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第45話
目が覚めると窓の外から雀の鳴き声がした。近くの本城駅から電車が動く音がごとごと響いて来る。這いずって隣室の襖を開けて見る。真っ暗な寝室にはベッドばかりが鎮まり返っている。
結局、真生が帰宅したのは正午に近い頃だったらしい。あぐりが昼食を買いにコンビニに出かけて帰ってみると玄関に靴が脱ぎ捨てられていた。
いつもの習慣でそれを揃えて並べてから寝室を覗くと真生が眠っていた。
疲れ果てた様子で熟睡している。うっすらと髭が伸びているのも、眉間に皺が刻まれているのも敗軍の将さながらだった。仕事はあまり良い結果ではなかったのかと想像する。
ベッドの傍らに座り込んで寝息に耳を傾け、寝顔を堪能する。眉間の縦皺に指先で触れてみたが「んん」と呻って手で払われただけだった。
真生がにわかに身を起こしたのは、一般的な飲食店のランチタイムが終わる時間帯だった。「腹が減った」とシャワーを浴びて身支度をしている。
「もうお店はランチタイム終わってるよ。コンビニおにぎりを買ってあるから……」
と声をかけるも「いいから」と真生は強引に出かけようとしている。
あれ? と思い出す。
そう言えば、出会った頃は命令口調の偉そうな奴だと思った。別にそれは今も変わってないのだ。自分の受け取り方が変わったに過ぎない。
先に立って玄関で靴を履いていると、上着を羽織りながら真生が来た。上がり框から下りようとしている姿に、ドアを開けるのをやめてにわかに振り向いた。
「待って」
と上にいる真生の首っ玉にしがみつくようにしてキスをする。面食らっている真生に、
「この前の……仕事の時の続き」
へへっと笑って見せる。
むっとした表情の真生に、怒らせた? と案ずる間もなくきつく抱きしめられ、もっと濃厚なキスを返される。たった今使ったアフターシェーブローションの香りがあぐりを包み、悩ましさにくらくらする。
悶えるような両の手で逞しい腕や肩をまさぐらずにはいられない。真生はあぐりを痛いほど強く抱き寄せて、玄関から部屋に抱き上げようとしている。
「靴! 待って待って待って」
叫べばすぐに力をゆるめる真生である。
玄関を上がってから靴を脱いだのは以前にも覚えがある。靴を脱ぐと上着を剥がされながら寝室に誘われる。
「昼飯は?」
「後でいい」
と言いながら、着たばかりのジャケットもシャツも脱ぎ捨てている真生である。あぐりとて皺だらけのボタンダウンのシャツを脱ぎ散らかしているのだが。
居間の猫ベッドで眠っていたロブが、ちらりと顎を上げたが寝室に消える二人を興味なさそうに眺めて、また目を閉じた。
烏カアで夜が明けて……
落語で色っぽい場面の際よく使われる台詞である。
だが今は昼過ぎである。いわゆる昼下がりの情事。
淫らな喘ぎが一向に治まらないまま、あぐりは口元を緩めずにはいられない。頬を寄せた真生の胸でも鼓動は激しく鳴り続けている。「もう一回」と催促せんばかりに。
だが続いてぐうと聞こえたのは、真生の腹の虫だった。
「すまん。飯に行こう」
と起き直る真生に、あぐりときたら、
「一回じゃ足りない」
とか何とか言っている。
この台詞を言うべきはこの凶悪顔で高圧的な男ではなかったのか?
あり得ない。
「帰ってから、また……」
と身支度をしながら真生も満更ではない笑みを浮かべていた。
夕暮れの町を並んで歩く。案内されたのは駅前にある老舗の洋食屋だった。ごく気楽な店でギンガムチェックのクロスがかかったテーブルにフォークやナイフ以外に割り箸も置いてある。
あぐりはナポリタンの目玉焼き添え、真生はハンバーグ定食にまたビールを付ける。
あぐりが手を出すのを断わり、真生は自分で丁寧にグラスにビールを注いでいる。真っ白で細かい泡が立っている。
「俺はちょっとでいいから」
とグラスを差し出して注いでもらう。
白い泡に蓋された琥珀色の液体が健啖家の口中にすいすい飲み込まれて行く。そうしてグラスを空けるまでの流れが真生には楽しくてたまらないようである。だから他人にビールを注がれたくないと言う。
あぐりはといえば、その様を見つめるのが好きなのだ。目で促されて注いでもらったビールを持ったままなのに気づき、あわてて吞む。
「真生さんて三度三度ちゃんと腹が減るんだね」
「そう言うあっちゃんは、ちゃんと食べているのか? 痩せ過ぎだ」
「別に……」
言い訳しかけて思わず頬が赤らんだのは〝痩せ過ぎ〟という言葉につい先程までの痴態が思い起こされたのだ。あの繊細な指先であばら骨をなぞられた。そんなことを考えていたのか。
「べ、別に食べてるけど……婆ちゃんのことや、会社のこととか、いろいろあって何だか面倒になって」
そんな心を知ってか知らずか、真生はナイフとフォークでハンバーグを切り分けながら、「三田村さんが言ってたけど……」
ちらりとあぐりの顔を見る。
「会社の人達に、ひどいことをされたとか」
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