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第62話

「へえ。初めて見た。篠崎さんて、そうなんだ」  無邪気に言ってあぐりをじろじろ見る小太りは〝吉田〟という名札を下げていた。 「そういう言い方は失礼でしょう」  とまた突っ込むのは〝杉野〟だった。  一時あぐりに注目した仲間達も興味が失せたようにまた歩き出すのだった。  ぎくしゃくと歩き方も不自然になっているのは、あぐりだけだった。首からぶら下げた名札の社員証を玄関のセンサーにタッチして本社ビルを出る。途端に大きなため息が出た。  もういいだろう。何を真面目に働いているのだ。だから、さっさと飛び降りて……と月島駅に着いてから気がつく。  ここは落語「佃祭」の舞台ではないか。  今でこそ隅田川に浮かぶ佃島には橋が架かっているが、江戸の昔は橋もなく渡し舟が行き来していたのだ。  そして落語で身投げをする場所といえば、大川こと隅田川である。ならばいっそ本場大川にどかんぼこんと身を投げて終わりにしてしまおうか。などと不埒な誘惑に駆られる。    ワンルームマンションのポストを開けると、様々なチラシが放り込まれている。 「チラシばっかりだね」  と声をかけられてぎょっとする。  あのBLTS発言の小太り社員、吉田だった。 「同じ電車だったよ。気がつかなかった?」  と、にこにこしている。  今回の抜擢組でこの社員寮に入った者が、あぐりを含めて四人いると聞いている。そのうちの一人が吉田だった。同じ場所に住んでいれば通勤電車も同じになる道理である。 「どうも」とポストから出した物を抱えて、そそくさと部屋に戻る。  ポストの中身全てをゴミ箱に捨ててから、Maoのサインがある封書が紛れ込んでいるのに気がついた。住所は番地も部屋番号も正しい物が記入されている。慌ててそれを拾い上げる。  いつもならスーツを楽なスウェットに着替えてから、電気ポットの湯で熱いほうじ茶を淹れて一息つくのだが、今日はそんな悠長なことはしていられない。上着も脱がずに買ったばかりのハサミで真生の手紙の封を切る。またブルーブラックのインクの文字を読む。 〈月島に引っ越したそうですね。叔母さんに聞きました。  先に出した手紙は読んでくれましたか。  おばあちゃんの不幸については何度でもお悔やみ申し上げます。  そして同じく何度でも申し上げますが、それが原因であなたと疎遠になるのは本意ではありません。  どうか覚えておいてください。  あなたが幸せな時もそうでない時も私は共にありたいのです。  一人で悲しまないでください。  おばあちゃんの思い出を私にも話して聞かせてください。  それとも私のことが嫌いになったのでしょうか。  実家で父が失礼極まりない態度をとったことは心からお詫びします。  あるいは私の言動の何かが気に障ったなら、どうか教えてください。  謝ります。変えてみせます。  あなたと共にある為なら自己変革などたやすいことです。  たとえば私はあなたのような愛嬌に乏しい。もしそれが嫌なら毎日でも笑ってみせましょう。  私は常にあなたが心安らぐ場所でありたいのです。  その為に私に足りないものがあるのなら教えてください。  この先もずっと私にとって、あっちゃんの「あ」は愛してるの「あ」なのです。  どうか連絡をください。待っています。〉  あぐりは便箋を畳むと封筒に入れて、いつものように電気ポットで湯を沸かした。  スーツから部屋着に着替える。  何も考えずに日常を続ける。今読んだ手紙などなかったかのように。

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