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第74話

 あぐりの問いに答えたのは、刈谷医師を見送って戻って来た里生だった。こたつの上でお茶を淹れながら説明した。 「この家は借主がなかなか見つからなくて取り壊しの話も出ていたの。そこにちょうど真生のアパートも取り壊されるってことで、即決でここを借りた。だってお千代さんが育った家だよ」  と茶托に茶碗をのせてあぐりに差し出す。 「お千代さんはお婆さんの匂いのするこの家を離れたくない。もう十四才……人間でいえば七十二才。なら、ここで最期を迎えさせてやりたいじゃない」  あぐりは、ぽかんと口を開けてしまう。 「マジで猫のために家を借りた?」 「だけじゃないよ」  と里生はくすくす笑った。菅野家で見せた職業的な笑顔とは異なる雅やかな笑顔である。この眩しさはやはり真生に似ている。目を逸らすと相変わらず口元を緩めて自分を見ている真生と目が合いそうになる。目のやり場に困る。 「いずれ親の介護とか考えるとね。あの父親は真生と暮らすのは嫌がるだろうけど。スープの冷めない距離っていうの? 隣なら我慢するかも知れないし」 「お父さんは納得したの?」  あぐりの率直な疑問に対して、里生はにやにやしている。 「納得も何も。隣の借家を借りたのが誰であれ、うちは異議を唱える立場にないからね」 「というか、里生が実家を出るのが想定外のショックだったらしい」  としゃがれ声で言い添えるのは真生である。 「私は石女(うまずめ)だから」  あぐりは黙って聞いた。  婆ちゃん子はろくでもない言葉も知っている。〝うまずめ〟とは子供を産めない女性のことである。  以前、真生が濁した言葉の先を知った気がする。内孫、外孫の次元ではなかったらしい。  その真生は「里生」とたしなめるように口を挟むが、当人は知らん顔で言葉を継いだ。 「高校の時に病気で子宮摘出手術をした。だから子供は産めない。父親みたいな旧弊な男は石女なんて傷物はとても嫁には出せないと思ってる。一生実家で面倒を見る気だったのが、いきなり出て行くと言ったから、かなりに取り乱してる」 「家を出られるんですか?」  尋ねるあぐりに里生は頷いて追分団子の包み紙を開いた。 「ショックで混乱した父親が山ほど買って来たお団子」  すました顔で一本ずつパックされた団子をあぐりに差し出す。  こし餡、つぶ餡、白餡、みたらし、胡麻餡、ゆず餡、栗餡などいろいろある。にわかに真生があぐりに向かって、 「蜜がいい」  と言った。ほとんど脊髄反射のようにあぐりは、 「餡子にしろ」  と口にしていた。 「蜜。蜜。みーつー」  笑いながら真生に言い返された途端に奇妙なことが起きた。 「着物を汚すから、餡子にしろって……」  言っているうちに突然視界が曇った。目頭が異常に熱くなりぽたぼたと涙が流れ落ちて来た。顔全体が真っ赤になっているのがわかる。  あぐりは頬に滂沱と涙を流し泣いているのだった。ぶるぶると身体が震えて嗚咽が止まらない。  あの日、団子屋の店先で婆ちゃんと同じことを言い合った。落語「初天神」の台詞である。叔母ちゃんも真生もいて、あぐりはイライラしていたけれど幸せだったはずだ。  なのに…… 「帰る」  ぼろぼろ涙をこぼしながら立ち上がり座敷を出た。 「待って。悪かった。待て帰るな」  真生も素早く立ち上がる。風邪声が更に裏返っている。

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