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第60話
そして今日、出発前に叔母ちゃんは家中の鍵を掛けて回った。エンジンをかけながらあぐりは初めて思い到る。明日からこの広い家には叔母ちゃん一人しかいないのだ。
「大丈夫?」
と心配すると、まゆか姉ちゃんが定期的に帰ることになったし、富樫のおっちゃんも見回りに来てくれるから大丈夫だと答える。
社命とはいえ相談もせず勝手に決めて、叔母ちゃん一人を残すことを案じもしなかった自分を今更悔やむ。
新居は月島だった。都内では下町に類する地域らしい。まゆか姉ちゃんが済む浦安駅にも地下鉄を乗り継いで簡単に行ける。
地下鉄月島駅に程近いワンルームマンションの専用駐車場に軽自動車を停めて、荷物を部屋に運び込むのに半時もかからなかった。
駅付近はもんじゃ焼きのソースの匂いばかりが漂う、もんじゃストリートなるものがある。
叔母ちゃんと二人で初めてもんじゃ焼きを食べるのだった。鉄板に広がった姿は何とも見苦しい食物だが、食べて見れば下世話なソース味が懐かしい味だった。
「下町っぽくて暮らしやすそうじゃない? スーパーもあるし、さっき銭湯もあったわよ」
と食後の腹ごなしに町をそぞろ歩いて、叔母ちゃんは軽自動車を運転して帰って行った。
別れ際、
「いけない。忘れるところだった。これ、あっちゃんの物だから」
バッグから出したのは事務的なファスナー付きポーチだった。中に入っているのは銀行の通帳二冊と印鑑だった。名義は篠崎あぐりである。
「婆ちゃんが作ってくれた通帳よ。あっちゃんが就職してから家に入れてくれたお金を全部積み立てていたのよ。
それと、亡くなったお母さんが積み立ててくれた学資定期預金。合わせると結構な金額になってるよ」
「うん」
「通帳と印鑑は別々に保管しなさいよ。大事に使うのよ」
「うん。わかった」
子供のようにこくんと頷いてポーチを受け取った。
「それと、今朝届いてた郵便。あっちゃんの分ね」
会社からの通知やダイレクトメール、そして田上真生からの分厚い封筒だった。
住所など教えた覚えもないのに、大吉運送の住所が番地まで間違えることなく書かれていた。封筒にはMaoとサインがある。あの製薬会社の名前が入ったペンで書いたのだろうか。
新しいワンルームの部屋に戻るなり封を千切って開けた。そしてブルーブラックのインクで書かれた真生の文字を読んだ。
〈急ですが引っ越しました。アパートの老朽化に伴い取り壊しが決まったからです。
直接伝えられないのが残念です。スマホを新しくしたのでしょうか。どうか連絡先を教えてください。
あなたにはまだ心の整理がつかないことかも知れませんが、あえて申し上げます。
おばあちゃんの不幸と私たちのことは全く別問題です。あなたと二人きりでいる時におばあちゃんが亡くなったから私を恨んでいるのでしょうか。
死は理不尽なものです。
だから人は誰かが亡くなると何かしら理由を作りたがります。けれど残念ながら人の死に納得できる理由などないのです。あるのは医学的な説明だけです。
おばあちゃんの死に対してあなたも私も、誰も責任をとる必要はありません。
すべきはただ悼むこと、思い出を語ることだけです。
あなたにはそう簡単に割り切れないのかも知れません。
でもどうか忘れないでください。
何があろうと私は変わらずあなたを愛している。
一緒になりたいのです。
今回の引っ越し先もあなたと二人で暮らせる広さを選びました。
あなたの気持ちが落ち着くまで焦らずに待つつもりです。
何かあればいつでも連絡してください。待ってます。〉
そんな内容で、新住所も記されていた。
真柴本城市国分寺町……田上の実家に近い場所だった。
あぐりは荷物の開梱も忘れて、便箋何枚にもわたる真生の手紙を貪るように何度も繰り返し読んだ。それが新居での第一夜だった。
現実的にはもっと重要なはずの通帳入りポーチは、段ボール箱の上に放り出したままだった。どこかに隠すべきだと思いついたのは、座卓やカラーボックス、衣装ケースなどの家具を購入してからだった。
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