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第39話 約束にない約束

    8 約束にない約束  何やら風が冷たいと気がついたのは本城三叉路に来てからだった。濡れたあぐりの服は風に晒されて、身体まで冷やしている。  振り返って見れば乾いた空に〝月の湯〟と描かれた煙突がそびえ立っている。  銭湯はもう開店しているだろう。客も少ない時間帯だろうから、入浴してべたべたしたクリーム汚れを落としてしまおう。  踵を返した途端に、 「あぐりくーん!」  ばたばたと駆け寄って来る足音がした。三田村さんが後を追って来たのだ。手にはあぐりがその存在すら忘れ果てていたジャケットやバッグが握られている。 「信じらんない! あの人たち、始めからあんなことするつもりでレモンメレンゲパイを注文したのよ!」  銭湯に向かうあぐりについて歩きながら、三田村さんは怒り狂っている。  思い返せば、みんなの軽口は「乗る」だの「後ろ」だの、とうにあぐりがゲイだと気づいていると示していた。襟首タオル先輩も、森くんも林くんも。  そして江口主任はふられた腹いせにあぐりを売ったのだろう。たとえばロッカー室で無理やり迫られたとか言ったのかも知れない。  ノンケの男どもと一致団結するために。    同性愛者という薄気味悪い存在を共通の敵にして男どもは友情を確かめる。    嗚呼、仲良き事は美しき哉。  月の湯の駐車場にシルバーメタリックのランドローバーが停まっていた。  その車の横を通り過ぎて、銭湯の入り口に行く。けれど扉にはシャッターが下りていた。 「ウソウソ! 今日は臨時休業だって」  と三田村さんがシャッター横の貼り紙を指差している。  あぐりは呆けたようにただその文字を眺めていた。 「家に寄ってお風呂に……」  と言いかけて、にわかに三田村さんは明るい声になった。 「あらら、久しぶりじゃない。忙しいんじゃなかったの?」  駐車場の隅の空き地ではプラスチックの皿を何枚も広げて、猫の餌を配っている男性がいる。 「里生(りお)が風邪で寝込んで。代りに来ました」 「やだやだ。里生ちゃん大丈夫なの?」 「もう殆ど治ってますけど。季節が変わると決まって熱を出すんですよ」 「ならいいけど。そうそう。黒猫は元気なの?」 「お陰様で。全然人見知りしないですよ」  聞き覚えのある声が会話をしている。ぼんやり二人を眺めていたが、それが誰なのかどうしても思い出せなかった。  男性は野良猫たちが皿に顔を突っ込んで食べるのをひとしきり眺めてから、たった今気がついたとばかりに「やあ」とあぐりを見やった。 「はあ……」この人は知っている。けれど今が今、知りたくない。  あぐりの心はもはや冷え固まった火砕流である。その下にあったはずの優しい心も愛しさも焼け焦げて見えない。 「あらら? 田上さん、あぐりくんと知り合いだった?」  尋ねる三田村さんに、田上真生はこの上もなく嬉し気な笑みを浮かべるのだった。実はあぐりが熱で倒れた時の配送先が自分の家だったと話して聞かせている。 「やだ、うそ。世界は狭いわね。そうだったんだ」  話の合間にこちらを見る真生の顔ときたら、まるで遠足に出かける朝の男の子である。  疑いのかけらもない期待に輝く瞳である。  その眩しさにあぐりは思わず目を逸らした。  

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