後片付けをしてるの。でないと猫嫌いの人に文句を言われたりいじめられたりするから。悪くすれば保健所に持ち込まれて……」
「保健所で殺処分?」
誰かに聞いた覚えがある。三田村さんは眉をひそめて頷いた。
「そうそう、それよ。勝手に手術して耳をカットするなんて酷いって言う人もいるけど、殺処分よりましじゃない。こないだもね、お家が見つかった子がいるのよ」
そして、あぐりにも猫を飼わないかと勧めるのだが、とても頷けなかった。
「いや。うちには年寄りがいるし」
「ああ……介護してるって言ってたわよね。それも大変よね」
三田村さんは神妙に頷いた。
今うちでは婆ちゃんを飼っている。猫だと思えば、そんなに腹が立たないのかも知れない。 湯上りの頬をぴかぴかさせて女湯ののれんを分けて出て来る婆ちゃんを見ながら思うのだった。
十一月に入ると年末の繁忙期に向けて、社内交通安全月間が始まる。
車内のベストドライバー賞、ベスト接客賞、ベスト仕分賞、ベストパフォーマンス賞などの表彰がある。あぐりは全ての部門で特A評価を保持しており、入社以来毎年何らかの賞を受賞し続けている。
特に賞にこだわっているわけではないが、自分は絶対多数と違うのだから成績だけでも高くあらねばと意識していた。思春期に自分の性的指向を知った時から、我が身を守るのはそれしかないと思ったのだ。でなければ末っ子の甘々が努力などするはずもない。
この期間になるとドライバー達の間では「もう乗った?」が合言葉になる。本社関東営業部から来た調査員がドライバー査定のために助手席に乗るのだ。この調査結果によって賞が決まり、翌年度の給与査定にも直結するから、いやが上にもみんな真剣になる。
あぐりの助手席に本社調査員が乗る日、襟首タオル先輩が、
「今日は篠崎くんに乗るのか。俺は明日だ」
と言えば、森林コンビが(彼らはこの調査には関係ないから気楽である)、
「ヤバイっすよ。篠崎さんに乗るって」
「乗って感じちゃう?」
と嬉しそうに笑うのだった。
昔からあぐりはノンケの冗談は訳がわからず、とりあえず周囲に合わせて笑っていたものである。落語なんて古臭いもので笑っている弊害かも知れない。
最近はとみに訳がわからなくなっていたが、仕方なく「へへっ」と笑って車庫に向かった。
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