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第76話
自分では気づいていなかったが、あぐりが婆ちゃんの死に関して泣いたのはこれが初めてだった。
そもそも婆ちゃんがあぐりにとっては母親同然であることさえ気づいていなかった(母親は十五才の時、高校入学間近に死んだが、あぐりは別に泣かなかった。だから祖母の死で泣くはずがないと思い込んでいた)。
呆然としている真生に向かってガキ大将のように腕を振り回して言い募る。
「触るな! もうあんたとは会わない! これっきりだ! 今日は里生さんと、お千代さんを届けに来ただけだ!」
にわかに立ち上がった。
座り込んで見上げる真生に構わず靴を履くと玄関の戸を開けた。
「手紙なんか寄越すな! あんなの読んでない! もう二度と会わない! 本当だからな!」
言い捨てると外に駆け出した。いつも配送の荷物を持って走ったである。今日は大通りに出てバスで帰るしかない。走っている間も流れる涙は止まらなかった。
バス停には枯葉が吹き溜まっているだけで人の姿はない。ようやく涙が止まってべたべたの顔を袖で拭っては持て余していると、目の前にシルバーメタリックのランドローバーが停まった。
「駅まで送るから」
と里生が助手席のドアを開けた。
黙って助手席に乗ると、そこにあぐりのショルダーバッグやスマホが置いてあった。
「珍しい人だね。平気でスマホを忘れるんだ」
と妙な感心をしながら里生はグローブボックスから濡れティッシュを出して渡す。それであぐりが顔を拭っているうちに車を発進させた。黙々と運転していたが駅に近づくと口を開いた。
「月の湯の跡地がマンションになるのは知ってる?」
あぐりは黙って頷いた。
「取り壊しや建設工事が始まれば、猫達は怯えて来なくなるかも知れしない。三田村さんはあの近所に別の餌場になる場所を探してる」
何匹もの猫が集まって餌を貪るのを嫌がる住民は多い。保護団体では食べ跡は掃除をするし、糞尿の後始末もする。けれど反対だけならまだしも虐待したり殺したりする人々もいる。
三田村さんは餌場に出来る安全な場所を提供してくれる人を探しているのだ。
「新しい餌場が決まったら伝えるから」
ハンドルを切りながら言うのに、あぐりは言い返した。
「別に俺、保護団体の会員じゃないし」
「いいじゃない。あぐりさんの作った段ボールハウスは好評だよ。猫達も出て行かないし」
あぐりが黙って車窓を見ているうちに車は駅前ロータリーに入って行く。里生は車を停めると、改めてあぐりを見て言った。
「今日はどうもありがとう。お陰でお千代さんが帰って来られたよ」
あぐりはやはり黙って頷いて車を降りた。
車中で真生について触れるかと身構えていたが、特に言及はなかった。
これでもう自分は田上真生とは何の関係もなくなった。
妹の里生とだって関係はない。
スマホを入れたショルダーバッグを肩に掛け階段を上がり二階コンコースに出る。
冬の曇天にそびえる駅ビルを見上げるも視界が随分と狭まっている。泣き腫らした目のせいらしい。里生は特に何も言わなかったが、さぞ見苦しい顔だったろう。
心はすっかり沈静化していた。婆ちゃんが死んでからの躁鬱の大波小波が消え去って凪になっている。涙とは心の中の屈託を洗い流す効果があるらしい。
そして鎮まり返った心であぐりは、今度こそもう生きていなくてもいいやと思うのだった。
真生とはもう会わないし、叔母ちゃんには富樫のおっちゃんがいる。
あぐりが死んで最も悲しむはずの婆ちゃんは既に彼岸にいるのだし。
少しずつ身辺整理をして向こうに逝こう。それが新年の抱負になった。
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