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第42話

 真生は母親を押しのけて奥に父親を追っていた。リビングで父子が何か怒鳴り合っているが、あぐりはただ棒立ちになっていた。頭が声を言語として認識するのを拒否していた。  主任の家で「ホーモ! ホーモ!」と囃し立てていた男どもの声がまた蘇る。  結局のところ真生の父親が息子に対して怒鳴っているのも似たような内容だった。 「親を旅行に追い出して、薄汚いホモを家に引っ張り込んだのか! どういう神経をしてるんだ」 「あなたってば。真生も里生も銀婚式のお祝いに旅行をプレゼントしてくれたのよ」  と母親は夫と息子の間に立って、争いが言葉以上になるのを防いでいる。  全く唐突にあぐりは叫んでいた。 「悪かったよ! ごめんなさい! ホモなのに人ん家に上がり込んで」  レモンメレンゲパイを投げ付けられて以来、感情には薄い膜が張っている。だから言葉がどこから湧いて来るのかも知れないが、リビングの戸口に直立不動になり拳を握って叫んでいた。 「気に入らないならレモンパイぶつければいい! カレーぶっかけてもいいよ! 薄汚いホモで悪かったね!」  父親の胸倉を掴まんばかりにしていた真生は、その形のまま固まってあぐりを見た。 「でも、真生さんは、真生さんは……。父親がそんな言い方ないだろう! 親が、家族が味方しなかったら、誰がいるんだよ。レモンパイぶつけられた時に誰が庇ってくれるんだよ⁉  真生さんは何も悪いことしてない。なのに、何で家族がそんな風に……」  喉が裂けんばかりの大声で怒鳴り散らしていた。乾いていない洗い髪から水滴が飛び散り、泣いてもいないのに涙を流しているかのようだった。 「いい。やめろ! 悪かった。連れて来て悪かった!」  あぐりの視界が遮られた。真生が全身でその姿を父親の視界から隠そうとしたからである。それでもあぐりの言葉は途切れることなく続いた。 「男と女でマンコするのがそんなに偉いかよ⁉ マンコ出来ないからって何でみんなしてレモンパイなんか……」 「マン……マン……」  と、さすがに言葉を失っている父親である。 「いいから。ごめん。帰ろう」  真生はあぐりを強引に抱え込んで玄関を出た。けれど、あぐりの言葉は止むことのない永久機関のように続いていた。 「女を孕ませられないのが悪いかよ⁉ 好きでこうなったわけじゃない! 真生さんが産婦人科医になったのは、そのためなのに。ノンケなんか勝手に女好きに生まれただけじゃないか。なのに何でそんなに偉そうに人を馬鹿にする⁉」  壊れた人形のように喚きながら真生にランドローバーの助手席に担ぎ上げられた。罵りながらも泣いてはいなかった。  むしろ涙を流しているのは真生だった。あぐりのシートベルトを着けている間も声を殺して泣いていた。  隣のアオキの生垣の中では里生の声がしていた。 「お千代さん。いるの? いるんでしょう。お千代さん」  とてつもなく優しい声だった。  真生が運転席に乗り込んでエンジンをかけると妹の声は消えた。車のライトが隣家を照らし出す。  家屋の横に立っている柿の木に猫の瞳が光っていた。三毛猫である。そろそろと木の枝を伝って瓦屋根に近づこうとしている。  屋根の上にも猫がいた。巨大なトラ猫である。額に〆印のあるヤクザじみた猫。やがて二匹は寄り添って車を見下ろすのだった。 「あそこがお千代さんの本当の家だから」  何の脈絡もなくそう言うと、真生はアクセルを踏もうとした。

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