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第56話
新しい主任が決まる前に、あぐりの転勤が決まった。
本社関東営業部にドライバー教育をする部署がある。サービス強化に伴い、各営業所から選抜した現役ドライバーを指導員として入れることになったのだ。
あぐりは真柴本城営業所代表として選ばれたらしい。全ての項目が特Aだったそうである。客の家でお茶を飲んだのに?
別の客の家では玄関先でキスを……いや、そんなことは忘れるのだ。
年内には異動して新年から業務開始という急な話だった。都心の本社に通うに当たり、会社が借り上げているワンルームマンションにも住めるという。あぐりは迷うことなくその辞令を受け入れた。
この先、大吉運送社屋だった無駄に広い家は解体されてマンションが建つ予定である。その間の仮住まいに頭を悩ませていたのだ。渡りに船である(何だこの昭和なたとえは?)。
最後の日まであぐりは黙々と配送の仕事を続けた。本城駅裏の真生のアパートに不在票を投函することも多々あったが、顔を合わせることはなかった。
休憩室で昼食をとることはなく、トラックの運転席で一人コンビニおにぎりを食べた。たまに三田村さんと言葉を交わすぐらいで他の社員とは業務以外の口をきくことはなかった。
会社を辞めたり部署を変わる者は最後の日に菓子折りなどを持って社内を回るのが通例だった。あぐりは自分をパイ投げの標的にした連中に何を送る必要があろうかとは思ったが、どうしても婆ちゃん子の礼儀正しさを消すことが出来なかった。
叔母ちゃんが気を利かせて包装してくれたビーフジャーキーやマテ茶のティーバッグを最終日に持参した。少なくとも自分の懐を痛めた物ではないし……と、朝から皆に配って回った。
昼食に休憩室に顔を出してみると、三田村さんがテーブルに山盛りになったビーフジャーキーをその場のみんなに勧めていた。
「あぐりくんがお別れにくれたのよ。いただきなさい。こういうのはカロリーゼロなんだから」
パートの三田村さんは上りが早い。あぐりは正面に行くと、
「三田村さん。いろいろお世話になりました」
と深々と頭を下げた。
「やだやだ。そんな畏まって、あぐりくんたら」
と笑いながら三田村さんは、いつでも月の湯の餌場に遊びに来てくれと言うのだった。
「あ、でも東京に行っちゃうから無理かしら」
「いや。真柴本城市も東京ですけど?」
これは真柴本城市では定番の冗談である。都下でありながら誰もこの地を東京とは思っていないのだ。
ついでに、その場にいる人々にも頭を下げて回った。配送が遅くなって上りも遅れれば、挨拶できなくなる人も多い。
「今日までですから。お世話になりました」
挨拶に時間をとられて昼食は立ったままコンビニおにぎりを口に押し込んだ。
ゴミ箱にゴミを捨てに行く。ポリバケツの蓋を開けると、ビーフジャーキーが山のように捨ててあった。あぐりはただその上におにぎりのフィルムを捨てて蓋を閉めた。
感情にもとっくに蓋がしてある。
さすがに最終日は九時までには上がれた。最後のアルコールチェックを済ませて、ロッカー室で制服を脱ぐ。制服、業務用スマホなど細々した備品を庶務に返して書類を受け取る。
最後にタイムカードを打刻して玄関から外に出ると、とっくに帰ったはずの学生バイトの森くんと林くんが待っていた。
送別会があると言うのだ。そんな話は聞いていないと拒否しようとしたが、自転車置き場で両脇を固められる。
「サプラーイズ!」
「はいはい。駅前の船徳茶屋に行きましょうね」
まるで逮捕された犯人のように二人に車に連行される。振り払って逃げることも出来た。けれど送別会を断わる無礼は働けなかった。
こんな連中を相手に無駄な義理堅さである。ふと頭の片隅に叔母ちゃんの言葉が浮かんだ。
「あっちゃんはもっと自分のことを大切にしなさい」
それは今、関係ないだろう?
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