6 / 44

五哩(盛りの花に嵐はつきもの)

 右近中学校の正門前、ぼくは傘の庇をあげる。ダックブルーのださい制服を、鶯色の傘はいくぶんマシに見せているはず。校舎を隠す桜の雲――ヤマザクラ・エドヒガン・ソメイヨシノ。それらの微妙に色の異なる花も、この雨空のもとでは一様に灰色。  桜のころの雨は、ハナノアメというんだぞ、八尋(やひろ)。  じいちゃんのしゃがれ声が甦る。花の雨、きれいな言葉。じいちゃんが(たお)れた日も、こんな冷たい雨だった。あゝ、けれど、あれは晩秋だ。  ぼんやりしてるぼくを、同じ制服のやつらが追いこしてゆく。ぼくは流されるように足を運んだ。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。  南の正門をくぐった。化粧ブロック敷きの中庭、ぼくは再び足を止めた。北・南校舎間の連絡路(渡り廊下なんて立派なもんじゃない)に立った男二人、そろいのボンタン・スカジャン・リーゼント……いやってほど見おぼえがあった。あの般若と鷹。あれから四ヶ月。やつらの記憶力と執念を試す度胸はない。きょうが雨でよかった。ぼくは傘を目深にかしげて、心持ち早足に動きだす。  コンクリート打ちっぱなしの連絡路に、土足の動線だけが濡れて光った。上の二、三階は校舎が繋がって屋根になってるから、じかに雨はかからない。こんな日の待ち伏せには最適の場所。誰を待ってんだか知らないが。視界のすみに、やつらのカンフーシューズとローファー。カンフーが進みでた。 「おい、そこのナイキ」  ぼくのバッグと靴はナイキ。すべての体毛が逆立つ気がした。立ちふさがったボンタンの脚。ぼくは傘を持ちあげた。緑のレーヨンサテンの胸に般若の刺繍。大和型戦艦のバルバスバウじみたリーゼントの庇が、眉のない顔へ迫りだす。ぼくの背後に立つ相棒も大差ない外見、スカジャンが青で鷹の刺繍なだけ。片方が片方の劣化コピーみたいだ。 「おはようございます」  ぼくは頭をさげた。般若は無表情、目ばかりが冷やかにこわい。おっかなくて視線を逸らせず、ぼくはしきりにまばたきした。傘を握る手が痛いほど冷たい。両脇をすり抜ける生徒たち、ぼくらを見やるが無関心な感じ。こんなシチュエーション、ここでは犬よりもありふれてる。誰かが先生に知らせる可能性は低いだろう。職員室は北校舎一階のすぐそこなのにな。般若が口をひらく。 「おめえ……」 「はいっ」  ぼくの即座の返事に、般若はカミソリほど薄く笑う。口んなかが急激に干からびる。悲鳴をあげて逃げだそうかと思ったとき、般若の低い声。 「それで、あいつはジジイの死に目に会えたのかよ?」  予想だにしない言葉だった。ぼくはつかえてしまった。 「……は、はい。タクシーで向かって、まにあったみたいです」  ふん、と般若は鼻を鳴らした。つかまれる両肩、みぞおちに膝頭。息が止まった。重い鈍痛。ぼくは腹を押さえて前かがみ。般若の乾いた低音が降る。 「次、ふざけたマネしやがったら……わかってんだろうなぁ?」  ぼくはさらにかがんで声を絞りだす。「……すいません、した」  笑い声。こらえきれないってふうに鷹が肩を揺すってる。般若は無表情にしりぞいた。ぼくは痛みをなだめ、ゆっくりと昇降口へ。鷹はまだ笑ってる。むらむらと腹が立ってきた。なんでこんな目に遭わなきゃなんない。そもそも、どうしてこうなったんだっけ?  おれの祖父は死んだよ、ヴェトナムで、一九七二年に。  それをいったときの、すかした四角いつらが目に浮かぶ。あいつ、あのネクタイ野郎。あいつが諸悪の根源だ。地球温暖化もあいつが原因だ。あんなやつ、こんどなんかあったって絶対に助けたりしねえ。ぼくは歯を食いしばった。まあ、どうせ、もうかかわることもないだろうけどな。  新しい教室に入って、ぼくは凍った。三階の窓いっぱいの桜花の灰色をバックに、あのネクタイ野郎がいた。最後尾の席でペーパーバック片手に、すかしたポーカーフェイス。横顔まで四角かった。  ぼくは確認した。ロッカーのうえにでかでかと貼りだされた座席表を。窓際の最後尾のやつ、男子十九番・矢嶋(やじま)健。      ♂ 突風にひっくりかえった傘は花ぼくは貧しい球根だろう      ♂  磨かれた黒板を浅黒い手がひっ掻いた、白いチョークで。右肩あがりの漢字四つ―― 香西(こうざい)博文(ひろふみ)。暗殺された初代内閣首相と同じファーストネーム。 「伊藤ヒロブミと同じ字だけど、先生はヒロミです。濁りません」  新二年F組は総勢三十六名、男子が女子よりも二名多い。縦五列の机に、出席番号順に男女が交互。ぼくは教卓の前から二番目の席だ。けさシェーバーを当てたんだろうが、小ウザイの顎は髭の毛根で青あおしてる。テストステロン。 