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第19話
思わず真生から身を離して辺りを見回す。誰も見てはいない。そう言えば富樫 のおっちゃんが、砂利は防犯にもなると言っていた。
真生が言おうとしたのが「あっちゃん」か「あぐり」か?
わからないけど耳元に「好きだ」と聞こえたような気もする。だが砂利の音のせいで定かには聞き取れなかった。
すっかり覚醒したあぐりは、そそくさと助手席に乗り込んだ。尻がじんじん痛むのは転んだ時に尖った砂利が当たったからである。
それりよりも顔が真っ赤になっている。唇にまだ真央が残っている。ような気がする。少しばかり息が荒くなり、心臓は早鐘のようである。
黙って運転席に乗り込んでシートベルトを着けている真生に、
「砂利、痛くなかった? 転んだ時。大丈夫だった?」
何故か平常を装ってベルトバックルに掛けた真生の手に手を重ねる。
「多分、明日痛みが出て来るな」
と真生はその手を握り返して来る。
「……さっきの、よく聞こえなかった。もう一回行って」
「だから痛みは明日……」
「じゃなくて。好きって言った?」
にわかに握った手を引き寄せられて、また口づけをされる。あっと言う間もなく唇が離れると、エンジンをかける音が聞こえた。
「好きだ」と、はっきり聞きたかったのに。
本城駅前ロータリーで停めた車を降りて真生が運転席を降りた。助手席に座ったままあぐりはそこを動きたくなかった。
たとえばこれから真生の部屋に行きたいと言う手もある。いや、しかし、そんな性急に、何を馬鹿な……と内心じたばたしていると、窓を叩かれた。
後部座席に団子の包みが置きっ放しだった。
仕方なくそれを取って車を降りる。
「じゃあ、また。お婆ちゃんや小母ちゃんによろしく」
と団子の包みをぶら下げて田上真生は駅コンコースへの階段を上って行く。
ええと……キスをしたような気がするのだが、夢だったのか。自分はまだ熟睡していたのかも知れない。
ぼんやりと車の前を回っていると、二階コンコースの手摺りから真生がこちらを見下ろしていた。
思わずふるふる手を振って運転席に乗り込んだ。
ほんの少しシートを前に出さなければならない。このわずかな差が真生とあぐりの身長差である。そんな違いにさえ、ときめいてしまう。
家に戻ると叔母ちゃんが食堂でワインを飲んでいた。だだっ広い欅の一枚テーブルに一人ちょんと居る様は、絵画ならば〝孤独〟とタイトルを付けても差し支えないだろう。
食堂の壁に設えた食器棚も大層な設えである。中には様々な陶器やガラス器が並んでいるが、ワイングラスは数える程しかない。大吉運送の頃は酒といえば日本酒だったから、徳利や盃の方が多い。
だが父がパラグアイに行ってからは、この家で呑む酒は赤ワインがデフォルトになった。肴はもちろんビーフジャーキー。今日は団子も並んでいる。ワインに合うとは思えないが。
叔母ちゃんは空いたグラスに手酌でワインを注ぎながら、
「あの後、お婆ちゃんたらまた市川湯に行くって大騒ぎよ」
「寝たんじゃなかったの?」
あぐりもグラスを差し出して注いでもらい、立ったままワインを口に含む。
「寝たけど、また起き出して。何とか宥めて、うちのお風呂に入れて寝かせたわよ」
どうあっても婆ちゃんは銭湯に入りたいらしい。近いうちに浦安のまゆか姉ちゃんに来てもらって連れて行ってもらうか。本城町の月の湯はまだ潰れていないと聞いている。
「あっちゃん、ガラケーでもGPSを使えるって知ってた? 田上さんが言ってたのよ。お婆ちゃんのガラケーに入れとけばいいって」
「うん。今度見てみる」
「いい人よねえ……」
蜜の団子を齧りながら叔母ちゃんがしみじみ言う。あぐりは知らんふりで「何が?」と言ってみる。
「田上さん。牧原産婦人科クリニックのお医者さんなんですって? 優しいわよねえ。
私が明日香を産む時の医者、ひどかったわよ。田上さんみたいな先生に診て欲しかった」
「へえ」
「あれで独身なんて。三十才でしょう。お見合いする気はないかしら」
などと明日にでも見合い写真を持って来そうな勢いである。
「彼女いるの? いるわよね。いないわけないわよね」
一人で頷いている叔母ちゃんに、あぐりも少々不安になって来る。
いかに同性愛者とはいえ、あのスペックの三十男が独身とは考えにくい。江口主任のように世を憚って結婚している可能性はある。
疑わしいのはあのアパートに定期的に届く田上姓発送の荷物である。別宅の妻が送っているとか?
「俺も風呂入って寝るわ」
とグラスのワインを吞み干して食堂を後にした。
恋心に兆す疑心暗鬼は娯楽の一種と言えなくもない。
田上真生既婚説を疑って風呂に入っているうちに、あぐりはいつしか頬をゆるめている。
今日一日の出来事がニュース映像のように脳裏を通り過ぎ、締めはやはり真生とのファーストキスだろう。
自分の指で唇をそっとなぞり、ぐふふと怪しく笑っていたりする。
〈今日はいろいろありがとう。婆ちゃんは無事に休みました〉
ベッドにもぐってLINEをすると、すぐに既読がついた。
〈団子おいしかったです。今日はもう寝ます。あっちゃんは?〉
〈あっちゃんて呼ぶな〉
〈あっちゃんのあは愛してるのあだけど?〉
あっちゃんの「あ」は、愛してるの「あ」?
眠気がぶっ飛ぶ。
身を起こしてきょろきょろ部屋中を見回した後、
〈俺も愛してる〉
と文字を打つ。
〈真生さんを〉
とも打ってみる。送信しないうちに、
〈おやすみなさい〉
が飛んで来た。遅れをとった。
〈おやすみなさい。アイシテル〉
あ、カタカナになっちまった。
勢いで送信して枕に頭をつけるなり眠りに落ちた。温かい真綿の中に沈み込むような眠りだった。
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