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第43話
「待って! これを持って行きなさい、真生」
何やら詰め込んだ手提げ袋を抱えて母親が車に駈け寄って来た。まだ助手席のドアを閉めていなかったあぐりに、
「あなたの服やバッグでしょう。まだ乾いてないけど」
と押し付けた。
「嫌な思いをさせてごめんなさいね」
と床に揃えてスニーカーを置いた。抱えられて来たから玄関に置きっ放しだったのだ。
いつもなら常に愛想のいいあぐりが、もう何の反応も出来なかった。
黙って靴に足を突っ込んだ。そして手提げ袋を抱いてドアを閉めた。真生は黙って車を発進させた。
道はいくつかあったのだろう。
まっすぐ自宅に連れ帰ってもらう。
このまま真生のアパートに行く。
だが、あぐりが言ったのは「コーヒーが飲みたい」だった。
焙煎珈琲の店、黑河でカウンターに並んでコーヒーを飲んだ。
あぐりはまた新しい種類のコーヒーを試した。今回は酸味がかなり抑えられた甘味のある物だった。そして訊いたのは三毛猫のことだった。
「お千代さんて、里生さんの猫じゃないの?」
「もともとは隣の家の猫だった」
田上家があの地にマイホームを構えたのは真生と里生が小学校に上がる年だったという。その頃、アオキの生垣がある隣家には老夫婦が住んでいた。子供がいない夫婦は双子を我が子のように可愛がってくれた。
やがて老人が亡くなり、一人暮らしになった老夫人は猫を飼い始めた。その猫が産んだのが千代やリリカだった。
「え、リリカとお千代さんは姉妹なの?」
「そう。私たちが高校に入学した年だ。お千代さんは隣のお婆さんが飼って、リリカは家で引き取った。ほとんど里生の猫だったけど。猫ベッドも里生の部屋にあったし」
「なら、何で真生さんが大学に行くのに東京に連れてったの?」
「さあね。里生はわりと心配性だから」
「何を心配したわけ?」
真生は黙ってコーヒーを飲み干した。先ほど泣いたせいか目が真っ赤になっている。
「隣の家に柿の木があったろう。そこにぶら下がったことがある。ロープを首に掛けて……」
カウンターの下で真生の膝にそっと手をのせる。千代にひっかかれた傷が残っている左手である。
「何で?」
と尋ねるのに真生は、口の端を上げて首を傾げた。
「カミングアウトしたのは高校二年の二学期が始まってすぐだ。家ではあのザマで……学校でも結構な目に遭って……」
真生には隣の家のお婆ちゃんだけが救いだったという。
下校すると自宅には帰らずまっすぐ隣家に行った。千代と遊んだりお婆ちゃんとお茶を飲んで話したりした。勉強もほとんど隣の家でしたという。
だが、ある夜ふとクライミングロープを携えて隣の庭に忍び込んだ。
「柿の木というのは枝が折れやすいそうだ。すぐに折れて……お千代さんにワーワー鳴かれて参ったよ。お婆さんやうちの親も飛んで来て……」
テーブルの上から真生の右手が下りて来た。膝の上にあるあぐりの左手に手を重ねる。あぐりは掌を返して指を絡ませた。
「それで、一人で東京に行って何かあったらと思ったんだろう。里生は東北の大学に行ったけどリリカは貸してくれた。わりと正解だったかもな」
「猫って撫でてると何だか落ち着くよね」
真生は笑って頷いた。
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