「教員生活は十一年目になります。今度もみんなの学年を担当できてうれしい。みんなとの一年がどんなふうになるか楽しみです」  小ウザイの模範解答的なコメントに、みんなも気のない拍手。 「それでは出席番号順に名前と、何か一言。個性的な自己紹介を期待しています」  って机の傷を、ぼくはなぞる。この新年度恒例の自己紹介大会が苦手。緊張するのはもちろん、そこまで気を惹かれない相手のプロフィールをきいたって時間の無駄に思えた。クラスメイトなんて朝の電車で乗りあわせた、何を考えてるかわからない異邦人みたいなもんだ。みんなの大同小異の自己PRを、ぼくはきき流してた。でも、あの小学校からの腐れ縁のことは無視できなかった。 「河合ショーマでぇーす、歌いまぁーす!」  いきなり超ノリノリで歌いだす。女ばりの裏声で、このあいだミリオンを達成したプッチモニのデビュー曲を。河合のダンスは本家よりも断然キレがある。運動部の本領発揮。一同から自然と笑いと手拍子。河合の性格の悪さを知ってるぼくでさえ、つい口もとがゆるんだ。やつにはミッキーマウスみたいな天性の魅力があるんだ。河合が一番を歌いきると、手拍子は喝采に変わった。やつは満足げに親指を立てた。 「友達随時募集中、よろしこ!」  なかなか次の自己紹介が始まらない……と思ったら、ぼくの前の女子四番・菊池(きくち)雪央(ゆきお)がいない。そこが空席と意識してなかった。ぼくはあせって起立した。忘れていた痛みがぶりかえす。ぼくはみぞおちを押さえ前かがみ。緊張のあまり胃痛を起こしたようにでも見えたろうか。かっこ悪い。ぼくは人の多いほうへ向きなおる。笑う余裕はなし。 「北浦竜也です。趣味は音楽鑑賞。きらいなのはモーツァルト、すきなのは大バッハ。最近きいてイチバン感動したCDは、グスタフ・レオンハルトの一九六五年録音の《ゴルトベルク変奏曲》です。これは不眠症の伯爵を癒すためにバッハが書いたクラヴィーア曲で、たとえば序曲と終曲を同じアリアにしたりして、とても完成された安定感ある構成になっています。弦をひっ掻く造りのチェンバロは、ピアノに比べると音に表情がつけづらくて単調になりがちなんですが、レオンハルトはアゴーギクを多用してそれを克服しました。その誠実な演奏が曲にぴったりハマって、めったにないような端正で深い音楽になっていて、もっと長い曲ならいいのにって思うくらいでした。それで……」  ぽかんとしたクラスメイト一同。ぼくは恥ずかしくなって言葉を切った。 「……よろしく」  途惑いがちな拍手。いいんだ。どうせ、みんなはJ.S.バッハよりもつんく♂のほうがイケてるって思ってるんだから。      ♂ もてあそぶ青林檎いろのイデオロギー齧りきれない芯を持つゆえ      ♂ 「矢嶋ケン」  最後の自己紹介者が名乗った。その男子の顔は大人びた陰があり、体つきはハンマー投げ選手みたい。高校生といっても通じそう。矢嶋は着席した。それだけ? おそらく満場一致でそう思ったにちがいない。いままで静観していた小ウザイが声をあげる。 「おいおい。もっとなんかないのか?」 「ありません」  矢嶋はいった。ヤジマケン、と同じ調子。 「あるだろう。趣味とか、特技とか、すきな女子のタイプとか」  てまえの男子十番・鈴木(すずき)結人(ゆいと)が机に伏せた。現れた矢嶋の顔は家庭用シュレッダーの威喝さ。矢嶋は鼻で笑った。小ウザイの眉間に火の字の皺。そのバリトンの声に凄み。 「全員ちゃんと一言コメントしたんだ。おまえも何かいえ。じゃなきゃ公平じゃない」  矢嶋は首を振った。やれやれ、っていうふうな、どこか芝居がかったしぐさ。やつは再び立ちあがって、右の拳を握りしめた。 「About one hundred years ago our fathers brought forth on this archipelago that schools, conceived in liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal. But now we are engaged in a great civil war, testing whether that we, or any children, can long endure. We are met on a great battle-field of that war. We have come to dedicate a portion of that field, as a final resting-place for those who here gave their lives they might live. The