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第38話

 何だかわからないがこれは冗談か?  みんなが笑っているのだから自分も笑うべきなのだろうか?  口角を上げて笑顔を作ろうとした途端に、顔に張り付いていたケーキがゆるりと動いて重力の法則の命ずるままに床に落ちて行った。床でパイは壊れて四散し、黄色いレモンジュレと白いメレンゲとが抽象画のように飛び散った。  あぐりは鼻に入った甘酸っぱい物にむせてクシャミを連発してしまう。それらもまた床に飛び散る。 「汚ねっ!」「やだ!」と笑い声に重ねてざわつく声も聞こえる。 「こいつホモなんだぜ!」  はっきり聞こえたのは江口主任の声だった。  クリームが張り付いて重い目蓋をゆっくり開くと、この上もなく楽しそうに笑っては、 「篠崎はホモ! ホモの篠崎!」  と繰り返している主任が見えた。  襟首タオル先輩や森林コンビなど男性陣が声を揃えて囃し立てている。 「ホーモ! ホーモ!」 「篠崎に尻を向けるとカマ掘られるぜ」 「わざわざ残業して主任に迫ったんだとよ」 「おかま!」  男の声ばかりである。 「やめなさいよ」「やだ、可哀想」と女性陣はおざなりに言っている。  頭の中が真っ白に冷たくなった。メレンゲが詰め込まれたかのようだ。  鈍く動く思考が、ああ、そういうことか。ばれていたのか、とゆっくりと納得した。  というか主任がばらしたのだろう。自分は戸棚の中に隠れて人に罪を押し付けた。  ああ、そうか。  何だか全てを納得した気になって、あぐりはのろのろと顔に付いたクリームを手で拭った。  ばかばかしい。  ああ、ばかばかしい。  こんなんで生きてるなんて。  にわかに浮かぶ思いは昔から胸の底にマグマのように溜まっていたものである。  それが火山のように噴火しただけである。  ああ……本当に……全くばかばかしい。 「何考えてんのよ! ケーキがもったいないじゃない!」  三田村さん、もったいないのはケーキですか?  それでも三田村さんはタオルであぐりの顔を拭いてくれている。 「それじゃ落ちないから、洗面所で洗って……」  と、あぐりの手を引っ張ったのは江口夫人だった。 「あなたってば、ひどいことを! いくらホモだからって!」  と夫に非難がましく言いながら。  けだし名言である。〝いくらホモだからって〟  いや別にいいんですよ、奥さん。確かに俺はホモですから。  あなたのご主人のアレを舐めたりナニを飲んだりしたホモですから。  ゲイなんて、すかした言い方はしませんよ。  化粧用のクレンジングタオルでクリームをざっと拭き取られる。  そして泡立てたクレンジングフォームを顔に塗られて湯で洗い流す作業が繰り返される。けれど顔にべたべた纏わり付いた油分はなかなか取れない。  夫人が熱心に汚れを取ろうとすればする程、あぐりのボタンダウンシャツは飛び散った石鹸や湯で汚れて行くのだった。 「大丈夫です。ありがとうございます」  それだけ言って洗面所から玄関に向かった。スニーカーを履いて、白い砂糖菓子のようにな家を出る。  屋根の風見鶏がキイキイと鳴くように揺れていた。

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