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第40話
三田村さんが家の風呂を提供すると申し出たのを真生は我が事のように断わって、あぐりを国分寺町の実家に連れて来た。
国分寺町とは、かつてあぐりが三毛猫を捕まえて本城駅裏に走った因縁の町である。
ランドローバーは件のアオキの生垣のある家を通り過ぎて隣の家の前に停まった。
田上家は新建材で建てられた四角い箱のような家である。隣の昭和チックな木造平屋建てとは異なり、明らかに平成の建築だった。
真生に促されて玄関を入るとカレーの香りが漂っていた。
目の前の階段から三毛猫がしずしずと降りて来る。玄関に入ったあぐりを睨むようにして歩を進めている。ボブテイルがぴこぴこと間断なく動いているのは用心している証拠である。
あぐりは思わず飛びすさった。
「これ……前に連れてった猫。俺の手を引っ掻いた……」
真生の背中に隠れるように立つ。左手の甲には引っ掻き傷が白い線になって残っている。
「あの時の三毛猫、お千代さんだったのか」
「お千代さんて?」
「隣の猫だよ。あのアオキの垣根がある家。里生が引き取って……」
説明しかけたところに、
「ドア閉めて! またお千代さんが逃げる」
と強い命令口調が飛んで来た。
真生はあわてて扉を閉ざし鍵まで掛ける。
猫に遅れてパジャマの上にカーディガンを羽織った女性が降りて来た。黒々としたボブヘアだが、後頭部の髪だけあちこち飛び跳ねている。
「お邪魔します」
あぐりは礼儀正しく頭を下げたが、
「お千代さん。夕ご飯にしようね」
女性はまるで構わず三毛猫を抱き上げて奥に行こうとしている。
「いや。熱は?」
強引に真生が女性の額に手を当てて「まあ、いいか」と勝手に納得している。
既視感のある風景である。あの掌が冷たかったことは覚えている。
「妹の里生 。双子なんだ」
真生が紹介する。なるほど真生の小型版と言いたい程よく似ていた。
里生は「病人にカレーってないでしょう」とぼやきながら猫と共に立ち去り、あぐりも上がり框で脱いだ靴を揃えるふりで顔も上げなかった。
あぐりはどうにもうまく現実と寄り添えないでいた。
もともと主任の家を辞した後は本城駅裏のアパートを訪ねる予定だった。だから偶然にも真生と出会えて嬉しいかといえば、そんなことはない。せっかくのおしゃれシャツもチノパンもべとべとに汚れているし。
真生も週末に休暇をとったが、妹が熱を出したので保護猫活動の代理を引き受けたという。
これまでに見たことのない家庭的な姿にときめいてもいいはずが、あぐりは何の感慨も浮かばない。レモンクリームに感情が遮られているかのようだった。どう動いて何を言えばいいのかわからないのだ。
玄関からいきなり風呂場に案内されて身体を洗った。既に風呂は沸かしてあった。ぼんやり湯船に浸かっていると、
「汚れた服は洗ってるから、乾くまでこれでも着ていてくれ」
と声をかけられる。
もちろん真生は、あの男とは違うから話しかけるふりで風呂場を覗いたりしない。
〝あの男〟って誰だっけ?
思い出さなくてもいい男である。
貸してくれたのは体操着だった。胸に本城一高と刺繍があり「三年四組 田上真生」という名札も縫い付けられている。紺色のジャージの上下。ズボンの横には白い線が二本入っていた。あぐりには少し大き目で、袖口も裾も折って着た。
玄関を入った時から匂っていたカレーは、カウンター式キッチンで真生が作っているものだった。あぐりが風呂から上がって食堂に行ってみると、妹の里生が食べ終えた食器を洗っているところだった。
「病人にカレーってあり得なくない?」
とまだ言っている。
「お粥は嫌だって言ったのはそっちだろう」
「レトルト粥が嫌って言ったの。ご飯でお粥を作れたでしょうに」
「お粥なんて出来ないぞ。作れるのはカレーだけだ」
まるで漫才のように言葉のテンポが合っている。抑揚もリズムが奇妙に似ている。
話しながら真生は手を休めることはなく、二人分のカレーやサラダをテーブルに並べている。
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