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第44話 清流の砂金

「三年前にお婆さんは亡くなって、隣はずっと空き家のままだ。お千代さんは家で引き取ったよ。でもやっぱりお婆さんの家がいいんだな。ああやって家を抜け出しては隣の家に行っている」 「ごめんね」 「何が?」 「リリカのこと……亡くなった時、たかが猫とか思ってた」  真生はまた笑った。 「たかが猫だよ。それに意味を与えるのは人間だ」  にわかにけたたましくドアを開けて女性が飛び込んで来た。 「マスター、出来てる?」 「苦めのを濃く入れておいたよ。夜勤だろう」  マスターがサーモスタンブラーを差し出している。どこかで見たような光景である。  女性はそれを受け取って帰りかけたが、 「田上先生!」  真生を二度見した。 「北海道じゃ……? ご両親の銀婚式のお祝いで家族旅行って。だから電話しなかったのに。いるなら来てくださいよ」  何だそのわかりやすい嘘は。  両親を北海道旅行に送り出したついでに自分もそうであるかのように偽ったのか。    呆れて真生を見れば、見事なまでに慌てふためいている。もう残っていないコーヒーカップを持ち上げて飲むふりをしたりソーサーに置いたりした揚句、 「今日……今日は絶対に休みだって言ったじゃないか。何があっても出ないぞ」 「だって、こないだの患者さん。やっと産気づいたんですよ。田上先生じゃないと無理です」  真生はあからさまに女性から顔を背けようとしているが、あぐりはその腕をつついた。 「行ってあげたら? 俺は先に部屋に帰ってるから」 「でも……明日まで帰れないぞ」 「いいよ。だって真生さんは、それぐらいしなきゃ神様に申し訳ないんでしょう?」  少しばかり嫌な顔をして真生はあぐりを見やった。そして立ち上がると、 「明日の帰りも遅くなると思うが……勝手に寝ててくれ」  とサーモスタンブラーを持った女性と共に店を出て行った。  コーヒーを飲み終えて黑河を出ると、あぐりは牧原産婦人科クリニックの方向に目を向けた。ここからは見えないが走って行けば十分程で着くはずである。  ああ……やっぱり好きなんだ。  まるで嘘がへたで、正直さの余りにカミングアウトしてしまう田上真生が。    あぐりの意志を尊重してくれる、後頭部の髪がつんつん立っている、そんな田上真生が好きなんだ。  そう思えば笑うことが出来る。レモンメレンゲパイの脂分が遮っていた気持ちがやっと心に寄り添った。    9 清流の砂金  真生の部屋では黒猫のロブが待っていた。  もう慣れているから玄関に入るとやって来てあぐりの脚に額を擦りつける。額から出る匂いをお気に入りの物につけているのだ。  真生の母親に持たされた手提げ袋を床に置くとそれにも額を擦りつけている。 「いい子でいたか、ロブ?」  部屋に上がると明かりをつけた。    猫の餌皿には山盛りのドライフードが盛ってある。今夜のように突然帰れなくなった時のために、餌は多めに置いてあるという。  敷き詰められたホットカーペットが暖かいのは、夜から朝にかけて点くようにタイマーセットされているのである。  温もっている床に腰を下ろして室内を見回すと、随分と整理整頓されている。机の下に重なっていた段ボール箱も片づけられている。  思わず「ははは」と声を出して笑ってしまう。  大掃除をしたのだろう。あぐりを迎えるために。  朝早くからうきうきと掃除をして、それから妹が熱を出したと連絡を受けて実家に走ったに違いない。  多分あの妹は保護猫の世話を代理でして欲しいと頼んだだけのように思う。なのに真生は唯一出来る料理のカレーを作ってやり、月の湯に出かけてあぐりに出会った。  充実した休暇ではないか。あぐりとはあまりに違う様相に何故だか笑いが止まらない。ひくひくと腹を痙攣させながら寝転ぶとロブがやって来て脚の間に横たわった。顎を脛に乗せて落ち着く。  隣の寝室もさぞやベッドに真新しいシーツが敷かれているだろう。けれど今は覗く気になれない。いつものようにクッションを枕に毛布を被って眠りにつく。  ずぶずぶとまるでレモンメレンゲの中に沈み込むような睡眠だった。

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