world will little note nor long remember what we say here, but it can never erase what we did here. We here highly resolve that these dead shall not have died in vain ; that this land, under the sky of Hodogaya, shall have a new birth of stories ; and wish of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.」  ぼくの耳が拾えたのは終いの、人民の(オブ・ザ・ピーポー)人民による(バイ・ザ・ピーポー)人民のための(フォー・ザ・ピーポー)……どうやらエイブラハム・リンカーンの、かの有名な演説らしい。その堂々たる大統領ぶりに、意味もわからずクラスメイト一同は沸いた。どよめきと拍手。ぼくらの新担任は忌いましげ。たぶん、小ウザイもよくわかんなかったんだろう。  矢嶋は涼しい顔。窓ごしの花の灰色にひけをとらない白い頬。そのミディアムクラウドマッシュの髪が光の加減で赤みがかる。おじいさんがヴェトナム戦争で亡くなっているなら、やつのルーツはアメリカなんだろうか。横浜市に住む外国人は一三〇ヶ国超、約五万人。べつにめずらしい話でもない。 「英語が達者なのはわかった。しかしだなぁ」  小ウザイのもったいぶった声。お説教モードの口調だ。ぼくは腕時計を読んだ。二時間目の残り時間は、この生徒指導主任のワンマンショーと化すだろう。理解ある先生のポーズをとりながら、そのじつは生徒をねちねちいたぶることが無上の悦び。小ウザイってあだ名は伊達じゃないのだ。浅黒い体育教師は尊大に腕組み。 「そのヘアブリーチは感心しないな。いいか、うちの制服を着ているということは、うちの看板をしょっているも同然だ。おまえひとりの素行が、ここの生徒全体の評判を左右しかねない。おまえのそんな髪を見たら、人は不良だと思う。右近の生徒は不良だなどと評判が立ったら、他のまじめにやっている生徒みんなが迷惑するんだぞ。もっと中学生らしい格好というものがあるだろう。外見を飾るよりも、若いうちから内面を磨いて勉学に励め。じゃないと将来……」 「あなたみたいな大人になるって?」  矢嶋がぶっきらぼうにいった。小ウザイは絶句。みんなにも動揺の色。 「この髪は生まれつきの自然な色です。勝手な憶測で話さないでもらいたい。ついでにいうなら、ご心配なく、おれの三学期の成績はオール五でした」  矢嶋はしゃあしゃあといってのけた。遠慮や謙遜って概念を知らないらしい。こりゃお説教タイムが長びくぞ。ぼくは天井に向かってため息。寿命が近いのか、小刻みに明るさを変える蛍光灯。小ウザイは教卓に前のめりになる。 「生まれつきで、そんな色の髪があるか。親のスネを齧ってるガキの分際で。まったく、おまえみたいな粋がったバカがいるから、右近はガラが悪いなんていわれるんだ。後ろ指差されるまわりの身も考えたらどうだ。格好にばかりかまけて道理を顧みないと、いずれ後悔することになるんだぞ」 「Take it back!」矢嶋の声に感情が宿った。その白い頬にほんのり差した血のけ。「おれは四分の一、白人なんだ。噓だと思うなら、おれの親にきけばいい。このガッコの評判をこれ以上墜とすのがいやなら、おれにイチャモンつけてないで、抜本的な努力をすればいい。髪を染めてる人間は」矢嶋は顎をしゃくった。「あんなにいる。どうして真っ先にあいつらに何もいわなかった? それこそ公平(フェア)じゃない。あんた、おれが思いどおりにならないから、当たりたいだけなんだろう」  矢嶋の反駁(はんばく)を、ぼくは遠い岸のできごとに感じた。やっぱり、こいつ合いの子なのか。四分の一って、なんだっけ。じゃなくて……あゝ、だ。 「教師に向かってあんたとはなんだっ。そんなまぎらわしい髪はな、黒く染めてしまえ。あしたからだ。おまえらもだぞ」  えぇーっ!!? 河合を筆頭に茶髪金髪連中が一斉に喚いた。矢嶋は顎を持ちあげる。その高反発マットレスみたいな胸が膨らんだ。 「なぜ、おれまで?」 「理由はさっきいったとおりだ。生まれつきだろうとなんだろうと、わが校の評判をおとしめるという点で変わりはない。染めるべきだ」  矢嶋の目は軽蔑と敵愾で光ってた。ふた回りも年上の教師などおそれてはいないようだ。 「どうしても染めろとおっしゃる?」  ドウシテモに矢嶋は力を込めた。小ウザイはあくまで居丈高にのたまう。 「そうだ」  矢嶋の唇が、不意にほころんだ。銀の歯列矯正器。