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第77話 初春の遺書
15 初春の遺書
翌日には月島のワンルームマンションに戻った。朝起きた時から腰に鈍痛があった。
真生の家で玄関の沓脱石にぶつけた打撲傷である。ドラッグストアーに湿布薬を買いに出て、ついでに文具店が初売り出しをやっていたので便箋や封筒を買い求めて来た。
痛みの記憶が消えないうちに真生に別れの手紙を書いた。以前書いた文章を空で書くことが出来た。封筒の中には避難所つまりボロアパートの鍵も入れた。
そして年賀状を出す客でにぎわっている郵便局に出かけて、料金を計ってもらい切手を貼って投函した。
その夜、残った便箋に書いてみた。
〈もう生きていなくてもいいです。今までありがとう。さようなら。〉
篠崎あぐりと署名をした。
誰に対する遺書だかわからないが、とりあえず白い封筒に入れて見る。
それを持って部屋の中をうろうろした。封筒を置くべき場所がわからない。仕方なく玄関の靴箱の上に置いた。
いつでも見られる。いつでも使える。
正月らしい晴天が続く。
けれどあぐりは狭い部屋の万年床に横たわり明け方から日暮れまで漫然と過ごした。
気が向くとスマホで動画を眺めたが、小さな画面でちまちま腰を振る男が(そういう動画である)みじめったらしく思え、結局落語の配信を流して聞いた。
すっかり重く固まった身体を動かしたのは、正月休みの最終日だった。
配信落語でも聞いた「佃祭」はこの辺が舞台である。近所をぶらつくだけで落語散歩になる。月島もんじゃストリートを抜けて佃大橋を渡る。渡った先に昔の船着き場の石碑があるはずである。
隅田川(昔風に言うなら大川)の川面には冬の日差しがきらきら輝いている。何も夜まで待たなくとも、今ここで飛び込んでもいいではないか。泳ぎを知っているあぐりでも、この寒さなら凍えてろくに泳ぐ間もなく彼岸に流されることだろう。
欄干にすがって身を乗り出していると、
「あけましておめでとうございます」
と肩を叩かれた。
振り向くと小太りの男が頭を下げている。日吉営業所から来た吉田である。
「今年もよろしくお願いします」
と、あぐりも頭を下げる。
「こんな所で何してるの?」
問われて素直に落語の舞台を歩いていると説明する。
「へえ。篠崎さんて見かけによらず渋い趣味なんだ」
と感心される。あぐりは構えることなく落語「佃祭」のあらすじを語っているのだった。
どうせもうすぐ死ぬのだから、落語好きの爺むさい奴と思われたって構わない。既にカミングアウトもしているし。
ぶらぶらと歩いて向こう岸にある石碑を眺め、築地本願寺まで足を伸ばした。
吉田は実家に帰省したものの親が結婚の孫のとうるさくて早々に帰って来てしまったと言う。まだ初詣をしていないとのことだが、あぐりも同じだった。ミソッチ先輩の坂上神社に行ってやればよかったと今更思う。
築地本願寺は大勢の参拝客で芋を洗う騒ぎだった。何となくそれを眺めてお参りを済ませた気になって、また歩き出す。
「こないだ……忘年会で、すいませんでした」
歩きながら吉田はぺこりと頭を下げた。
「俺も大概鈍感だけど、杉野も恋バナになると夢中になっちゃってさ」
「はあ」
何を謝られているのかわからなかった。
「もんじゃ焼き屋で、篠崎さんがゲイだって……回りのお客さんも聞いてたのに、引っ越し会社の彼氏と別れたこととか根掘り葉掘り……」
「いや、引っ越し会社は俺が勤めていただけで、相手は違うから」
あの時、気がついてないわけではなかった。周囲の客は袖を引き合って「ゲイ」「あのイケメン」「だよねー」と噂をしていた。
だが、もうどうでもよかったのだ。というか皆の失恋話もそれなりに面白かったし。
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