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第73話

「何……うるさい……」  奥からみしみし足音をたてて出て来たのは真生だった。しゃがれた風邪声である。たった今まで寝ていたのだろう。くたくたのパジャマに頭髪は逆立ち無精髭まで生やしたザ・病人である。 「風邪?」  思わず訊いてしまう。刈谷医師が頷いている。 「急性上気道炎。単なる風邪だね。熱も下がったようだし」 「別に刈谷を呼ばなくても……産婦人科だって風邪薬ぐらいある」  真生は里生に不満を表明している。  あぐりの存在に気づいているのかいないのか、立っているのも億劫らしくその場に胡坐をかいてしまう。すると千代がふんふんと匂いを嗅いで、更に膝に前脚をかけて伸びあがると真生の鼻に鼻先を近づけた。そして、よっこらしょとばかりに真生の胡坐の中に入ってしまった。 「お千代さん、やっと真生を同居人と認めたみたいだね。今まで近づかなかったもんね」  にやりと笑う里生。  散々に千代を威嚇したロブはまだ疑わし気に真生の回りを歩き回っている。 「ロブ。お千代さんは先輩だぞ。挨拶しろよ」  ロブは真生の言葉を理解したかのように胡坐に近づくと千代と鼻先を合わせた。猫の挨拶である。 「はい。ご挨拶済みました。じゃあ、あぐりさん上がって」  とタイミングよく里生が背中を押す。真生はとうに気づいていたらしいが、猫にかまけてまだ気づかないふりをしている。 「いや、俺はもう……」 「お茶ぐらい飲んでくのが礼儀でしょう」  誘ってるわりには、どうにも偉そうな里生の言い方である。 「じゃあ、私は帰るから」  と刈谷医師が逆に靴を履いて出て行こうとする。 「待って、玲奈ちゃん。家にあるお団子を持って行って」  里生は刈谷医師の手を取って玄関を出て行ってしまった。  一人叩きに残されて、あぐりは更に狐につままれた気分である。この家には何匹狐がいるんだ? 「この家……真生さんが借りたの?」  尋ねるのに真生はこくりと頷くと、 「お千代さんは……」と言いかけて咳き込む。  億劫そうに千代を抱いて腰を上げた。老人のように頼りない足取りで座敷に向かうのを見かねて、あぐりは玄関を上がると肩を貸した。まだほのかに熱っぽい身体である。風邪で寝込んでいたせいか蒸れたような体臭がするのだが、それさえ懐かしく感じる。  座敷には障子越しに午後の日差しが柔らかく差し込んでいる。真生に畳に下ろされた千代は、迷うことなく障子のマスを潜り抜けて廊下に出て行った。  障子一マス分だけ紙を取り去って猫の通り道にしてあるのだ。廊下の座布団はガラス窓から差し込む光で温まっているのだろう。千代はちんまり丸まって目を閉じた。  真生は八畳間の中央にあるこたつに入ると天板に額を付けるようにして背中を丸めた。あぐりは辺りを見回して、 「何か羽織る物ないの? パジャマのままじゃ冷える」 「隣の部屋にフリースが……」  そう言われて襖を開けると、同じく八畳間らしい隣には見覚えのあるベッドが据えてあった。  あのボロアパートにあった家具を取り急ぎ運び込んだ印象である。もともとこの家にあった古い家具と並んで奇妙な調和を見せている。  ロブがすいとベッドに飛び乗ると、ここは自分の領分だと言わんばかりに横たわった。あぐりはベッドに放り出してあるフリースを取って出る。 「お千代さんは、この家がいいんだよ。いくら家で里生たちが可愛がっても、隙を見てはこっちに戻ってしまう」  まだ天板に額を付けたまま真生はほとんど独り言である。この背中に抱きついてしまいたいと思う心を抑えてフリースを着せかける。 「じゃあ、猫のためにこの家を借りたの?」  と真生から離れるとわざとらしく室内を見て回る。再会が嬉しくてたまらないような真生の含み笑いから顔を背けるために。

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