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第83話 だらしない涙腺

   16 だらしない涙腺  梅園町の菅野邸には相変わらず額に〆印のトラ猫がいた。訪れると床の間の猫ベッドで居眠りをしており、あぐりの姿を認めると胡散臭げに尻尾を動かしてからまた目を閉じるのだった。  菅野夫人から電話で三月の月命日にもお経を上げに来て欲しいと頼まれたのだ。けれど休日ではないと断ったところが、 「じゃあ、この週の日曜日にいらしてちょうだい。お昼を用意しておくからお腹を空かせていらしてね」  と嬉しそうに乞われるのだった。  あぐりはもはや宅配ドライバーではない。けれど足軽運送の社員ではあるから会社の顧客にサービスすべきとは思う。とはいえこの誘いはどうなんだろう?  判断しかねてランチタイムに社員食堂で相談したら吉田くんはいとも簡単に、 「いいんじゃないの?」  と言い、杉野さんは、 「社員証! スープカレーに浸ってる」  と注意するのだった。  あぐりの社員証は味噌やカレーで既に満身創痍である。ともあれ、迷いながらも月島でもんじゃ焼き煎餅などを土産に買って梅園町を訪れたのだった。  菅野夫人はあぐりが卵が好きだと言ったのを覚えていたらしく豪華な献立の中には茶碗蒸し、鰻巻き、ゆで卵入りの豚の角煮など卵料理が多くあった。  その対価は般若心経だけである。毎日の読経がなくなって物足りなかったあぐりは(信仰というよりあれは毎朝の発声練習として最適だった)腹の底から声を出して読経するのだった。  食後にお勤めが終わって菅野老人と共にこたつでお茶を飲んでいると、老夫人は弁当箱を盆にのせて持って来る。 「篠崎さんは都内で一人暮らしを始めたんでしょう。これを持って行くといいわ」  ご飯やおかずが詰まった弁当と、豚の角煮や鰻巻きがそれぞれに詰まった密封容器だった。 「このお弁当は今夜のお夕飯ね。こっちのおかずは冷凍しておいて、食べたい時に一つずつお皿に出してチンすればいいから」  説明しながら刺し子の刺繍が施された布製のエコバッグに入れている。 「祖母もよく弁当を作ってくれて……」  と言いかけて涙が出そうになる。歯を食いしばって堪えていると、 「もしや去年の終わり頃に?」  驚いてただ頷く。 「篠崎さんのご様子が少し変わった気がして。何かあったのかと思っていたら配達に来られなくなってしまって。及川さんに伺ったら転勤されたそうじゃない。本当に心配したのよ」  やばい。と思う間もなく、また目頭が熱くなって涙が頬に流れている。本当に涙腺がだらしなくなっている。 「婆ちゃ……祖母は家の駐車場で転んで、車に頭をぶつけて亡くなりました」 「まあ、何てことかしら。お家でなんて、おつらかったわよねえ」  との言葉に許しを得たかの如く、盛大にしゃくり上げている。何なんだ自分は? と呆れる自分と、嗚咽を上げながら訴えている自分がいるのだった。 「その時、僕……僕は恋人と一緒にいて、無断外泊したんです。祖母は僕を探して、夜中に外に出て転んで……僕がちゃんと帰っていれば……」  さすがに恋人が同性とまでは言えなかったが、それがきっかけで恋人とも別れたと真実を打ち明けていた。  ティッシュボックスが差し出された。こらにも刺し子刺繍の布カバーが付いていた。 「篠崎さんたら。恋人と別れたりしちゃいけないわ。悲しい時こそ一緒にいるものよ」  ティッシュで涙を拭いて洟をかむ。小学校低学年以来泣いたことのないあぐりは、涙と共に鼻水が出ることさえ忘れていた。そして〝恋人〟はやたらに涙を流しては鼻をかむ人物だったと思い出す。 「いいこと。帰ったらすぐ仲直りなさいね」 「無理です。もう別れちゃったし……」  半分笑いながら答えると、弁当箱の入った手提げ袋を手に取った。黙って話を聞いていた菅野老人が思いついたように言った。 「生きている限り無理な事なんかないさ。すぐに謝って許してもらいなさい」 「そうよ。一人より二人の方が耐えられることが多いわ。私は息子が亡くなった時、もう生きていても仕様がないと思ったの。でも……」  と夫を見やる菅野夫人だった。  諭すように言う老夫婦に頭を下げて、あぐりは屋敷を辞した。 

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