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第13話 真柴本城市の新宿二丁目

  4 真柴本城市の新宿二丁目 「コーヒーでも飲みに行こうか」  と田上は駅裏の入り組んだ路地を迷うことなく歩いて行く。  終戦直後に闇市が出来て、そのまま今に到ったこの辺は毎年のように市議会で再開発の話が出ては立ち消えになる。この地域を偏愛する人もいるらしく「再開発反対」の貼り紙も見受けられる。  宅配ドライバーのあぐりにしてみれば、番地も適当で店はよく潰れて入れ替わるし魔境に近い場所である。更に奥地に足を踏み入れて、 「この辺は真柴本城市の新宿二丁目と言われてる」  と言ったのは田上だった。 「銀座パリス吉祥寺店みたいな?」  何か違うなこの答えは。  と自ら首をかしげた目の先に見覚えのある姿があった。  華奢な男の子の肩を抱くように歩いている中年男性……江口主任ではないか。何なんだあれは? 立ち止まってしまったあぐりに田上は、 「自家焙煎の美味しいコーヒー屋があるんだ」  と指差して見せた。ちょうど江口主任と男の子がラブホテルの中に消えて行った先に〝焙煎珈琲 黑河〟の看板があった。 「新、新宿二丁目は行ったことないけど、新宿三丁目ならよく行くよ」  とっさに言って、目にしたものは忘れることにした。  ゲイが集まる新宿二丁目と道ひとつ隔てて新宿三丁目はジジババが集まる。末廣亭という落語の寄席があるのだ。  あぐりは幼い頃から爺ちゃん婆ちゃんに連れられて落語を聞きに通ったものである。爺ちゃんは既に亡く、婆ちゃんはもう遠出をさせられない。足腰は丈夫だが迷子になるのが怖い。自然あぐりも寄席に足を運ばなくなった。  細長い店内のカウンター席に並んで座り、泥のように濃く香ばしいコーヒーを飲みながらそんなことを話した。田上は妙に落語の話題に食いついた。 「落語というと笑点?」 「いや。笑点は大喜利(おおぎり)っていう落語家の遊びをテレビ番組にしただけ。落語とは違うよ」  日本の伝統芸能を学びたいから寄席に行ってみたいと言う田上に思わず、 「今度一緒に寄席に行ってみる?」  これはデートの誘いではないか? 言ってから内心あたふたするあぐりだが、田上はすぐに頷いた。 「じゃあ、志ん生って落語家を聞いてみたい。有名なんだろう。だから真生をしんしょうと読んだ?」 「うん。古今亭志ん生(ここんていしんしょう)は昭和の名人だけど、もう生きていないよ。爺ちゃんと婆ちゃんは生で聞いたって言ってたけど」 「すると今はどんな落語家がいるんだろう?」 「そうだね。真生さんが楽しめそうな芝居があるか探してみるよ」  田上さんを真生さんに変えて呼んでみる。特に嫌な顔をされることもなかった。ただ不思議そうに尋ねられた。 「いや、芝居じゃなくて落語がいいんだけど?」 「寄席の番組を芝居っていうんだ。ええと、つまり定席(じょうせき)の寄席っていうのが……」  から始まる基礎知識を語って聞かせる。  まさか自分が医者にレクチャー出来ることがあるとは思わなかった。真剣に聞いている田上いや真生は、たちまち知識をメモリーに読み込んでいるようだった。  ひとしきり語ってまたコーヒーを啜る。冷めているのに味わいは変わらない。苦味の中にほのかな甘みと酸味が感じられる。なるほど良いコーヒーとはこういうものなのかと知る。  寄席に行くのに互いの日程を合わせているうちに、いよいよ心弾んで来る。スマホのスケジュール表を見ながらふと思いついて、 「何で産婦人科医になったの? 外科医の顔してるのに」  と訊いてみる。同じ医者でも外科医なら先ほどのサラリーマンのような下卑た羨望を受けることもあるまいに。そんなあぐりの意見を真生は黙って聞くと、 「何でかな……考えたことないな。専門を決める時に迷わず産婦人科を選んでいた」  と首をかしげている。 「私の恋愛対象は男性であって、女性は関係ない」 「え、や、あ……」  あぐりは変な声を出して辺りを伺ってしまう。そんなことを公衆の面前でつらっと言っていいのか。  だが男女入り混じった客の誰もこちらを見ていない。真柴本城市の新宿二丁目? 「だから、放っておけば私の人生に女性はいなくなる。  しかし女は存在している。母親とか妹、同僚、ご近所さん。  恋愛対象じゃないからって人生から省くのは……どうだろう?」 「俺は別に省いてないよ。婆ちゃんも叔母ちゃんも」 「篠崎あぐりは省いていない」  と微笑む産婦人科医。 「私も省いてはいけないと思った。ノンケの男が女と協力して次世代を生み出すなら、せめて私は産婦人科医になって手助けをすべきかと」  あまりに気高い志に言葉を失う。  にやりと笑って真生は、 「と言えば聞こえがいいだろう?」  とコーヒーを飲む。  何だこいつは?  と、あぐりもコーヒーを飲む。 「とりあえず、人が生まれて来るところは見たかったな。  自分が何故こういう人間に生まれたのか、何故女性に欲情しないのか。わかるんじゃないかと思って」 「わかった?」 「わかるわけない」  ふっと苦味を含んだ微笑みが、めまいがする程に魅力的だった。  まずい。目が離せない。 「今は、赤ん坊の一人も取り上げてみれば……そんなことはどうでもよくなっている。ぶっちゃけ女はすごいぞ」 「すごいの?」 「あのサラリーマンが言ってた通りだ。あそこがガバッと裂けて赤ん坊が出て来るわけだよ。私たちはそこに手を突っ込んで引っ張り出したりする」 「は……そ、ですか」  あぐりは話だけで青ざめている。 「あそこが裂けりゃ麻酔なしで縫ったりもする。会陰縫合の痛みなんざ陣痛に比べれば屁のようなものらしい。脳内麻薬物質が出ているし」 「麻酔なし……ですか」  と気つけに苦いコーヒーをがぶ飲みする。 「出産というのは、ひどく原始的な……男女のセックスから繋がる大自然の営みだよ。その大自然の前ではゲイなんて……ほんのバグだよ」  嫌なことを言わないで欲しい。黙り込んだが、真生は薄く笑っている。 「従って、バグとしては産婦人科医にでもならなきゃ申し訳ないかと」 「申し訳ないって、誰に?」  真生が沈黙しているところにスマホのバイブがぶぶぶと鳴った。  産婦人科医、田上真生がまた病院から呼び出しを受けた音だった。 「わかりました。すぐ行きます」  と病院からの電話を切って真生は一言、 「大自然に……いや多分かみに……」  とあぐりを見つめた。 「かみ?」  それが〝神〟だと理解したのは別れて家路をたどる時だった。  産婦人科医にでもならなきゃ神に申し訳ない。  あぐりは唇を嚙みしめた。

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