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第89話
座布団に正座して箸を取ろうとしたところ、
「それと、ライブよろしく!」
出し抜けに言われてきょろきょろあたりを見回した。
「えっと……何だっけ?」
知っているけれど、そう言ってみる。
「頼むよ。うちのバンドのライブ。今週末。来んだろ。久しぶりだから緊張してんだ」
「うん。大丈夫だよ。聞きに行くから頑張ってね」
と言いながら、まだ小さなワンルームを見回している。もらったチケットはどこにしまったろう?
食後、部屋中を探し回った結果、チケットはあの時下げていたショルダーバッグのポケットにチラシと共に挟んであるのが見つかった。
また今週末も真柴本城市に帰省である。
本城コンサートホールは本城駅からバスで十五分。老若男女で満員のバスでコンサートホールに向かう。ミソッチ先輩のコンサートがこんなに人気があるはずもないから、大ホールに有名人でも来るのだろう。
バスの窓からシルバーメタリックのランドローバーが同じ方向に走り去るのを見かけてどきりとする。
いや別にランドローバーのオーナーは田上真生だけではないだろう。いい加減に忘れろと自分に言い聞かせる。
バスを降りてホールのエントランスに入ると案の定、人波は大ホールに向かってぞろぞろ流れて行った。
あぐりは一人で地下の音楽室に下りて行く。照明でさえ暗い地下音楽室の前では会議テーブルを並べた受付でパンクロックらしい衣装の若者がチケットをもぎっている。
ちなみにあぐりはユニクロで買ったトレーナーやデニムを着てショルダーバッグを斜め掛けしている。本城駅に下りた時、コートを着て来なかったのを後悔した。やはりこちらの方が気温が低い。
「あ、あぐりっちさん」
顔見知りのバンドメンバーが、チケットをもぎりながら顔を覗き込む。緑色の髪で赤いコンタクトレンズを付けてこちらを見るのは怖いからやめて欲しい。
「あぐりっち」に敬称をつけるのも。
「これ、ミソッチから。年末の大掃除で見つけたそうです。いらなければ捨ててもいいって言ってましたよ」
「どうも」
厚めの文庫本ほどの大きさの茶封筒を受け取るとショルダーバッグに入れた。
観客は並べられたパイプ椅子の半分にも満たなかった。後方の席に老人達が座っているのは、坂上神社の氏子勢ではないかと思われた。
ミソッチのバンドには会場のパイプ椅子など振り回す奴もいるのだが、老人達の安全のためにそれは憚るだろう。そう願いたい。
背後の黒板には白墨で〝モッシュ、ダイブ厳禁〟とでかでかと書かれている。大丈夫だ。〝モッシュ〟や〝ダイブ〟の意味を知っている若い客も大していない。
その数少ない若い観客は開演するなり立ち上がって拳を突き上げる。背後のジジババから「見えない」という声が聞こえたが、あぐりも日頃の憂さを晴らすべく早々に立ち上がった。 力一杯拳を突き上げ飛び跳ねて、激しくヘドバンなどするのだった。ライブが終わる頃にはすっかり汗をかいていた。
一階のエントランスホールに上がると、大ホールも催しが終わったようでぞろぞろと観客が出て行く。 ガラス壁に囲まれたホールは外の様子が手に取るようにわかる。今バス停に行っても満員でとても乗り切れないだろう。
自動販売機で冷えたお茶を買って、ホール片隅の飲食コーナーで一気飲みした。
手持無沙汰にショルダーバッグを探っていると、手に当たったのは受付で緑の髪に渡された茶封筒だった。
取り出して封筒の中身を広げて見る。思わず口元がほころんだ。婆ちゃんがミソッチの祖母、比呂代ちゃんに宛てた絵手紙だった。
〈また孫が生まれました。男の子です。あぐりと名付けたようです。絵手紙の先生からお祝いに伊万里のお皿をいただきました〉
という絵手紙は実に二十五年も前のものである。葉書の隅が黄ばんでいる。色褪せた水彩画はまるで子供が描いたようだった。猿のような真っ赤な赤ん坊や、極彩色の伊万里焼の皿らしき丸が描かれている。
葉書は十数枚あるようだが、二十五年分にしては少ない。
婆ちゃんが気まぐれに送っていたからか、もらった比呂代ちゃんが適宜処分していたからか。その辺は知る由もない。
あぐりの誕生以外にも、香奈叔母ちゃんの結婚、さおり姉ちゃんと経理事務員との結婚など家族のことや、旅行、料理など日常のことが綴られていた。
年代順に並んでいるのは意外に几帳面なミソッチの配慮だろう。水彩画のみならずクレヨンやちぎり絵に挑戦した物もある。
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