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第72話 何匹もの狐
千代をキャリーケースに入れたのはあぐりである。あのボロアパートで真生が三毛猫(実は千代)をキャリーケースに入れた時、手品のようだと思ったものだが、今やあぐりも簡単に猫を扱えるようになっていた。黒猫ロブと遊んだ甲斐があったものである。
「レオちゃんには冬の間だけでも家にいて欲しいわ。それとも千代ちゃんと一緒の方がいいのかしら?」
「毎年のことなら、こちらで越冬させてやってください。筋金入りの野良猫だから、好きな時に出て行いくと思いますよ」
とトラ猫には冷淡な里生である。
ランドローバーに乗った後で、
「場合によっては長期交渉も辞さないつもりだったから」
と里生は後部座席のビジネスバッグを示すのだった。法廷並みにどちらが千代を引き取る権利があるか主張するつもりだったらしい。
「じゃあ、僕は駅で降ろしてもらえますか?」
尋ねると里生はまた驚いたような顔をする。
「菅野さんから引き取った責任上、お千代さんが元の家に戻るのを見届けるべきだと思うけど?」
言われてみればもっともである。あぐりは思わず頷いてしまう。
14 何匹もの狐
生垣のアオイは冬ざれた中でも青々とした葉を茂らせている。
その中で屋根に寄り添った柿の木がすっかり葉を落としていた。てっぺんの木守柿だけが朱色を残している。
あぐりが生垣の中に入るのは初めてだった。
隣の田上家だけでなく他の家々も新建材を使った平成の建築であるのに対して、ここは木造平屋建てで屋根瓦がのっている典型的な昭和の建築だった。いわゆる〝サザエさんち〟である。
里生は自宅ではなく、そのサザエさんちに迷わず入って行く。短い敷石を伝って玄関でガラガラと音をたててガラス格子戸を開けた。あぐりは狐につままれた気分で後について行く。「ただいま」という里生の声に「お帰りなさい」と奥から出て来たのはあの美女、刈谷医師だった。
「お千代さん帰って来たよ」
と里生が見せた輝くばかりの笑顔にあぐりは一瞬その場に立ち竦んだ。愛想なしの里生にこんな表情があったのか。
昭和の家はバリアフリーではない。玄関もかなり高めの上がり框で沓脱石がある。里生はその上がり框にキャリーバッグを置くと、そろそろとファスナーを開けた。
三人の人間が見守る中、千代はすんなりバッグから出ると軽く身震いしてから、しゃなりしゃなりと歩いて玄関の隅に行った。床に置かれた陶器の鉢に水が常備してあるらしい。小さな音をたてて水を飲んでいる。
「この家、もしかして保護猫団体が借りたとか?」
あぐりは里生と刈谷医師とを見比べた。
「真生に聞いてなかったの?」
「……?」
「ここ、真生が借りた家だよ。駅裏のアパートが取り壊しになって」
途端にあぐりは踵を返し、
「じゃあ、俺帰るから」
と玄関の外に出ようとした。
そこにフシャーッという声が響いた。台所の奥を見やると、千代の向こうに黒猫のロブがいる。細い身体の毛を逆立てて千代を威嚇しているのだ。
「閉めて」
言いながら里生はあぐりを押しのけて玄関の引き戸をぴしゃりと閉めた。猫達が逃げ出さないためだが、あぐりも逃げ出せなくなった。玄関の戸を背にして呆然と立ち尽くすばかりである。
「ロブ。それはお千代さん。これから一緒に暮らすんだよ」
と里生が黒猫に声をかけている。
千代はといえばロブの威嚇にまるで動じていない。若い黒猫が必死でシャーシャーと恐ろし気な顔をするのを珍しいもののように眺めている。
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