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第80話
二月の最終週の日曜日。食事会の前に真柴駅で降りて実家まで歩いてみた。
月島に比べるとこちらはやはり冷え込む。
駅から行くと目安になる月極駐車場の看板だけが賑々しく残っており、その先には工事中の仮囲いがある。
もっと大きな家だと思っていたが、こうして仕切られてみるとせせこましい土地でしかない。ここがあぐりが生まれて育った場所であり、婆ちゃんが亡くなった場所でもある。
囲いの上には灰色の冬空が広がっていた。
トラジマ模様の仮囲いの下から赤茶色の地面が覗いており、よく見ると霜柱が立っている。
都心にいると霜柱どころか土さえ踏まなくなっているが、子供の頃は霜柱を踏んでは登校していた。水気を含んだ土が靴裏に付いて歩くほどに重くなったものである。
礼服に合わせて買った革靴の先で、ちょんと霜柱を突き崩してみた。爪先に少し泥が付いただけだった。
本城駅前に出るとすぐタクシーに乗った。歩けない距離ではないが途中に牧田産婦人科クリニックがある。
日曜日でも真生は働いているかも知れない。未練を断ち切れないあぐりを乗せてタクシーは一気にそこを走り抜けてくれた。
ホテルの個室宴会場で一族十数人(除くパラグアイ在住者)が集っての午餐。
おばちゃんは華やかな色留袖で、隣に座る富樫のおっちゃんは黒紋付。白髪混じりの天然パーマは整えたようだが、やはりくるくるしている。
フレンチのコースは料理と料理の間が長い。話題といえば家の工事や独身者の縁談についてである。
この場で独身者は、まゆか姉ちゃん、明日香姉ちゃん、そしてあぐりだった。どこぞの誰の何某はどうかという話の俎上にあぐりまで上るのは驚きだった。葬儀の時のカミングアウトはなかったかのようである。
「あっちゃん。仕事が落ち着いたら家に遊びに来てくれよ」
みんなに酒を注いで回っていた富樫のおっちゃんは、あぐりにそう言うのだった。
「そうだね。そのうちね」
と答えながら何となく富樫家に行くことはないだろうと思っていた。
引き出物の手提げ袋を一様にぶら下げて、あぐり、まゆか姉ちゃん、明日香姉ちゃんの三人がタクシーで本城駅に戻った。札幌に住む明日香姉ちゃんは彼氏が出来たようで、車中でまゆか姉ちゃんと恋バナに余念がなかった。
母親が年下男と再婚して複雑な心境だろうと慮っていたあぐりは拍子抜けした。女は実に逞しい。
車中、三田村さんからLINEが届いた。
〈月の湯が更地になりました〉
取り壊し工事中、餌場に来なくなった保護猫もいるという。そして銭湯の一町ほど先にある空き地の地主が餌場としての利用を認めてくれたとのことだった。
送られて来た写真を見れば、空き地というか雑木林への入り口である。下草が生い茂り、野良猫が好みそうな場所ではある。
〈春の子猫が生まれる頃なので、なるべく早く整備して段ボールハウスを作りたいと思っています。あぐりくんも、ぜひ手伝いに来てください〉
完全に保護猫団体に属している人間への呼びかけである。
いつから自分はそうなったんだ?
タクシーが本城駅ロータリーに着く頃には既に冬の日は暮れていた。
「俺、寄る所があるから……」
と駅前で女二人と別れた。
二階コンコースに上がると改札口から出て来た人々は留まることなく足早に立ち去って行く。妙に寒々しい風景だった。
クリスマスにはサンタクロースやトナカイが、正月には松竹梅の凧や羽子板などイルミネーションが煌いていたが、二月になって撤去され今は何の飾りもない。二十一階建ての駅ビルを見上げると、のっぺりとホテルの窓が連なっているだけである。
そろそろもういいだろう。手摺にもたれてビルを見上げながら、うっすら微笑んだ。
これ以上生きていなくてもいい。最期にふさわしい新品の礼服も着ている。ホテル玄関のエレベーターから一気に最上階に上り、非常口に出ればいい。
そちらに足を向けた途端に肩を叩かれた。
ぎょっとして立ち止まった。背後に真生が立っているような気がして振り向けなかった。
いつでもどこでもあぐりとタイミングの合う田上真生。
「あぐりさんも結婚式の帰り?」
だが声をかけたのは田上里生だった。
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