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第70話

 作業を進める間にあぐりは何故自分が引っ越し会社を辞めたのか訳がわからなくなっていた。  引っ越し作業は好きだしトラックの運転も出来て、人間関係も悪くない会社だった。少なくとも足軽運送よりはるかに良かった。  いや、公的な(?)理由はわかっている。  いずれは兄が興す引っ越し会社を手伝うために就職したのだ。けれど兄が始めたのは商社であり、それが軌道に乗っている。  ならば自分がこの会社にいる意味はないと判断したのだ。  何だって自分の好き嫌いではなく家族を判断基準にしたか。  いや、私的な理由だってないわけじゃなかった。失恋である。  もんじゃ焼き屋の忘年会でつい語ってしまったが、当時つきあっていた恋人と別れたのだ。  彼は別に引っ越し会社の社員ではなかったが住まいはその近くで、デートをした場所も通勤圏内である。  出勤するたびに思い出すのが堪らなかったのだ。全てを刷新したかった。  辞める時に惜しまれたが、自主的に入社したわけでもなかったから、特に未練もなかった。  今になってみれば何も辞めることはなかったのではないか?  心地よく汗をかいて荷造りしながら、あぐりは過去の自分の主体性のなさに呆れていた。   兄たちはトラックに荷物を載せて走り去った。それを下ろす際どうなるかは、あぐりの知ったことではない。以前なら心配して車に同乗していたような気もするが。  ともあれ汗をかいたから月の湯でも行こうかと思えば、そこももうないのだった。物がなくなり以前より更にがらんとした家で風呂に入った。内風呂だと湯上りもうすら寒いような気がしてならなかった。  翌日は起きるなり節々に痛みを覚えた。特に腰の辺りが不穏に強張っている。転勤以来デスクワークばかりだったとはいえ何とも情けない。  よちよちと階段を下りると、食堂では既に叔母ちゃんと富樫のおっちゃんがトーストで朝食をとっていた。おっちゃんもまた随分と早く来るものだなあと思いながら席に着くと、 「あのね、あっちゃん……」  コーヒーを出しながら叔母ちゃんが遠慮がちに言った。トーストを齧りながら一口啜ると黑河の泥のように濃いコーヒーが思い出された。今日飲みに行ってみようか。 「話があるんだけど……」 「うん」  妙に気をもたせる叔母ちゃんに目を上げると、今度は富樫のおっちゃんが、 「あの、あっちゃんな……」  と口を開く。 「俺、これから本城駅で待ち合わせなんだけど」  里生と共に梅園町に三毛猫を引き取りに行くのだ。だから話はさっさと済ませてくれと言いたいのに、二人は顔を見合わせては言い淀んでいる。  結局、口火を切ったのは叔母ちゃんだった。 「私、則之(のりゆき)さんと一緒になるから」 「則之さんて誰?」  言ってから気がついた。富樫のおっちゃんこと富樫則之(とがしのりゆき)。二人揃って見事に頬を赤らめている。 「つまり、その……俺は香奈さんと結婚しようと思ってる。いや、香奈さんは再婚で俺が初婚なんだけど」  それ、わざわざ言うことか? 「いいだろう、あっちゃん?」  それも、わざわざ訊くことか?  あぐりは熱いコーヒーをごくごくと一気飲みした。そして、 「そうなんだ」  と呟いて席を立った。  富樫のおっちゃんは別に朝早くから来たわけではなく、昨夜から泊まっていたのだ。もしかしたら今夜だけではなく、あぐりが月島に行ってからずっとそうだったのかも知れない。  まるで気づかない自分は、やはり男女のことには疎いのだろう。まゆか姉ちゃんも〝鈍感〟とか言っていたし。  食堂を出ようとするあぐりに二人は縋りつくようにして口々に言うのだった。  この家が解体になる前に叔母ちゃんは富樫のおっちゃんの家に移る。新しいマンションの部屋に住むかどうかは未定である。結婚式は上げないが、家族の紹介も兼ねて食事会だけはしたい等々。 「あっちゃんには黙っていて悪かったけど……札幌の明日香にはね、一応許しをもらってるのよ。友則さんをお父さんとは呼びたくないとは言ってるけど……」  富樫のおっちゃんは香奈叔母ちゃんの十歳近く年下のはずである。明日香姉ちゃんが「お父さん」と呼びたくないのは当然だろう。  あぐりは二人の話に「ふうん」「へええ」と軽いあいづちを打って、そそくさと家を出た。

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