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第68話
「ほお。三毛が鳴くのは初めて聞くな。なかなか可愛い声じゃないか」
菅野夫妻は驚いて顔を見合わせている。
「トラ猫のレオちゃんは毎年冬になると家に来るの。野良猫だけどよそのお家でも可愛がってもらってるみたいよ。こっちの三毛猫ちゃんは今年初めてレオちゃんが連れて来たの。お嫁さんだと思うのよ」
「じゃあ、二匹ともこちらの飼い猫ではないんですね?」
確認するなり「失礼します」と老婦人の目の前でLINEを始めた。
〈知り合いの家で見た猫です。僕にはお千代さんに見えますが、どうでしょう?〉
と里生に写真を送った途端に返信が来た。
〈お千代さんだと思います。トラ猫も家の近所で見かける未去勢の野良です。すぐ引き取りに行きます。先様に連絡してもらえますか?〉
その場であぐりは里生の希望を菅野夫妻に伝えた。
「せっかく今年も来てくれたのに……連れて帰ってしまうの?」
肩を落としている老婦人にあわてて言った。
「いえ、引き取るのは三毛猫だけです。トラ猫は別にいいんじゃないかな?」
「そうだよ、おまえ。どう見ても三毛は飼い猫だと言ってたじゃないか。きっとレオが無理やり連れて来てしまったんだよ」
と老人が言葉を添える。
里生と老婦人が空いている日時を打ち合わせる。そして明後日に三毛猫だけを引き取りに再訪問することが決まった。
この間髪を入れない対応の早さは真生そっくりではないか。さすがに双子である。
何やらほやほや浮ついた気分で、こたつに入って進められるままにお茶を飲む。用心しながらやって来たお千代さんがそっと膝に乗ると丸くなった。
隣で及川さんは恐々猫を眺めている。
「じゃあ、お願いしてもいいかしら?」
人心地ついてから、菅野夫人は席を立つと仏間との仕切りになっている襖を開けた。
正面に大きな仏壇があり、雅やかな線香の香りが漂っている。あぐりが実家で嗅いでいた安い線香の香りとは明らかに違う。
いつものように正面の紫色の座布団に正座して、鈴を鳴らす。木魚まで叩くことはめったにないのでうまくリズムが合わないが、何とか般若心経を唱え始める。背後には合掌した菅野夫妻と及川さんが横に並んで座っている。老人も小声でお経を唱えている。
そして読経を終えるとまたこたつに戻って酒肴を勧められる。豪華なお節料理や雑煮までご馳走になるのだった。菅野老人は落語に造詣が深いらしく、たぶん爺ちゃんや婆ちゃんも知らないだろう昔の名人のレコード(もちろんプレイヤーもある!)を出してくるのだった。
日が暮れる前に、ほろ酔い気分で及川さんと共に菅野邸を辞した。二人とも手には土産にもらった和菓子の袋をぶら下げていた。
本城駅前で別れる時に及川さんに、
「まほろば運輸では即戦力のドライバーを探しているんだ。篠崎くんが来てくれたらいいんだけどな」
などと言われた。いや、本社に異動したばかりで転職はないだろう。菅野夫妻には栄転祝いに印伝のキーケースをもらったばかりだし。
家に帰ると居間の床に座り込んだ叔母ちゃんと富樫のおっちゃんが楽しげに広げたアルバムを眺めていた。
「ただいま」
叔母ちゃんに和菓子の袋を渡しながら覗き込むと古い写真のようだった。
「見てこれ。懐かしいでしょう」
アルバム以外にもクッキーの空き缶には写真がばらばらに入っていた。婆ちゃんが惚ける前までは、まめに整理してアルバムに貼っていたものだが。
明日から横浜の兄が来て、本格的に荷物の片づけをするので整理していたとのことだった。
なるほど見回してみれば、家具には赤青黄色の小さな付箋が貼り付けてある。横浜に運び込む物、レンタル倉庫に収める物、廃棄する物などに仕分けしてあるらしい。
まゆか姉ちゃんが早々に浦安の一人住まいに戻ったのは、その騒々しさから逃げ出したらしい。
「それにしても、あれだけあった赤ワインやビーフジャーキーがなくなったのは驚きだね」
我が事のように言ったのは富樫のおっちゃんだった。
二階に行こうとしていたあぐりも思わず「えっ!」と振り向いていた。
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