「わかりました」     ♂ おそらくは宣戦布告 目のまえで咥えてみせた火種の赤は     ♂ 「ご心配なく、おれの成績はオール五でした」河合は気どった声をだした。「って、何かっこつけてんだよ。あいつ、自意識過剰なんじゃない?」  ぼくは苦笑した。矢嶋もこいつにはいわれたくないんじゃないかな。河合省磨・清水俊太・工藤斗南(となん)とともに学校の正門を離れた。静かな雨はやむ気配はなく、かといって強まる様子もない。雨粒が四人の傘にノン・レガートではじける。レオンハルトのチェンバロをぼくは思った。工藤がいう。 「おれ、矢嶋と(ショー)なのよ。ちがうクラスだったけど。あいつ、五年の二学期に転校してきて」 「どっから来たの」と清水。 「ニューヨークっつってたっけか」 「へえ。道理で発音が本格的なわけだ」  巨大な無線中継塔が迫る。四ヶ月まえ、矢嶋が般若と鷹に絡まれていた脇道には、あのときと同じに黒のワゴン/白のセダン。その隙間には、もちろん誰もいない。 「むこうで育ったんなら、エイゴ話せてあたりまえっしょ。だいたい、なんなの、あのクソ生意気な態度?」  河合はねちっこい口調。自己紹介大会はひとり勝ちだと思ってたのに、矢嶋に注目をさらわれたのが気に食わなかったんだろう。こいつって変に負けず嫌いなんだ。 「けど、小ウザイ面倒くさいし、ああいう問題児が一人いたほうが、おれらに矛先が向かなくて便利なんじゃない」  工藤は歯を見せた。お人よしそうに見えて計算のできるやつだ。清水は遠い目でいう。 「生徒と同レベルでやりあってるあの先生、どうかと思うよ。いつも自分が上に立てなきゃ気がすまないなんて、まるでガキだよね」  バーバリーチェックの傘の陰、河合の額がしわっと縮れた。清水は意図しなかったかもしれないが、その指摘は河合にもいえることだった。ぼくは大きめの声で工藤にいう。 「なあ。どこ小なの?」 「藤小。隣に幼稚園あるとこ。おれ、新桜ヶ丘団地で、まん前なの」  河合が口を挟む。「藤小ってことは、矢嶋んちも新桜ヶ丘(シンサク)?」 「なんか三丁目にでかい家あって、そこが矢嶋んちらしいよ」  工藤はいった。河合はそれきり黙りこんだ。  幹線道路の横断歩道で、清水が離脱した。清水んちは横浜新道のむこうの藤塚町だ。  残りの三人は西へ半キロ移動し、新桜ヶ丘の桜並木の坂をくだった。約一二〇本の花のトンネルは、ちょっとした見もの。水たまりに花びらの鱗。十六号線上の跨道橋から、最初の交差点を左へ。長い直線道路の突き当たりが新桜ヶ丘団地だ。そこで工藤が離脱した。  ぼくと河合は藤塚小の校門まえを通過し、開通間近の環状二号線の歩道橋をわたった。数百メートル先で重機がアスファルトを敷いている。ぼくらの母校、今井小も桜がきれいだった。河合はこの天気のせいで眠たいのか、しきりにあくび。一言もしゃべらない。ぼくはおずおずという。 「おまえは、染めなおすの?」 「あ?」不機嫌な声。 「ほら、小ウザイがいったじゃん。あしたから全員黒髪だ! って」  河合の髪はナチュラル風ダークブラウン。計算しつくされた適当さで毛先が撥ねてる。流行りの無造作ヘアってやつ。河合はぼくを見なかった。 「あんなののいうこときくわけないじゃん。せっかく解禁になったってのに。おまえってマジで発想がマジメちゃんだよな。金田一マジメちゃんだろ」  後半のむかつく発言は流すことにした。「解禁って?」 「サッカー部の裏規則で、二年に出世するまで髪そめちゃダメってことになってんだよ。それを破った一年坊は、先輩連中に目ぇつけられてヤバいことんなる」 「大変だな、運動部の縦社会って」 「誰も染めなおしてなんか来ねえぞ。コンソメパンチ一袋を賭けてもいい」 「でも、あいつ、わかりましたっていった」 「口だけだろ。あーいうのは見かけ倒しに決まってんだよ」  そうだろうか。あのときの矢嶋の微笑は、何か自信ありげに感じられたのだ。  くだりのスロープを歩きながら、河合は体ごとふりかえった。ゆがむ薄い唇。 「よし。あいつが髪そめてきたら、おまえにコンソメパンチ買ってやる」 「コンソメ味きらいだってば」 「染めてこなかったら、おまえがコンソメパンチ買えよ。BIGBAGだぞ」 「おまえ貧乏人にたかんのかよ」 「いくらでもねえだろ。そうやってケチケチしてっから、ますます貧乏になるんだ」  ムッとした。ぼくをいらつかせて、河合は満足したようだ。野猿のノリのいい曲をハミングしつつ公園脇を行く。河合んちのマンションは目前だ。それ以上、話す気が失せた。河合も話しかけてこなかった。雨と傘のノン・レガート。ぼくは胃のあたりを撫でた。けさ般若に殴られたみぞおち。冷えたのか、重苦しく断続的に痛んでしかたなかった。      ♂ 擦り減ったニューバランスは地図にない境界線を綱渡りする      ♂  柔らかな光のなか、その人のブラウスに几帳面な皺。顔を見なくとも、母とわかる。母は大きい/ぼくは幼い。アップライトピアノの艶は真新しい。ぼくの手が鍵盤を叩き、母の手が楽譜をめくる。モーツァルト《ピアノソナタ第十一番》第一楽章アンダンテ・グラツィオーソ……子守唄めいた優しい旋律が、変奏に変奏を重ねて延々と続く。ぼくの手は小さく、ぎこちない。爪突(つまづ)く。手の甲を、竹の定規が打つ。やりなおしっ、母の語気は鋭い。弾きとおせなければ、レッスンは終わらない。母は何度でもいう。やりなおしっ。やさしい音が悪夢のように響く。いや、実際に夢だと十三歳のぼくはわかってる。けれど、目覚めるすべがない。息苦しい思い出から逃れられない。おしまいの変奏でしくじる。やりなおしっ。竹の定規は痛い。五歳のぼくは半べそになる。泣いても駄目、やりなおしっ。甘えは許されない。こわばる指。絶望的に弾きとおせない。竹の定規がしなう。やりなおしっ。ぼくは泣き声をあげる。びいびい泣くんじゃないの、男のくせに、ほんっと駄目な子ね。だめな子、その言葉は胸に焼きごてを押されるようにつらい。ぼくは涙を飲んで、鍵盤を叩きだす。傾いてくる午後の陽。暗さに溶けてゆくリビングルーム。薄明、薄闇、暗闇、真闇――ブラックアウト。      ♂ モーツァルト、モーツァルトって獅子鼻の母が譜面の余白で()える      ♂  翌朝は傘は必要なかった。人影のまばらな教室の窓辺に、ときたま春の陽がぼんやりと差す。きのうは空だった前席に女の子。ぼくは静かに席について、その子を観察した。  ブレザーの上からでもわかる、ぽってりと脂肪のついた背中。ちびたポニーテール、襟足の毛がアメリカピンで留めてある。首に垂れたおくれ毛の幾すじか。うなじに向日葵の茎みたいに透明な産毛が生えそろってた。ミクロの世界。人体の神秘。ぼくは小さく感動した。この襟の奥の背中やお尻にも生えているんだろうか。にわかに股間がむず痒くなった。ぼくは椅子を鳴らして、前かがみになった。その音で、その子がふりかえった。  ごく平凡な、だがチャーミングな目鼻。そいつが微笑にゆがむ。いつかのぽっちゃりな雪ん子。ぼくと会えたのが、そんなにうれしいんだろうか。ぼくは弱よわしく笑いかえした。机の下じゃ、しっかり勃起している。湿っぽいトランクス。 「えっとぉ……キタハラ?」 「近いけど、ハズレ」 「キタハタ?」 「遠くなった」 「キタムラ?」 「おしい。一音ちがい」 「うーんとね……キタ、キタ、キタムロ!」 「残念。おれは北浦です」 「キタウラかぁ。おしかった」 「ていうか、そこに書いてあんじゃん」  ロッカーの上のバカでかい座席表を、ぼくは親指で差した。やつは短い腕でちっちゃい手を打った。 「あっ、そうだね。アッタマいい」  もしかして、この子、たんないのかな。ぼくは座席表をたしかめるふりをした。 「雪央っていい名前だな」 「男の子と間違えられちゃうんだ。でも、自分ではすきなの。パパは大地真央さんのファンだから、一文字もらったんだって。けど、ああいうタイプがすきなら、なんでママと結婚したのかなぁ」  切れ長で黒目がち、瞳がきろきろ動く。ふくよかな頬っぺたは血色がよくて、赤ちゃんみたい。ぼくは不思議だった。 「菊池さ、なんできのう休んだの? 超元気そうに見えるけど」 「うんっ、超元気なの。うちのママ、すっごい過保護なんだ。三十七度の微熱くらいで、初登校日に休めなんていわないよね、普通のお母さんは?」 「……うん」ぼくは確信が持てなかった。 「ねえ、自己紹介やらされた?」 「もちろん」  菊池の薄い眉が八の字にさがった。「やだなぁ。自己紹介、ひとりだけ別枠なんて。みんな、どんなこといってた」 「ナントカ部ですとか、趣味はナニナニですとか、そんな感じ。プッチモニ歌ったやつもいたし、あとは英語でスピーチしたやつもいたな」 「英語で。すごいね。どんな?」  ぼくは首をかしげた。「たぶん、リンカーンの演説だったと思う」 「へえ」いたずらっぽく光る焦色(こがれいろ)の目。「北浦はどんな自己紹介したの?」 「おれ?」  好きなのは大バッハ……っていいかけた。菊池の目が真ん丸くなる。ぼくは机の群れのむこうをふりかえった。  噂をすれば、矢嶋さまのご登校だ。ランウェイのモデルみたいに気どってやってくる。ブルースリムジーンズ・二連のウォレットチェーン・消炭色(チャコールグレー)のテーラードジャケット・白のボートネックシャツ……とどめに、その髪は燃えさかるようなスカーレットのミディアムレイヤー。ぼくはあいた口がふさがらなくなった。菊池のつぶやき。 「えっ。何、あの人。ハイパーヤンキー?」  