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第91話
「家に来る?」
と誘われて頷いた時点で別に理由はいらなかったのだが、
「あのトラ猫が戻って来たんだよ。お千代さんと梅園町に遠征していた野良猫。見に来ない?」
と真生は言う。
何だよそれ?
とにやにやせずにはいられない。
ホールを出て駐車場に向かう道は薄暗い。少しだけ身を寄せて歩く。
新春特撰落語会には、かの二十人抜きの一人抜擢真打も出演していたという。四人の落語家が話した演目は、真生が話す内容ですぐに見当がついた。
前座が「たらちね」
二つ目が「初天神」
そして真打が二人「替り目」と「抜け雀」である。
「すごいな。すぐにわかるんだな」
と真生に尊敬される。
胸がくすぐったい。真生はまたしてもスーツにネクタイを締めて伝統芸能を鑑賞に来たのだった。
「正直、お婆ちゃんの追悼の意味もあったよ」
とも言った。
「ありがとう」
と答えてあぐりは真生の手を握ったが、すぐに放した。
あぐりは婆ちゃんに「はしたない」という言葉を教わっているのだ。
二人が抱き合ったのは国分寺町の真生の家に帰ってからだった。
がらがらと音がする格子ガラス戸を開けて玄関の中に入るなり、ひしと抱き合い熱い接吻を交わした。
玄関灯はあるが古い家は自動点灯しない。真っ暗闇の中で真生に強く抱き締められて、ヘアトニックや体臭など懐かしくも恋しい香りが全身を包む。それだけでもうあぐりは頭の芯がくらくらする。
貪るように唇を吸えば強引な舌が押し入って来る。夢中で舌を絡ませて田上真生を堪能する。
「ごめん……」
ようやく離れた唇の間からあぐりが吐息と共に囁いたのは過去の謝罪である。けれど真生は今現在のことと受け止めたらしく、
「悪い。暗いよな」
と身体を離して玄関を上がると明かりを点けた。
橙色の柔らかい明かりが玄関を照らす。あぐりは恥ずかしさの余り顔を背けた。欲情に駆られて上気した自分が光の中にさらけ出されている。
けれど謝罪は続けなければ。
「ごめん。前にここで酷いこと言った。真生さんに……」
「忘れた」
真生はあぐりの手を取って沓脱石がある叩きから玄関の板の間に身体を引き上げる。
あの時、玄関の断崖絶壁から真生を押し上げたのはあぐりだったが。そしてまたひしと抱き合って唇を重ねたところに、
「何をしてるんだい?」
と聞こえた気がした。
いや、座敷からやって来た千代がにゃーんと鳴いただけである。
「お千代さんと、ロブに……トラ猫にも……夕飯を、やらなきゃ」
長い口づけの合間に切れ切れに言う真生だった。
「うん」と頷いて身を離したあぐりは、足元を見下ろしてあっと思う。
「靴! 履いたまま」
真生が指差して笑った。
あわてて上がり框に腰を下ろすと靴を脱ぎ始めた。その横をぬうと通り過ぎて行くのは、かのトラ猫だった。ちらりとあぐりを見る大きな顔の額には〆印の傷跡がある。こいつは千代の恋人なのか?
座敷では上着を脱いで腕まくりをした真生が、千代やロブそしてトラ猫にも夕飯のカリカリを出している。台所に行き新たな水も汲んでいる。
愛し気に猫を見つめる真生の目つきに何やら忌々しくなり、
「俺より猫のが大切なんだ?」
などと大胡坐で毒づく。
何だこの台詞は?
振り向いた真生はネクタイを緩めながらあぐりを睨んだ。襟から音高くネクタイを引き抜きながら、づかづかと近づいて来る。
剣呑な気配に思わず後ずさりするが、がっつり頭を抱え込まれてまた唇を奪われる。
内心胸を撫で下ろし、両腕を肩に回してひしと抱きつく。痺れるような口づけである。舌を絡ませ脚も身体に絡ませて、あぐりは全身全霊で田上真生という男を貪っている。
「んふぅん……」
と泣きそうな声で喘いでいるのは自分なのか真生なのか。
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