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第86話

 まだ胸が高鳴っている。思わず両手の掌を目の前に広げる。ほんの短時間なのに素晴らしい充足感を覚えている。  森くんがトラックを降りて壊れた電飾看板の写真を撮っているのに構わず、駅に向かって歩き出した。 「ありがとうございました! 篠崎さん」  後ろから声をかけられて驚く。 「あの……篠崎さんて、やっぱオール特Aなんですね。運転すごいし。ホント助かりました」  かつてアルバイトの森林コンビにこんな丁寧な言葉をかけられたことはあったろうか。  プロレスごっこの時にタケ兄ちゃんに言われた。可愛い顔のあぐりが優しい口調で話せば卑しい連中は平気で舐めてかかる。 「関節技とか使わなくてもよ、言い方ちょい変えるだけで、相手の態度も変わんぜ。世の中案外ちょろいもんだぜ」  だから〝ホモなんて異常者扱いさせるな〟と話は続いたのだが、ある意味正しい意見ではあったのだ。  そしてまたトラックに乗りたいと痛感する。トラックの運転こそが自分の仕事である。この思いに関しては自分の中の誰かが罪悪感を抱いたり反対したりすることはなかった。  駅に戻ってバスに乗ると月の湯跡に向かう。そして三田村さんに会うなり、駅裏で森くんに出くわしたことを伝える。 「でしょでしょ? 今はもうみんなドライバーよ。免許さえ持ってれば誰でも採用されるわよ」 「俺もドライバーに戻りたい」  と本音を漏らすも、 「あらら。せっかく本社勤務になった人が何言ってんの」  と軽くいなされる。  銭湯跡地も実家と同じように工事用の仮囲いが出来ていた。高い煙突はもうどこにも残っていない。  残された駐車場に停まっている車やバイクは保護猫団体の人々のものらしい。その中にシルバーメタリックのランドローバーはなかった。  新たな餌場の空き地は枯れた雑草で覆われていた。男女入り混じった保護猫団体の会員達が鎌で枯草を刈っている。そして何故か雑木林の奥には腰高の真新しいスチール物置がある。 「これ、どうしたんですか?」  尋ねるあぐりに三田村さんは得意気である。 「でしょでしょ。ここの地主さんが協力的で、いらない物置を寄付してくれたのよ」  物置の上には既に何匹かの猫が身を寄せ合って香箱を作っている。 「里生ちゃんが交渉してくれたのよ。匿名だけど、お金持ちの地主様らしくて、避妊去勢手術の費用とか、わりと高額な寄付をしてくれたのよ。すごいと思わない?」  物置から取り出されたプラケースが新たなネコベッドだった。中に断熱用の発泡スチロールを敷き、更に毛布やクッションを重ねればかなり温かいだろうとの意見だった。  クッションは綿の生地に刺し子刺繍が施されたカバーが付いている。 「これって……?」  思わずクッションを手に取る。 「これも地主さんの寄付。刺し子の刺繍なんて、もったいないわよねえ。猫が引っ掻いてすぐボロボロになるのに。他にもフードとかどっさり寄付してくれたのよ」 「ふうん」  あぐりは見覚えのある刺し子の刺繍をためつすがめつするのだった。  この日の作業は整地と猫ベッド作りだった。男性会員の中には工事現場が本業の人もおり、雑木林の根が張った地面を整地して、猫ベッドが雨に濡れないようにビニールシートで屋根まで造るのだった。  そして敷地の周囲には杭を立ててトラロープを張り巡らしていた。  大吉運送の逞しいお兄ちゃん達が男性の基準であるあぐりとしては、ガテン系の筋肉質は嫌いではない。少し怪しい目つきで見ていたかも知れない。  夕方になる頃には、その場は所有者が明らかな土地となっていた。 「関係者以外立ち入り禁止 真柴本城市保護猫の会」と立派な看板も立てられた。  奥にスチール物置が立ち、ビニールシートの下にはプラスチックの猫ベッドが並んでいる。中には座敷に置かれるにふさわしい刺し子刺繍のクッションが詰められ、既に猫が堂々と鎮座している。  やがてここは繁殖力の強い雑草に取り囲まれるだろうが、逆に猫には過ごしやすくなるだろう。

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