いつのまにか勃起はすっかりひっこんでた。      ♂ 「ブァッカモンッ、おれは染めてこいといったんだっ」  小ウザイが教卓をぶっ叩いた。真ん前の菊池の丸い肩が震えた。菊池の心配は杞憂だろう。クラス担任の頭がわが家のハリオの電気ケトルみたく瞬時に沸騰して、前日に欠席した生徒の自己紹介のことなどキレイに蒸発してしまったはずだ。 「そーでしたっけ?」  パーフェクトにおちょくった口ぶりの矢嶋。活きいきとした目つき。こいつって争いごとが大好きなんだろうか。これから一年間もこんなやつと同じ教室ですごさなきゃなんないなんて、なんだか胃が痛くなる。ぼくはブレザーの第一ボタンあたりをさすった。 「そのバカげた格好はなんだ。あきらかな規律違反だぞ。ふざけるのもたいがいにしろっ」  矢嶋はすっと真顔になる。「ふざけてなどいません。センセエがおっしゃったんですよ、制服はガッコの看板だって。おれはクソ中の宣伝係をやる気はないってことですよ。あのダサい制服さえ着てなきゃ、人はおれがここの生徒だってわからない。それなら、他の生徒の評判にも影響しない。そうでしょう。何が問題なんです」  小ウザイは言葉を失った。おそらくは怒りのあまり。その浅黒い顔が鬼のように凶悪にゆがんだ。あゝ、この人、また教卓ぶっ叩くわ。それを予期して硬くなる菊池の背中。 「あのっ」  ぼくは挙手していた。教室じゅうの視線が一極集中。口んなかがみるみる乾く。ぼくは黒板上の時計を指差した。 「学活おわっちゃいます。次、音楽室なんで移動する時間がないと困ります」  小ウザイはわれに返ったようだ。時計と腕時計をたしかめる。一〇分しかない学活のための時間は、すでに折返し地点。出欠席の確認・注意事項の伝達・プリントの配布……やることは盛りだくさんのはず。 「とにかくっ、今後はその態度と素行を改めろ。髪は染め変えて、あすから校則の指定どおり制服を着てくるように。いいな?」  小ウザイは倍速で点呼を採りだす。ボクシングでいうなら、決着寸前にタオルが投げこまれたってところか。だとすると、ぼくが棄権させたのは小ウザイか、それとも……。  大問題児の目は横暴な担任へ向かってた。それが不意に、ぼくへ。(きり)のように尖った一瞥。心臓がすくんだ。  矢嶋はペーパーバックを読みだした。何ごともなかったみたいに。      ♂ 炎ではない 不完全燃焼のヴァイオリニストの逆巻く怒髪      ♂ 「っとに、さすがだべ、Y氏」  四人組の先頭で河合がいった。横浜駅ばりにごったがえした廊下。ぼくらはひとつ階下の音楽室をめざした。清水がいう。 「Y氏?」 「あれだよ」  顎をしゃくる河合。数メートル前方、消防車色の矢嶋の頭が中央階段へ。河合はいう。 「あれじゃ内申に響くっつうの。三年になって泣くぜ、行き場がなくて」 「そのまえに先輩らに百パー目ぇつけられるね。血を見ずにすみゃいいけど」  工藤がいった。すでにロックオンされてる、あの般若と鷹に。それを告げようとして、口ごもった。ぼくのマヌケさ加減をうまく端折る自信がない。ぼくを小突いてくる河合。 「つうか、なんで止めに入るわけ。小ウザイに徹底的にやらせちゃえばよかったじゃん」 「おれらまで一緒くたで怒鳴られんの、やだろ。そうだ。あいつ髪そめたんだから、ポテチ買ってくれるんだよな。コンソメじゃなくて、のりしおな」 「黒には染めてねえだろ。おまえがコンソメパンチ買え」 「なんでだよっ」  ぼくらは大騒ぎしながら中央階段へ。生徒の小渋滞。下の踊り場で真っ赤っかな髪の矢嶋と、真っ青さおのアロハシャツの坊主頭が対峙してた。ガンの飛ばしあい。アロハの傍らにウルフカットの髙梨与一/セミショートのミズノ。髙梨はアロハと一緒に矢嶋に睨みを利かせ、ミズノはあきれたふうに男たちを見守ってた。かたわらを迷惑そうに、または無関心に人が通り抜ける。トバッチリはごめんだ。ぼくら四人はしじまして、そちらへゆっくりと降りていった。  他の三人は顔を背けていたが、ぼくはそっちばかり見てしまった。坊主頭の無地のアロハシャツがとてもきれいで。沖縄の海みたいな目覚ましいブルー。そいつの横顔に目を移して、ぼくはようやく気づいた。 「芝じゃん」  ぼくは叫んだ。芝賢治とそのツレ二人がこっちを見た。矢嶋がふいとそこを離れた。階段をおりてゆく。シバケンが怒鳴る。 「てめっ、逃げてんじゃねーよ。バぁーカ」  赤い頭はふりかえらなかった。険しい表情のシバケンに、ぼくはみずからの頭を指差す。 「おまえ、どうした」  春休みまえは頬にかかるほどだった髪が、みごとな五分刈りなのだ。頭の格好がいいので滑稽さはないが、違和感が強かった。ロン毛を見慣れてしまったせいだろう。シバケンは顎を撫でて、片手を腰に当てる。 「喧嘩んとき、髪なげえと不利じゃん。