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第88話 神おわします処

 そんなに大層なことだろうかと杉野さんを見ると、あぐりの胸元を指差している。  ワイシャツの胸ポケットに入れたはずの社員証が、こぼれ落ちて麻婆豆腐の上にぺたりと貼り付いていた。  あわてて拾い上げる。  ここから逃げ出したがっているのは社員証も同じである。 「いいんじゃないかな。私もサラリーマンのくせに別の仕事で起業したよ。定年までは二足の草鞋を履いていた」  畳の上に落語全集のCDやライナーノーツを広げて眺めながら、世間話のように軽く言ったのは菅野老人だった。  CDプレイヤーからは老人の贔屓だという噺家の落語「小言念仏」が流れている。差し込む陽の光も暖かくなって来た座敷である。  床の間には相変わらず猫ベッドがあるが、トラ猫の姿は見当たらなかった。 「二足の草鞋って何の仕事を?」 「それはまた追々……いや、篠崎くんなら独立できると思うよ。資金はあると言っていたね?」 「はい。母親や祖母が残してくれた貯金を頭金にして、安い中古トラックなら買えると思うんです。それで単身向け引っ越し屋から始めて……いずれは人も雇って大きくしたいと思うんです」 「いいね。一度、事業計画書を書いておいで。見てあげよう」 〝事業計画書〟って何だ?  尋ねる前に老人は腰を上げた。 「起業の役に立つ本がいくつかあったと思う。ちょっと待ってなさい」  と部屋を出て行こうとしたところで、やって来た菅野夫人にたしなめられる。 「あなた。いつもでもお話していないで。今日はお参りしていただく日なのよ」 「おお、そうだったな」  と言いながら老人は書斎らしい奥の部屋に行ってしまう。 「もう。お父さんたら……」  老婦人は仏間に繋がる襖を開けた。  仏壇の正面には車椅子に乗った青年の写真がある。  あぐりは写真と向かい合って座布団に座ると、手を合わせた。背後に控えているのは菅野夫人だけである。  菅野老人が奥の部屋で本を探しているのだろう、がたがたいう音が何やらおかしく笑いそうになりながら般若心経を唱えた。    17 神おわします処  三月に入るなり、御園生(みそのお)先輩から電話が入った。  仕事から帰って夕飯の支度をしている時だった。朝炊いたご飯とインスタント味噌汁に付け加えるのは、菅野夫人お手製のチキンロールである。それを電子レンジで温めていた。 「あぐりっち。前に訊いたっしょ」  と唐突に訊かれて訊き返す。 「何だっけ?」 「ほれ。神道で同性愛を認めるかどうか」 「ああ……」  そんなことも尋ねたねと遠い昔のように思い出す。クリスマスイルミネーションが綺麗な季節だった。 「もしあぐりっちが男同士で結婚したきゃ、うちの神社で挙式してやんぜ」 「はい?」  電子レンジの停止ボタンを押す。少し暖め過ぎたチキンロールは表面がパチパチいっている。 「俺もよくわかんねーんだけど。神社本庁では、日本では結婚は神話の昔から男女だってコメントしたり、各神社の判断つったり、はっきりしてないんだわ」 「神話の昔から男女って。じゃあ、ダメじゃん」 「けど、1998年に川崎市の神社が同性婚を挙げてんだわ。2023年には尼崎市の神社も」 「へえ」 「つまり各神社の裁量でやっちゃえばいいわけ。だから、あぐりっち、うちで同性婚しようぜ」 「いや。俺、相手いないし。結婚したくて訊いたわけじゃないから」 「今はいなくても。いつか相手が出来たらマジ坂上神社で挙式やろうぜ。テレビや新聞が取材に来て、うち全国的にメッチャ有名になんぜ」  と嬉し気に高笑いする先輩である。 「ステマか?」  笑いながら熱々チキンの皿とご飯と味噌汁を小さな座卓に揃える。

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