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第52話

 自室に入りベッドに寝転んでも、階下の食堂で叔母ちゃんとまゆか姉ちゃんがいつまでもぼそぼそと話す声が響いて来るのだった。 「あぐり」という名前について婆ちゃんはことある毎に憤っていた。だから殊更に「あっちゃん」と呼んだ。  鈴木亜久里というレーサーにちなんだと言ったのは父親で、吉行あぐりという朝ドラのヒロインにもなった美容師にちなんだと言ったのは母親だった。  だが小学校の授業でパソコンの操作方法を覚えたあぐりは、その名前の意味を検索してみてひどく納得したものだった。  労働力となる男児が尊ばれた時代、女児ばかり続いて生まれた家庭ではもう女児はいらないという意味で「あぐり」と名付けた。 「末」「留」「捨て」などの名前も同様の意味である。  婆ちゃんの篠崎スヱという名前も、篠崎あぐりと大差ない。  だからこそ両親の命名に憤ったのかも知れない。  あぐりは四人兄弟の末っ子である。崇という漢字の立派な名前をもつ長男の後は、さおり、まゆか、あぐりと平仮名名前が続く。長女、次女はともかく次男の自分までも平仮名なのが、いかにもである。  女の子ではないけれど、両親にしてみれば四人目は何かの手違いだったのだろう。  だから、あぐり。  中学生になっても一向に女の子に興味のもてない自分を知り、名前の意味も重ねて見れば人生全般に興味を失うのだった。  いつ死んでもいいや。  どうせ、あぐりだし。  社内規定で祖母の忌引きは三日である。けれど、あぐりは残っている有給休暇を総ざらえすることにした。婆ちゃんの介護で目減りしていった有給休暇である。もう使う必要もない。 「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」  と電話口で謝る相手は江口主任である。誕生日パーティーで「こいつホモなんだとよ!」と、いの一番に騒ぎ立てた男である。 「大変だったろう。しばらくゆっくり休むといいよ」  鹿爪らしい声で言う。そんなものに傷ついてはいられない。  出社すれば今度は葬儀で迷惑をかけたとみんなに謝って回らなければならないのだ。唾吐きかけて足蹴にしてやりたい連中に。  葬儀の翌日もまだ二日酔いは残っていた。というか叔母ちゃんに勧められた最後の赤ワインが止めを刺した(アルコールに弱いにも程がある)。  喪服を脱ぎもせずベッドで寝落ちして、目覚めたらとうに出勤時間は過ぎていた。あわててスマホで会社へ連絡したのだ。  二度寝しようとジャージのパジャマに着替えていて気がついた。首の根元に大判の絆創膏が貼り付いている。  いつ貼ったっけ?  まるで記憶にないけれど剥がしてみる。  部屋の鏡に映して見ればキスマークが一つならず隠れていた。肌に残る赤黒い内出血の跡。  真生がここを何度も強く吸ったことは覚えている。それで達したことさえあった。  恐る恐る自分の身体を見回せば、あちこちに似たような色合いの印が見て取れる。  あの汗と唾液と何だかわからない粘液にまみれた、夜だか昼だかわからない捻じれた時の流れに印された淫乱の証。  この絆創膏は真生がアパートの玄関を出る時に貼ったのだ。  あぐりは指に貼りついた絆創膏を両手でぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。  震える手でパジャマの上着を臍が隠れるまで下ろし、袖も手首まで引き下ろす。ズボンもきちんと履く。衣類の外に見える跡はない。それだけを確かめてまたベッドに倒れ伏した。  頭は真っ白になっている。がんがん痛むのは二日酔いのせいに過ぎない。ただそれだけである。  それから数日間あぐりは家に籠った。叔母ちゃんに呼ばれた時だけ階下に降りて食べ物を口にした。それ以外は部屋のベッドに籠ってひたすら眠った。あの猥らな夜の睡眠不足が今になって襲って来たに違いない。

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