気合い入ったろ。かっけえ?」  何コイツ? って目つきで問う河合。面倒でシカトした。ぼくは苦笑し、シバケンの頭を撫でた。ほんものの芝っぽい感触。 「うーん、野球部って感じ」  シバケンはおおらかに笑った。やつはぼくの隣のチンチクリンに手を振る。 「シュンタン、元気ぃ?」  清水が仏頂づらでそっぽを向いた。自然教室の夜にエロい体位の再現につきあわされてから、清水はシバケンを玉蜀黍畑を荒らすアライグマみたいに憎んでた。  ヤンキーズ三人+ぼくら四人が血栓となって、階段の小渋滞は大渋滞に膨らんだ。ぼくは河合たちに手先を振る。先いっててくれ。河合たち三人が動きだすと人が流れだした。 「芝ぁ、カネ返せ」 「あー、はい、はい。カネね」  シバケンは体じゅうのポケットをまさぐる。髙梨がぼくにガンをつけまくってきた。なんだ、てめえ、コラ、ナメてんのか。その無言の圧力を、ぼくはエレガントに黙殺する。あった、あった、とシバケンがブツをさしだした。ぼくの掌へ不二家のミルキーと五十円玉。ぼくは硬貨の穴ぼこを覗いた。 「もっと、まとめて返んない?」 「ごめーん、おれビンボーで」 「貧乏でもキッチリ返してもらうからな」 「うは、きっびしー」  シバケンはその場にうんこ座り。血の色の唇が薄く伸びる。その左の耳たぶに、安全ピンの代わりに、ステンレス製のフープピアスが光ってた。シバケンはやおら手を股間にやって、オナニーの真似をする。 「で、ソッチの調子は、どうよ」  苦手だ、こういうの。ぼくは上を向いて視線を泳がせる。「……ボチボチかな」 「そっかぁ。ま、ガンバって」  やつは励ますように、ぼくの腿を叩く。ぽん、ぽん、ぽん。なんとなく落ちつかなくなって、ぼくは適当な返事をして段をくだった。シバケンはおどけた顔つきで、手をひらひら振った。      ♂ ミルキーの包みのねじれほどきつつ母似の朱唇うすきをにくむ      ♂ 「これから聴くのは、三楽章ある《春》のうちの第一楽章です」  伴野(ばんの)明子(あきこ)先生がプリント紙を配った。机のない音楽室、ぼくらは普通教室の席順を椅子のみでなぞっている。紙の束を五名の先頭のやつらが受けとって、それぞれ後ろのやつへ回す。菊池からぼくは受けとって、そこから一枚とって、残りを後ろの(さかき)言美(ことみ)へ回す。 「この曲は、ある春の情景が(えが)かれています。教科書の十二ページをひらいてください」  あちこちで教科書が羽ばたく音。十二/十三ページには、ボッティチェリの名画《プリマヴェーラ》と、作者不詳のソネットの抜粋。 〝春がやってきた  小鳥たちは陽気な歌で迎える  西風の息吹きに  泉はやさしくこんこんとあふれだす  空を黒いマントがおおい  雷がごう音とともに  春の到来を告げにくる  そして嵐が静まると  小鳥たちは素晴らしい歌を再びきかせる〟 「三分ちょっとの短い曲ですから、集中して聴いてくださいね。どんな印象を受け、どんなことを感じたか、プリントに書きとめてください。あとで意見交換しますからね。もちろん、提出してもらいますよ」  虹を浮かべたレーザーディスクを、先生は再生装置に収めた。威喝い三六インチのブラウン管に、ヨーロッパらしき水辺の街なみ。とテロップ。  ややあって、曲が流れだした。やたら明るく華やかなでだし、ヴァイオリンとヴィオラの協演/チェロとチェンバロの通奏低音。ぼくのイメージは、いちめんのヒナゲシ畑。中世ヴェネツィアの貴婦人がのどかにピクニックでもしていそうだ。  ぼくは膝のうえで教科書を下敷きにし、プリントの空欄に鉛筆を走らせる。春のうつくしい光景がドラマチックに表されている、弦楽器の表現の多様さがよくわかる作品だ、とくに嵐の来る場面のチェロとヴァイオリンの音の対比は、雷鳴の遠近感をみごとに再現していると思う、しかし……と兎の糞ほどの字で感想欄をみっちり埋めてゆく。《四季》だったら、イ・ムジチ合奏団のCDを飽きるほどきいたんだ。  転調。チェロがぞろぞろ重たく響き、ヴァイオリンがひゅんひゅん鋭く鳴る。春の夕立だ。ここのソロヴァイオリンの速弾きは、超かっこいい。でも、音楽室に面したグラウンドからホイッスルと野太い声。荒れ模様のヒナゲシ畑に貴婦人ではなくジャージの中学男子集団が登場し、よくわからないことになる。  曲はいつのまにかやんで、ぼくはなお兎の糞を感想欄につらねた。 「ねえ、そんなに書くことってある?」  間近でささやかれた。ぼくの鉛筆の芯が、折れた。菊池が上半身を背凭れ側に無理やりねじってる。ぼくは小声で返す。 「《四季》とか《春》ってヴィヴァルディ本人がつけた題名じゃないんだよ」 「そうなの?」 「そう。ヴィヴァルディ自身は《和声と創意の試み》ってつけたの。