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第59話
都心の新居には叔母ちゃんの軽自動車を借りて、布団や身の回りの品を運び込んだ。
一人の引っ越しなど簡単なものだった。
最低限必要と思える物と、
「こういうの一人暮らしに役立つんじゃないかしら?」
と叔母ちゃんが納戸や押し入れから出して来る品々を段ボール箱に詰める。一人用炊飯器、電気ケトル、小鍋に箸に茶碗に急須そして湯呑み。手つかずの新品がいろいろ揃うのが古い家だった。
段ボール箱梱包もお手の物である。丸めた新聞紙を緩衝材代わりにして箱にきっちり詰め込む。
引っ越し会社を辞める頃には所謂おまかせパックの担当で、細かな物の箱詰めからやっていたのだ。〝カスタマー・フェイバリット・ホスピタリティー賞〟などと舌を噛みそうな賞も何度か受賞した。細やかな気配りで客の評判がいいと褒められたものである。
ゲイという異分子がその場で身を守るには優秀な成績でいるしかない。あぐりは何となくそんな風に感じて努力もしていた。
だが実は、単なる関節技の方がはるかに自分の味方だったのかも知れない。
引っ越し作業をしていると奇妙な記憶が蘇ってきた。
あのろくでもない送別会の後、本城駅の二階コンコースを抜けてあぐりは駅裏まで出たのではないか?
何ひとつためらわずに真生のアパートを目指したはずだ。
ブロック塀の奥の廊下は蛍光灯が切れかけてちかちか点滅していた。バリッと音をたててキーケースを開いて合鍵を出すと開錠した。
そしてドアを開けると薄暗がりに、果てしない空間が広がっていた。
台所の食器棚、雑然と置いてあった段ボール箱、あの黒い往診バッグも何もかもない。
背後の廊下の明りが点滅しては何もない玄関や台所を照らし出していた。
振り分けの部屋のうち、寝室に使っていた六畳間は台所からの戸は閉め切りだったが、今や全開されておりベッドも何もないのっぺりとした空間を見せている。
突き抜けの居間にも家具はなく、カーテンのない窓からは隣り合ったアパートの窓の明かりが漏れていた。
「ははははは……」
酔っ払いは無意味に笑って下駄箱の上に手を付いた。いつもはネーム印やボールペンなどが入ったトレイが置いてある場所だった。帰宅した真生はキーケースもそこに置く。だが今は何もない。
転宅したのだ。引っ越した。
何で……?
何故自分に黙って引っ越すのだ?
それは……だって自分が新しい連絡先を教えなかったから。
そう納得しながらふらふらとまた本城駅ビルコンコースに戻った。
ミソッチ先輩に揺り起こされたのは、多分その後なのだろう。半分夢と思っていたから記憶からも取りこぼしていたが、あれは事実ではなかったか?
田上真生は駅裏のアパートを引っ越して、どこかに消えていた。
じゃあもういいや。思い残すことはない。本当に生きている必要はない。近いうちにどこかから飛び降りよう。
自室の荷物と自殺の決意を箱詰めしてガムテープで封印した。
車で都心に出るには鉄道の駅とは逆方向に走る。
本城三叉路の一本を選んで月の湯を遠目に見ながら坂道を上がると、ミソッチ先輩が宮司を務める坂上神社がある。
そこから田園風景の中をスワンホテルなどのラブホが点在する一本道を走り、高速道路に乗る。
あぐりが運転し、叔母ちゃんは助手席に乗っている。
後部座席には布団袋から段ボール箱まできっちりと詰め込んだ。後方確認にやや難のある積載量で、パトカーに見つからないことを祈って走った。
失われた避難所を確認したあの夜、あぐりはミソッチ先輩の車で家まで送ってもらった。
暗く臭い家の中に入ってまず思ったのは、婆ちゃんは寝たのかな? だった。
そして仏間の襖を開いてから気がついた。
婆ちゃんは永遠に眠っており、もう起きることはないのだ。
仏壇の前には四十九日法要が済むまでの賑々しい中陰檀が飾られている。生前に撮影しておいた遺影は、にこにことご機嫌の婆ちゃんである。蝋燭は倒れても火災の心配がない電球式だった。
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