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第2話

 本城駅裏は、歓楽街と低所得者向け安アパートが混在している地域である。二トントラックがぎりぎり通れる隘路が続く。  大体この道が一方通行でないのも謎である。行政区域が本城町だからに違いない。そう思うあぐりは真柴町の生まれ育ちである。  そも真柴本城(ましばほんじょう)市は、昭和の中頃に真柴町と本城町が合併して出来た市である。山国の隣県とよく間違われるが、一応東京都下である。都心からの急行列車は本城町に停車する。そして次の駅は隣県だから、東京最後の都会といっても過言ではない。  駅のホームは何番線もあるし、駅ビルは二十一階建てのシティホテル付きだし、駅前コンコースも見事なものである。  と本城町民は思っている。  なのに市の名称で後れをとった。  本城真柴市ではなく真柴本城市に決定された時、町民はこぞって歯噛みをした。というのが婆ちゃんたちの昔語りである。  何せ真柴駅ときたら木造駅舎で駅前ロータリーは舗装もされていないのだ。ホームはわずか三番線で、停まるのは各駅停車だけである。  真柴町民が口惜しがるのはこの点である。もしここに急行が停まれば、いきおい駅前開発もされたはずだと。この際、恨むべきは鉄道会社なのに町民はこぞって本城町を恨むのだった。  絶対多数の目くそ鼻くそ。  そんな諍いはあぐりの知ったことではないのだが、幼い頃から吹き込まれた思想(?)は、いざとなれば無意識に顔を出す。  本城駅南に住む客など、ろくでなしだ! そうして戦争は起きるのだな……などと話を大きくしている場合ではない。  三毛猫がにゃんと鳴いた。  猫を両手で抱えてトラックを降りる。車を停めた通りから更に細い路地を入った突き当り、日の差さない木造モルタル二階建てのアパート。その一階奥が田上真生の部屋だった。  足音が聞こえたのかノックをするより早くドアが開いた。  偉そうな顔をした田上真生は、あぐりが差し出す猫を見もせずに、 「違う。家にいた」 「はい?」 「リリカは押し入れの天袋に隠れていた。それはどこの野良猫だ?」 「何だと!」と罵声が出そうな怒気をいち早く読み取ったのか三毛猫は、あぐりの腕の中で身をよじるや力一杯腕を蹴って、開いた玄関の中に飛び込んで行った。  左手の甲にびりっと痛みが走ったかと思うと、鮮血が吹き出した。 「いって……てて」  にわかに弱気になったあぐりの手を掴み田上真生は室内に引きずり込んだ。玄関のすぐ横にある台所の流しに連れて行く。あぐりは土足のままである。 「えっ? やっ、靴! 何?」  言葉にならない悲鳴を上げるが、田上真生は黙ってあぐりの左手を水道の蛇口の下に引き寄せるとじゃあじゃあ水で流し始めた。 「野良猫の爪には雑菌が多い。体内に入ると厄介だ」  と傷口をぎゅうぎゅう揉んで血を絞り出さんばかりにしている。猫に引っ掻かれたよりこっちの方が痛い。 「痛い痛い痛い!」  引き抜こうとするあぐりの手を抱え込んで、更に水で血を流す。  ステンレスの流し台に真っ赤な血が水に流され渦を描いて消えて行く。それを見ているうちに、ふっと意識が遠のきかける。背後に立つ田上はあぐりより少しばかり背が高く、ふらついた頭がちょうど肩口に乗る。 「いや。貧血になるほど出血してない」  いちいち言うことが腹立たしい男である。  二人で台所の床に座り込む。部屋の奥でガサガサ聞こえるのは、あの三毛猫が動いているのだろう。いや、リリカとかいう猫かも知れない。  田上はポリエステル素材の大きな黒いバッグを引き寄せてファスナーを開けた。医療用具が詰まっている。往診鞄なのか。中から消毒薬付きカット綿を出して傷口を吹き、薬を塗ると絆創膏で傷口を覆い包帯まで巻いている。 「お医者さん……ですか?」 「産婦人科医だ」 「はい?」  あまりに意外過ぎて間近に顔を見つめてしまう。  苦み走ったいい男とも言えるが、暴力団幹部にふさわしい凶悪顔とも言える。この顔で新生児を抱かれたら怖いだろう。 「外科医の顔だと言われる。切り刻むのが得意な」  と独り言ちる田上。いや別に誰も何も言ってないし。  医者がこんな貧乏臭いアパートに住んでいるのか? と室内をちらちら見れば、 「金がないんじゃない。引っ越す暇がない」  と言う田上。だから別に誰も何も訊いてないって。  手当を終えると田上は部屋の奥に行き、三毛猫をキャリーバッグに入れて持って来た。  争った気配もないのに、どうやって猫をバッグに詰め込んだのか?  あぐりには謎でしかない。 「悪いが、この三毛猫は元の場所に戻して来てくれ。バッグは暇な時に返してくれれば……」  と言いかけて、ふいに目を泳がせた。 「いや、もう捨ててくれ。すまなかった」  と頭を垂れる田上真生。あぐりはキャリーバッグを受け取りながら何故か、 「たがみしんしょうさん?」  と尋ねていた。  ぽかんと口を開けてあぐりを見つめると、田上はにわかに吹き出した。笑うと目尻が思い切り下がって可愛い。 「しんしょうって……わざわざそんな読み方をするか? まさおと読まれたことはあるが」 「じゃあ、まさおさん?」 「まお」  女みたいな名前だ。フィギュアスケート選手に浅田真央とかいう名前の女子がいた。 「まおは女性名とは限らない」  だから何も言ってないってば。  この男は何だってこんなにも人の心を勝手に読み取るんだ?  少し不快になり黙って部屋を出た。土足で台所に上がっていたから、靴を履く手間もない。ドアを閉めた後も田上真生(たがみまお)は何も言わなかった。  トラックで国分寺町に戻るが、ステアリングを握るのに左手の包帯がビミョーに気になる。  何とかアオキの生垣がある家まで戻り、キャリーバッグの扉を開ける。たちまち三毛猫は飛び出して、きょろきょろ辺りを見回すと生垣を潜って庭に入って行った。  

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