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第3話
結局あぐりが午前中の配送を終えたのは1255。午後の配送が始まる五分前だった。
会社に戻って休憩室の冷蔵庫から弁当箱を取り出す。婆ちゃんの手作りである。毎朝弁当と熱いほうじ茶入りのサーモスタンブラーを渡してくれる。
サーモスタンブラーを運転席に忘れて来たが、取りに戻る暇はない。水道水をコップに注いでいると、江口 主任がやって来た。
「篠崎くん。どうしたんだ?」
と、あぐりの包帯が巻かれた左手を手に取って顔を覗き込む。
猫騒動について話して聞かせる間、主任は両手で包帯を撫で擦っていた。その左手薬指には結婚指輪が光っている。
「そりゃまた迷惑なことだな」
包帯の左手を更に引き寄せると、
「今夜はスワンで?」
あぐりの耳元に口を寄せて囁いた。
「だから今日は上がりも遅くなると思うし……」
「いいよ。待ってる」
と耳朶を舐めそうな勢いだったが、にわかに身を離した。パート主婦の三田村 さんや学生バイトの森林コンビが入って来たのだ。
「篠崎さーん。戻るの遅いから午後の荷物組んじゃいましたよ」
と森くんが呼びかけるのに礼を言う。
「どういたまして」
と答えるのは林くんである。
森林コンビに任せると律儀に町名順に荷物を組んでしまう。客によって回る順番が前後する場合もあるので自分で組みたいのだが、仕方がない。
テーブルに弁当箱と水のコップを置くと席につく。
「お茶入れてあげようか?」
言いながら三田村さんは既に急須にお茶っ葉を入れて湯を注いでいる。
ランチクロスを広げて弁当箱の蓋を開けると、息が止まった。
箱に白い玉が八個ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。八個のゆで卵。中には、ぱっくり腹が割れて固ゆでの黄身がのぞいている物まである。
あぐりは卵を愛している。だから婆ちゃんは弁当に何かしら卵料理を入れてくれる。卵焼き、煮卵、出汁巻き卵、オムライス、カツ煮の卵とじ……そして今日はゆで卵だが。
その横に湯呑みを置いて三田村さんが、
「あらら、すごい。タンパク質だけ摂るダイエット?」
「はは……まあ、ね」
仕方なくテーブルに常備してある食卓塩を振りかけて、ゆで卵を頬張る。
婆ちゃんの惚け具合はだんだん侮れなくなっている。
料理の味付けや量も時々異常になる。大鍋に大量に筑前煮を作ったこともある。味付けが濃すぎてとてもよそにはお裾分けできず、あぐり、叔母ちゃん、婆ちゃんの三人でちびちび食べて結局半分以上廃棄したこともある。
真柴町の大吉運送 といえば、この地ではちょっと知られた配送会社だった。あぐりの爺ちゃんが興した会社である。真柴町と本城町が合併する頃には大手の足軽運送、まほろば運輸だのが参入して来て、大吉運送は規模を縮小せざるを得なかった。
あぐりが成人するまではかろうじてトラック数台で営業していたが、今はとうに廃業している。
なのに建物は昔のままで、婆ちゃん、出戻り叔母ちゃん、あぐりのたった三人で暮らしているのだ。
台所や食堂の広さは、ちょっとした社員食堂並みである。欅の一枚板で作られたテーブルなんぞ、あぐりが寝そべっても余りある大きさである。
あぐりが生まれるずっと前、創業十周年記念に奮発したそうである。
昔はこの食卓に簡易テーブルも加えて社員や家族十人以上が入れ代わり立ち代わり席に着いては食事をしたものだった。
今やそこでちまちま三人分の料理をするのである。婆ちゃんには家族や社員ら大勢の食事を賄っていた記憶が色濃く残っているのだろう。
「すっげ! メッチャゆで卵」
「マジ? 篠崎さんの弁当マジ?」
森くんと林くんが声を揃えて驚いている。これであぐりは社内に〝ゆで卵弁当マン〟の名を馳せることになる。大小関わらずこの二人に知られた情報は漏れなく社内に広まることになっているのだ。
三田村さんはテーブルの隅にあった菓子折りから、どらやきを一つ取り出すと湯呑みの横に置いた。
「及川 さんがお別れに置いてったの。ダイエット中でも食べるのよ。こういうのはカロリーゼロなんだから」
「あざーっす! 遠慮なく」
あぐりはフィルムを剥いて甘いお菓子を頬張った。
及川さんとは最近辞めたベテランドライバーである。あぐりが入社当初、助手席に乗って指導してくれた先輩でもある。
すっかり甘くなった口の中に湯呑みのお茶を流し込む。
左手の三毛猫にひっかかれた傷は長い尾を引くようにいつまでもひりひり傷んだ。
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