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第12話
「あの日、朝からリリカはいなかった。私はよく家を空けるんで、窓はいつもストッパーをかけて細く開けて、出入り自由にしていた」
本当はそんな飼い方は良くないのだが……と田上は窓に目をやる。
腰高窓は今も細く開いていた。あぐりの掌の幅ぐらいである。あんな細さを猫が通れるのか?
「いつも朝には帰って来てご飯を食べてベッドで寝る。あの日も帰って来たのに……気がついたらいなくなっていた。
ちょうどその時、足軽運送さんが来た。荷物を受け取ってから、リリカはトラックや車に乗るのが好きだったのを思い出して……」
「それで、電話をくれたんですね」
田上は黙って頷いた。
「電話の後も家中探して……病院から電話が入ってたんだ。急患が、難しい患者が緊急入院したからすぐ来いと。
あわてて探し回って……天袋が開いているのに気がついた」
机や書棚に隠された押し入れの上には、天袋の襖が閉ざされている。
「あそこはいつも閉めてあるんだが、リリカは自分で襖を開けられる。それで覗いてみたら奥で寝ていて……手を伸ばしたら……冷たくなっていた」
リリカの亡骸を籠のクッションに安置して出かけようとした。あぐりが野良の三毛猫を連れて来たのはその時だった。
「あなたはいつもタイミングがいい……と言うのは変だが、何故か合う」
と田上は首をかしげている。それはあぐりも不思議に思っている。
あの時、田上は急患を診るために急いでいたのに、あぐりのひっかき傷を治療するのに時間を割いてくれた。
「何で亡くなったんですか?」
「さあ。外で何か悪い物でも食べたのか。それに腎臓病を患っていたし。もう十四才……人間でいえば七十二才の年寄りだった」
「七十二才じゃまだ早いですよ」
「…………」
「でも、ちゃんと家に帰って来て……田上さんのそばで安心して旅立ったのかも知れませんね」
「ありが……」
田上は言葉半ばでうつむいた。
正座した膝にぱたぱたと涙が落ちる。泣かせた。と思う一方で、たかが猫と思うからこそ安易に慰めが出たとわかっている。
「たかが猫で……すみません」
いや、だから何で人の心を読むのだ?
田上はティッシュで涙を拭いている。そして音をたてて洟をかんだ。
何となく目を背けて机の下を見た。そこにはいくつかの段ボールが積まれていた。いつもあぐりが届けている荷物である。中には未開封のゴールドバンプーの化粧箱も混じっていた。
猫の話は町中華でも続いた。
昼食に誘われた店は本城駅裏の市内でも名高い町中華の老舗とのことだった。赤いデコラ張りのテーブルが並ぶ店内は、土曜日の昼下がりとあって混み合っていた。
テーブルに向かい合い、それぞれ炒飯とラーメンのセットを注文する。
田上はビールと餃子も追加した。グラスを二つ頼んで一本のビールを分け合う。
「よかったらどうぞ」
と餃子の皿を差し出され嬉しく箸をつける。
リリカは田上の妹が拾って来て実家で飼っていた猫だった。国分寺町が実家と聞いて箸を止めた。
「何?」
と尋ねられたが「ううん」と首を横に振った。
あの野良猫がいたのも国分寺町である。もしやリリカと血のつながりでもあったかと推測したのだが、言えばまた悲しませるような気がした。
「名前をつけたのは妹だ」
と言われて吹き出してしまう。この強面に〝リリカ〟は似合わないと思えば案の定。
「何かおかしいか?」
「いや、別に」
とグラスのビールをちょいと呑む。
大学進学の際に田上はリリカと共に実家を出たという。都心の医学部に通っていたから、当時は大学近くのワンルームアパートに隠れて飼っていた。
「ペット禁止の賃貸アパートが減れば、犬猫の殺処分も多少は減ると思うが」
というのが田上の意見だった。
あぐりはと言えば、先日初めて猫の身体がみょーんと伸びるのを知ったばかりである。黙って拝聴していた。
田上はビールを呑み干すと、もう一本注文した。ななかペースが早い。あぐりはアルコールはそれほど強くないのでゆっくり吞む。
本城駅前の産婦人科病院に就職して田上は真柴本城市に戻って来た。今のアパートはペット可である。
というか人間が住んでも大丈夫なのか? と心配になる古さではある。
「今年で築二十五年だったかな」
と田上が言う。あぐりは思わず、
「俺と同い年だ」
「二十五才? 十代に見えるな。学生バイトじゃないのか」
「いや。ビールを勧めておいてないでしょう。成人ですから。そういう田上さんは?」
「成人だ。ゴールドバンブーを利用するに差し支えない三十才」
たちまち全身がかっと熱くなる。
すっかり忘れていた。あの時、自分はゴールドバンブーと散々に連呼したのだ。熱に浮かされたせいとしか思えない。
「すすす、すみませんでしたっ」
真っ赤になってテーブルに額をぶち当てんばかりに頭を下げる。あぐりが頭を上げるより早く、
「田上先生! その節はどうもお世話になりました」
新しく店内に入って来た男性客が田上に声をかけていた。
連れの男に、
「うちの子をとり上げてくれた先生だよ。もう大変な難産で……」
などと説明している。
あぐりは医者とサラリーマン風男性とのやりとりを尻目にラーメンスープを飲み干した。赤くなった顔を丼で隠したかった。醤油味の東京ラーメンはあっさり味で滞ることなく最後の一滴まで飲み干せた。
挨拶を終えて男性客二人は奥の席に就いた。「何の話だったっけ?」
と途中だった餃子をまた食べ始めて田上は、
「そうだ。ゴールドバンブーの話だ」
「だ、だから。俺、僕あの時は熱でおかしくなってて……お客様の荷物については絶対に言っちゃいけないのに。ごめんなさい。すみませんでした」
また頭を下げざるを得ない。健啖に餃子もラーメンも炒飯も平らげながら田上は心なしか笑っている。瓶に残ったビールを丁寧にグラスに注いで飲み干す。
気まずく沈黙していると、背後の男達の会話が耳に入って来た。
「いいよなあ。産婦人科医って、やり放題だもんなあ」
その男の言葉を要約すれば、産婦人科医は公に女の股を開いて局部を子細に見られる上に、好きなだけ手指を出したり入れたり出来るから羨ましいとのことだった。
さすがに赤ん坊を取り上げてもらった連れは、
「おまえなあ。出産てのは命がけなんだぞ」
とたしなめていた。
「もう行きますか?」
あぐりは気を使ってそう言ったが、
「まだ食べてる」
田上は無頓着に餃子を食べ続けている。健啖家の証拠のような頑丈な顎と白い歯をじっと見つめる。全ての皿も丼も空にしてから、ようやく田上は席を立った。
「ここは僕が払います」
すかさず伝票を取りレジに向かう。さながら巾着切りである。
支払いをするあぐりの横に立った田上はまだにやにやしているように見えた。
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