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第84話
何だかよくわからなかった。涙腺が緩くなった自分もだが、菅野夫妻が親切にしてくれるのも何故なのか理解できなかった。
なのに月島に帰る電車の中でスマホを出して、
〈真生さんの連絡先を教えてください〉
などと里生に送信しようとしている。我に返ってあわてて削除した。
もし仮に菅野老人が言うように真生に謝罪をするにしても電話やLINEはあり得ない。直接会って頭を下げるべきではないか?
あそこまで酷い罵声を浴びせたのだから。
いや、もし仮に、という話だ。
別によりを戻そうとか思っていない。
そこに三田村さんからLINEが届いた。
〈来週の土曜日、お昼頃に月の湯跡地に来てください。新しい餌場の準備をします。あぐりくんには段ボールハウスを作ってもらうので、よろしく〉
「いいけど、別に……」
不満そうに独り言ちて既読スルーした。完全に保護猫団体のパシリではないか。
その週は毎日のように真生に送る謝罪の言葉を考えて過ごした。
〈真生さんに謝りたいことがあります。お正月に風邪をひいているのに、ひどいことを言ってすみませんでした。謝罪します。でももう別れますが〉
何もわざわざ念を押さなくとも、もうとっくに別れているではないか。
〈もう風邪は治ったと里生さんに聞きました。あの時ひどいことを言ったのは謝ります。すみませんでした〉
せいぜいこの程度だろうか。
スマホに入力するのみならず、わざわざ便箋にしたためてみて破いたりしているのだった。
あぐりは自分が何をしたいのかいまいち掴めない。
真生にきちんと謝罪する。しかしよりを戻すのは無理だろう。きちんと別れた後、新しい彼氏を探す方が建設的である。
それに、今のあぐりには少々気になることもあるのだった。
朝食に冷凍の豚の角煮を電子レンジで温めて炊き立てご飯と共に食べる。一人用炊飯器で米を炊く方法もやっと覚えた。菅野夫人に作ってもらった冷凍おかずはこれが最後だった。食後のほうじ茶は月島の茶舗で焙じたてを買ったものである。
「今時の若い人はお茶を焙じる香りを臭いとか言うのに。あなたは偉いわねえ」
と、店の婆様に褒められる。
新しい彼氏は見つからないのに、婆様にはもてもてである。
今週末は保護猫団体の活動である。厚手のジャケットにマフラーを巻き、下は動きやすい服装にして家を出る。一時間半かけて真柴本城市に帰る。
どうも週末ごとに帰省している気がしてならない。
早めに駅に着いたので駅裏に足を向けた。久しぶりに焙煎珈琲黑河に行くつもりだった。
細い路地を歩いているうちに、工事中のシートが掛かった一角に出る。かつて真生の住むアパートがあった区画である。こちらも既に取り壊されていたのだ。
事ここに及んで自分はコーヒーよりも真生に出くわすのを期待していると気がつくのだった。
きまり悪く踵を返す。
いや、偶然出会ったら菅野夫妻に勧められたように謝罪をすればいいだけだ(夫妻の勧めを完全にはき違えている)。
コーヒーは飲みたいんだし。
とまた踵を返す。
一人で行ったり来たりしている横を足軽運送のトラックが走って行った。そして急停車の音がする。
「でけートラックで入って来んじゃねーよ! 通れねーだろーがよ!」
激しいクラクションの音と共に罵声が聞こえる。
振りむいてため息をついた。
この細い路地でベンツとトラックが向かい合っている。すれ違える道幅ではない。
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