50 / 100

第50話

「すまない。仕事の途中だから。また後で伺うよ」  と車で走り去った真生は心配そうな目をしていた。  けれど、あぐりはランドローバーが発車する前に背を向けて寺に向かっていた。  それからのあぐりの記憶は途切れ途切れになっている。  婆ちゃんの遺体の前で手を合わせて読経をしたのかしなかったのか覚えてない。  それ以前に死に顔は見たのだろうか覚えていない。  ただ通夜ぶるまいの酒を吞み過ぎて、早々に寝てしまったことは覚えている。  二つ折りの座布団を枕にして寝転がっていると誰かが毛布をかけてくれた。 「あの頃は大吉運送も大忙しでねえ。兄さんが大雑把だから事務方の悦子さんは大忙しよ」 「そうそう。あぐりを生んですぐ仕事に戻ったでしょう。男ばかりの事務所でおっぱいをやるのよ。みんな目のやり場に困るって言うから、あの中国式の衝立を贈ったのよ」 「でも結局、搾乳して冷凍したのをお婆ちゃんがあげるようになってねえ。実際にあぐりを育てたのは婆ちゃんよね」  女たちがぼそぼそと話している声が夢か現か遠くに消えて行った。  翌日の葬儀は二日酔いの頭痛のお陰で、記憶能力は更に遠くに消えていた。  通夜には間に合わなかったパラグアイの父親が葬儀に出席していた。外国人の女性を伴っていた。  真生も来てくれた。凛々しい喪服姿に見惚れる節度のなさを叱る人はもうどこにもいなかった。  坂上神社の宮司である御園生先輩も黒紋付の和装で来てくれた。  会社からは三田村さんがやって来た。三人とも、あぐりの行方不明について叔母ちゃんから電話を受けていた。 「ごめんなさい。あの時、私が主任の家に忘れて来たから」  と三田村さんが出したのは、あぐりのスマートフォンだった。主任の家でケーキの動画を撮ったまま、その場に放置されていたのだ。それを主任が会社に持って来て、三田村さんに託したらしい。 「別に三田村さんのせいじゃないです。忘れたのは俺だし」  淡々とそれを受け取った。電源は既に落ちていた。後になって充電したところ、叔母ちゃんや会社から何本ものLINEや留守電が入っていた。  結局、叔母ちゃんは思いつく限りの所に電話して、最後に一度だけ会った(だから遠慮もあったろう)田上という産婦人科医師を思い出した。  それが通夜の日だった。  お斎の席で叔母ちゃんと兄ちゃんが強い口調で言い合っていた。  何より叔母ちゃんが憤懣やる方ないのは、富樫のおっちゃんを使って駐車場に砂利を撒かせたきり改善しなかったことだった。  それが婆ちゃんの死因になったのだから当然の怒りではある。けれどその裏には、勝手に持ち去られた檜の一枚板のテーブルや食器類についての恨みもあるようだった。  あぐりには叔母ちゃんの気持ちは理解できた。  あの食卓は大吉運送の家族団欒の象徴だったのだ。一族が楽しく集っていた頃の。婆ちゃんが認知症を患って以来帰りたかったのは多分あの頃の家だったのだろう。  あたりを見回せば、当時ドライバーとして働いていた男たちも弔問に訪れていた。金髪頭はタケ兄ちゃん、寄り添っている赤毛は妻のマリ子さん。ゲンさん、ハジマ兄さん、タツキさん。覚えているのは呼び名だけだが、ちびっ子だったあぐりが憧れた男たちだった。いずれこうなりたいと思っていた男たちが喪服姿で酒を酌み交わしている。  兄は兄で父親が連れて来た外国人女性について文句を言っていた。それは正式な妻なのか。現地に子供はいるのかと。  兄がパラグアイ女性を見る目は、真生の父親があぐりを見た時の目に似ていた。まるでゴキブリか蛆虫を見るような目つき。  何故だかあぐりはその場の流れとはまるで脈絡なく、茶碗蒸しのスプーンでカンカンカンと食器を叩いて一同の注文を集めた。  そして、 「今まで黙ってたけど、俺ホモだから。同性愛者。だから一生結婚しないよ」  と宣言していた。  どう考えてもこの場にふさわしい告白ではない。  怪訝な目があぐりに集中した。

ともだちにシェアしよう!