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第75話

 一向に止まらない涙を手や腕でごしごし拭いながら玄関に向かった。歩くたびにみしみし床が鳴る家である。追って来る真生は突然こたつを出て冷えたせいか激しく咳き込んでいる。つい振り返ったあぐりは奈落の底に落ちた。  いや、そう思っただけで実は玄関の上がり框から足を踏み外して叩きに落ちただけだった。朝から痛かった腰を沓脱石にぶつけたらしく、すぐには立ち上がれない。呆然と叩きに座り込んで沓脱石に腕を掛けている。にわかに喚いた。 「何なんだよ!」 「落ちたんだよ」  真生は裸足で叩きに降りて、あぐりを助け起こそうとしている。そしてまた咳き込む。その手を力づくで払って、 「病人は寝てろ!」 「ごめん。すまなかった。無神経だった」 「悪化して死んだらどうするんだよ!」  自分が言った言葉に空恐ろしくなり、更に涙が吹き出して来る。盛大にしゃくり上げながらも、真生を上がり框に抱え上げようとする。まるで断崖絶壁から這い上がるかのような二人である。実際は泣きじゃくるあぐりの腕を引っ張り上げているのは真生だったが。 「叔母ちゃんが富樫のおっちゃんと一緒になるって……何で俺が最後に知るんだよ!  明日香姉ちゃんは札幌なのに、一緒に住んでる俺はのけ者かよ!」  一体自分は何を喚いているのだ? 涙も涎も巻き散らしながら。 「叔母ちゃんて……あっちゃんのとこの小母さんが?」  真生は理解しようと努めているが、わかるわけがない。あぐり自身が理解していないのだから。ただ滝のように涙を流して号泣している。 「もう嫌だ。人が死んで……みんないなくなって、家もなくなる。叔母ちゃんだって……。  何なんだよ!! 何で俺だけ残して……」 「だから一緒に暮らそう。ここで……」 「こんな所に住まない!」 「じゃあ、あっちゃんの好きな所を探す。ここでなくてもいい。一緒に住みたい」  何だってこうも即座に返するんだこの病人は。  気がつくとあぐりは上がり框にうずくまり囂々と泣いているのだった。真生の両腕に抱かれて。病人の匂いの向こうに懐かしい真生の香りがある。まるで銭湯のぬる湯に浸かったかのような安寧な気分になる。涙に濡れた頬を猫のようにパジャマに擦りつける。その胸に縋りたくなるが逆に突き飛ばしていた。 「一緒になんか住めない! 住めるわけないだろ!」  座敷の襖の陰に立っている里生の姿が目の端に入った。幼女のように団子を食べながらこちらを覗いている。みたらし団子らしい。蜜の団子。 「何が蜜だよ! 団子なんかいらない!」  と里生まで怒鳴りつける。何の罪もないのに。里生はもぐもぐ口を動かしながら座敷の奥に消えた。 「婆ちゃんは俺を探して死んだ!! 今も俺を探してる! 夢でずっとずっと探してる!!」  真生の無精髭にまみれた顔が無惨なまでに蒼白になった。あぐりに向けて伸ばした手を宙に浮かせたままである。 「婆ちゃんが一人でさまよってるのに、俺だけ幸せに暮らす!? あり得ない! 何で、何で死んじゃうんだよ!! 俺に黙って……そんなの、そんなの……」  ぶるぶる震えて言葉にならない。

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