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第90話
最後の一枚は、
〈新宿末廣亭に行きました香奈とあぐりと田上さんの四人です 帰りに伊勢丹でご飯を食べてお団子を買いました〉
という内容だった。
いや、ちょっと待て。
婆ちゃんがこの絵手紙を描いた時点で、比呂代ちゃんは亡くなって一年以上たっている。なのに御園生家は黙って受け取ってくれたのか。
ありがたく思った途端に目頭が熱くなる。
葉書には水彩絵の具で二人の男性が描かれている。
一人は黒いスーツにネクタイを締めて、もう一人はトレーナーにデニムである。真生とあぐりだろう。
背景には団子が散りばめられている。蜜と餡子らしい茶色と黒の串団子である。書ききれなかった文章が隅に小さく添えられている。バランスがいいとは言えない配置ではある。
〈田上さんはあぐりのお友だちです 二人がずっと仲良しだといいと思います〉
読むうちにあぐりの視界がぼやけて来た。
またぽろぽろと涙を流しながら、ぼやけた葉書を眺めていた。
やがて嗚咽が止まらなくなり、背中を丸めて腕で顔を覆って泣いた。葉書を濡らさないように両手で掲げて、腕に顔を押し付けていた。
遅いよ、婆ちゃん。もうお友だちじゃないし、仲良しでもない。
そう思った途端に、菅野老人の言葉が思い起こされる。
「恋人に謝罪をして、仲直りをしなさい。生きている限り無理なことなんかない」
それも程度問題だろう。あの玄関であぐりは真生に散々に喚き散らしている。おいそれと謝れることではない。
誰かが背後にやって来たのが足音で分かったが嗚咽は止まらなかった。おそらくミソッチだろう。絵手紙を保管しておいてくれた礼を言わなければ。肩に手を掛けられて気が付いた。ヘアトニックの香りがする。
顔を上げると、目の前のガラス壁に人影が映っていた。外はすっかり日が落ちて、ガラスは鏡になっている。
手で涙を擦って目を瞬くとガラスに写る人物を見定めた。田上真生だった。絵手紙に描いてあるようなネクタイを締めたスーツ姿であぐりの肩に手をかけている。
「どうした。どこか具合悪い?」
と顔を覗き込む真生はどことなく医師の表情だった。
首を横に振りながら、差し出されたハンカチで顔をごしごし拭った。真生はあぐりの背後に立ったまま、大ホールの出口を振り返って言った。
「あっちゃんも落語を聞きに来たんだ?」
「音楽室……ライプ」
とハンカチに顔を埋めたまま、また首を横に振る。
「ふうん。大ホールは新春特撰落語会だったよ。前にお婆ちゃんがここでお正月に落語会があると教えてくれたけど。ちっともお正月じゃないよな」
あぐりは思わず吹き出して、お陰で涙が止まった。
寄席では一月中席、二十日までは正月なのだ。その緩さが時に地方の落語会などに反映して〝新春〟や〝初春〟がいつまでも使われていたりする。三月で「新春特撰落語会」というように。そんな蘊蓄を述べた後、
「婆ちゃんが描いた」
と含み笑いで絵手紙を背後の真生に手渡した。
黙って絵手紙を見た真生はうつむくと、あぐりの肩にぱたぱたと涙を降らせた。
自分の涙で濡れたハンカチをまた真生に返す。肩にかけられた手を握る。
闇の中に浮かぶガラス鏡に椅子に座った男とその背後に立つ男が静かに映っていた。
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