その連作は全部で十二曲あるんだけど、その序盤の四曲に、ソネットっていう十四行の詩が添えられてた。その詩の内容から、その四曲はそれぞれ《春》《夏》《秋》《冬》って呼ばれるようになって、協奏曲集《四季》って通称がついた」 「教科書の、あのつまんない詩?」  笑った。「たしかに月並みだよな。でも、この詩がなかったら、おれたちはちがったイメージでこの曲をきいてたはずだよ。ストラヴィンスキーにいわせりゃ、ヴィヴァルディは同じ協奏曲を五百もつくった退屈な作曲家らしいから。《四季》を名曲たらしめたのは、じつはこのつまんない詩かもしれない。ようするに、そんな感じのことを書いてる」 「へえー、物知りなんだね。すごいなぁ」  菊池は子犬みたいに目を輝かせる。たとえ世辞でも、悪い気はしなかった。 「そこ、私語をしないで」  先生の声。イエローカード。菊池は前を、ぼくは下を向いた。  脇腹を突っつかれた。左斜め後ろの席の清水は、ふやけた笑顔。ぼくと菊池に二本の人差指を向けて、両手でハート形をつくってきやがった。うるさい。ぼくは清水のすねへキック。ひょいっとかわす清水、小動物の機敏さ。むかつく。ぼくはめちゃくちゃにキックを繰りだした。清水も地味に応戦してくる。けれど、やつがくすくす笑いつづけるもんだから、ぼくもだんだんおかしくなってきた。笑いの感染力はインフルエンザばり。とくに静寂を強いられる授業中なんかは、それが一.五倍になる。しまいに、ぼくらは腹をかかえてひーひー笑い苦しんだ。 「こらっ、そこの二人、ふざけんじゃないの!」  再び音楽室のドンのお叱り。イエローカード二枚目。あぶない、危ない。ぼくと清水はニヤニヤをひっこめて、うなずきあう。それぞれの感想文に、まじめに専念しよう。  鼓膜に刺さるガラス質の破砕音。ぼくの二本目の鉛筆の芯が砕けた。えっ、なに? とうろたえた女子の声。窓だ。音だけで確信し、ぼくは立ちあがった。たくさんの凍りついた頭のむこう、後ろから二枚目の窓が破れてる。その真ん前にいたのは矢嶋。こいつがやった? 瞬間、そう思った。だが、矢嶋のまわりにはガラス片が散っていた。ちがう、外側から割れたんだ。矢嶋はゆっくりと席を立つ。その膝から破片が落ちて、他の破片に重なって鳴る。 「矢嶋くん!」  アッコ先生が矢嶋へ駆け寄った。だが、カーペットに無数の鋭利な輝き。音楽室は土足厳禁、ぼくらは靴下ばき/先生はストッキングに薄いスリッパだけ。離れて案じることしかできない。 「大丈夫なの、痛いところは?」 「無事です」  ぼそりという矢嶋。やつは何かを拾いあげた、野球の軟式ボール。体育で野球をやってたのか? 外の男子たちはハードル走の真っ最中。こっちの非常事態には気づいてない。じゃ、あのボールは? 先生が猛然と割れた窓の隣を叩きあける。レッドカード! 「誰なのっ、でておいでなさいっ‼︎」 「とっくに逃げてます」  矢嶋がいった。こんな状況なのに、いやに落ちつき払ってる。矢嶋はボールを先生へほうった。先生は両手で受け止める。 「あなた、やった子を見たの?」 「危ないですから、女の人はさがっていてください」  矢嶋は質問に答えなかった。その場からガラス地帯を跳び越える。まるで熊川哲也。矢嶋は掃除用具から塵とりと帚を持ちだす。先生が止めるのもきかず、大きな破片は素手で塵とりへ拾い、こまかな破片は帚で掃き集めてゆく。東京ディズニーランドのスタッフみたいに、すべてが振りつけられた動作に見えるから不思議だった。 「みんな、自習して待機していなさい」  先生はケータイでどこかへコール。ざわつきはじめる、その他大勢。清水がいう。 「びっくりしたぁ。ゴルゴの狙撃かと思った」 「おれ、つぎ書こうとしてたこと、ふっ飛んじゃったわ」  ぼくはへなへなと着席した。あゝ、心臓に悪い。ぼくのプリントを覗きこんで、清水はあきれ声。 「もう充分じゃないか」 「まあな」  ぼくは文の末尾を切りのいいかたちに手直しした。これでA判定+特大花丸ってところだろう。壊れた窓からの春風がプリントのはしっこをくすぐる。菊池がまた上半身をよじって、こっちを見てる。いや、矢嶋のいるほうを。ぼくは苦笑した。 「朝からずっと騒がしくて、参っちゃうよな。あいつって、すんごいトラブルメーカーなんじゃないの」  菊池はなんだかふくれつら。「矢嶋くん、どっか切ったりしてないかな」 「大丈夫だろ。無事だって本人がいってんだから」 「でも……」  その続きを、菊池は口にしなかった。一瞬、咎める目つきになって、ぷいっと前を向いた。揺れるちびたポニーテール。  おもしろくなかった。ぼくはなのに、あいつはなのかよ。      ♂ これ以上尖れないほど尖りきり折れやすい鉛筆のプライド

ともだちにシェアしよう!