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第85話
黒塗りのベンツはスモークガラスで、運転席から顔を出した強面も黒いサングラスをかけている。
足軽運送のトラックといえばリヤドアの下部にドライバー名が掲示してある。〝森公治〟というのはもしやあの仕分けバイトの森くんだろうか。
あぐりが考えている間にもトラックはにわかににバックを始める。歩行者の存在に気づいていないらしい動きにあわてて飛びのいた。
後方でどかんぼこんと嫌な音がする。呑み屋の店頭にある電飾看板をなぎ倒したのだ。
「ストップ! 止まれ、止まれ! 森くん!! 止まれ!!」
掌でばんばんボディを叩いて停まらせる。
とりあえず壊れた看板は店の軒下に非難させて、運転席の前を回ってフロントガラスを見上げる。
やはりあの森くんがハンドルを握っている。
恫喝に怯えて思考停止しているらしく表情がない。
「すみません! すぐ下がりますんで。申し訳ない! 少しお待ちください」
対面でトラックの運転席を睨みつけている強面グラサンに片手拝みで頭を下げる。
「開けろ! 森くん!! ドアを開けろ!」
強引な命令口調は本来あぐりのものではない。真生の高圧的口調や、タケ兄ちゃんの号令を思い出して真似している。
放心していた森くんは機械的に命令に従い運転席のドアを開けた。まるで目の前のヤクザに命じられたかのようである。
「どけ! シートベルト外せ!」
森くんがシートベルトを外すなり、あぐりはステップに飛び乗りアシストグリップを手掛かりに全身に弾みをつけて運転席に飛び込んだ。
勢いで森くんを助手席に移動させる。別の言い方をすれば、体当たりで突き飛ばした。ちょっと蹴りも入ったかも知れない。
「えっ? 篠崎さん⁉」
こちらに尻を向けて転がった森くんは顔だけ振り向き、きょとんとしている。
「今すぐ下がります!」
とドアから身を乗り出してベンツに向かって再度大声で言う。
そしてドアを閉めるとシートベルトを着ける。
シフトレバーを握りステアリングに手を掛けた。アクセルペダルに足をのせる。
瞬間、とてつもない高揚感が全身を駆け巡る。
車体のエンジン音が自分の鼓動と共鳴しているように感じる。
バックで細い路地を下がって行く。この隘路は駅前の大通りに出るまでくねくね続く。
出口まで下がって一旦左右確認してから九十度に曲がった大通りに尻から車体を出す。小刻みにハンドルを切って前後しては後退していく。
この細かな動きもとても楽しい。ぴたりと動きが決まって内心快哉を叫ぶ。
トラックは恙 なく大通りに出た。
するとベンツは待ちかねたかのように路地を走って来て、一瞬クラクションを鳴らして大通りを駅向こうへと猛スピードで走り去った。
路肩に停車したままステアリングを両手で撫でさすっていたあぐりは、後続車にクラクションを鳴らされて、あわてて出て来た路地にまた頭を入れた。
そして看板をなぎ倒した倒した呑み屋まで戻ると車を停めた。
「そこの壊した看板、すぐに写真を撮って会社に報告しろよ。主任か誰かが店に謝りに来るはずだ。帰ったら報告書も出しとけよ」
また上から押し付けるように命令すると、ドアを開けてドアステップに足を掛けた。名残惜しくも地面に飛び降りる。
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