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六哩(群青ヒエラルキー)

 握ったら染まりそうな若葉に朝の風。防球ネットごしのクレイコート、女子軟式テニス部の数十名から、ぼくは瞬時に菊池雪央を見つけだす。菊池は染谷(そめや)(みやこ)とショートラリー中。ださい紺のジャージ・跳ねるちびたポニーテール・赤ちゃんみたいなふくよかな笑顔。ほんの数秒、ぼくは眺めて、そこを通りすぎる。     ♂ 薔薇も海も見えない街で少年はいつも少女を見つけてしまう     ♂  五月の大型連休明け、ぼくら二年F組男子に大腕相撲ブームが到来した。連日、休み時間の教卓が臨時のコロシアムになった。  ぼくの右腕に両腕で全体重をかけてぶらさがる清水俊太。かるい、軽い。ぼくは笑いながら倒した。キイィー! と子猿のようにヒスを起こす清水。どうどうどう、と工藤斗南になだめられる。はい、つぎ。  よろしく、と握手する工藤。開始三十秒で、ぼくの押し勝ち。北浦、強いなぁ、と工藤は爽やかに、くしゃんと笑う。スポーツマンシップ。はい、つぎ。  真っ赤になって唸りながら力む河合省磨。ぼくは涼しい表情でチャンスをうかがう。河合がわずかに力を抜いた瞬間、一気に倒した。教卓まわりから太い感嘆の声。ギャラリーは野郎ばかり。紅一点がアリーナ席の菊池。すごい、すごい! ってちっちゃい両手を叩いてる。くそっ、ぜってえ、おれのが筋肉ついてんのに、とぶつくさと河合。なんせ、河合はサッカー部の次期エース最有力候補(自己申告)、こっちは帰宅部代表の運動音痴(事実)。ぼくはほくそ笑む。腕相撲がただの腕力勝負だと思いこんでちゃ勝てっこない。必要なのは筋力よりも圧倒的にテクニック。構えと握りかたで、ほぼ決まる。基本は単純。自分の拳をなるったけ肘に近づけ、反対に相手の拳は肘から離してやればいい。小三の理科で習った梃子(てこ)の原理の応用編。河合なんかとはおつむの出来がちがうんだよ。 「おまえ、まーた本なんか読んでんのかよ。お高くとまっちゃってよぉ。ちったぁ対人関係のおベンキョしたらどうだ。たまにはこういう遊びに参加してみるとかさぁ」  河合が八つ当たりしてるのは、窓際最後尾席の問題児。うるさい、って目つきの矢嶋健。窓辺の桜若葉を意識してなのか、その髪は皇帝緑(エンペラーグリーン)のスパイキーショート。橄欖(オリーヴ)色の麻シャツの胸もとから、青蔦色(アイヴィー)のアンダーシャツの襟。象牙色(アイヴォリー)のチノパン。全部グリーンづくめじゃないところがセンスいい。  黒く染めろ! って担任の香西博文に怒鳴りつけられるたび、矢嶋は髪を黒以外のカラーに変えて応戦した。あるときは薄黄鼠(アッシュグレー)。あるときは鮭色(サーモンピンク)。あるときは菫色(ブルーヴァイオレット)。あるときは酸橙色(アシッドオレンジ)。とうとう、やつには通り名がついた――レインボー矢嶋! 怪しいマジシャンかよ。さしものの小ウザイもやがて根負けしてしまい、今じゃ完全無視で通している始末。たいした神経だ。菊池じゃないけど尊敬しちゃう、ある意味ね。 「興味ない。内輪でハシャいでればいいだろ」  矢嶋の手に英文のペーパーバック、裏表紙に鹿撃ち帽にパイプを咥えた横顔のシルエット。もしかしてコナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズかな。ぼくも小学生のころハマった。カタカナの名前が覚えられなくて途中で飽きちゃったけど。河合がいう。 「逃げんのか。さては勝つ自信ないんだろ。その筋肉は見せかけか」  矢嶋の顔に反発心。こいつってあまり冷静沈着ではないのかも。鋭く表紙をとじる矢嶋。なめらかに立ちあがって、四角い顎を不敵に持ちあげる。 「一番強いやつは?」  控えめに挙手するぼく。教卓を囲むギャラリーが割れて、矢嶋が挑戦者の座についた。いざ対峙してみて、たじろぐ。首が太くて、胸板が厚い。身長は十センチ以上、体重は十キロほど、ぼくより上だろうか。うわ背はともかく、目方は重いほうが、やはり有利だ。  矢嶋が右目をつむった。ウィンク? ……じゃないようだ。ライフルの照星で狙いをつけるふう。その三白眼気味の小ぶりな虹彩は、鋼色(スチールグレー)っぽかった。その頬の異質な白さ。四分の一、白人の血がはいってるって話は、おそらく事実なんだろう。  矢嶋はすっと屈んで、右腕を教卓の天板に構えた。いやに長い前腕。そのハーフスリーヴの下、存在を主張する上腕二頭筋と三頭筋。ハードな運動部員? その掌はジャイアントキャベンディッシュみたい。絶対これでビンタされたくねえ。死ぬ。  いや、気合い負けしてる場合じゃないだろ。腕相撲王の名誉がかかってるんだ。ぼくはさりげなく菊池を見やる。あの子は矢嶋とぼくを見くらべて、ほのかに頬笑んでる。  矢嶋は腕相撲がとくべつ得意ってわけじゃなさそう。腋を締めることは知っているようだが、肘はもっときつく鋭角に曲げてなきゃいけない。一言でいえば、なってない。うん、勝てる。ぼくも右腕をだして、矢嶋の手をとった。乾いた皮膚の高い温度。組みあわさった二つの拳に、置かれるレフリー工藤の平手。工藤が問う。 「レディ?」  この焦げるような数秒間。口腔内が急激に干からびてくる。矢嶋の腕に走る筋肉の浅い影。工藤が手を振りあげる。 「ファイッ!」  ぐわっとおそろしい力が右腕を襲った。へたすりゃ骨折しそう。しかし、ぼくの腕を九十度以上に倒せない。絶妙の、前腕のアングルと、肘と肘の位置関係。支点・力点・作用点、計算どおり。あとは河合のとき同様、したたかにこらえきり、矢嶋がへばるのを待てばいい。  矢嶋はアーノルド・シュワルツェネッガー扮するターミネーターのごとくタフだった。なかなか、くたばらない。でも、時間の問題だ。いや、そのまえに昼休みが終わっちゃったりして。ぼくは腕時計を見やる。とたん、天井際のスピーカーから伸びきったテープレコーダーの予鈴。一時三〇分。あと五分。  ぼくはうわ目づかい。いつもは白桃色の矢嶋の頬が、濃いローズピンク。目線が克ちあった刹那、殺気を放つ三白眼。こわっ。ぼくは拳のみを見ることにした。火照ってくる全身の筋肉。ワイシャツの袖をまくったぼくの腕にも、矢嶋の(なま)(ちろ)い腕にも、静脈が青く太く盛りあがってる。それが赤ちゃん蛇のように今にも皮膚を食い破ってでてきそう。  ビリッと前腕に疼痛。力が、はいらなくなる。ぼくの手の甲が教卓の天板を叩いた。白い腕に組み伏せられた黄みがかった腕。イェスッ! と矢嶋の鋭いささやき。呆然とした。工藤がビシッと手を振って、プロのレフリーのように宣言。 「ウィナー、矢嶋っ!」  再びギャラリーから太い感嘆。こんどは拍手まで。矢嶋はさっと腕をひっこめて、その掌をチノパンでぬぐう。ごしごしごしごし……。こんにゃろう、失礼なやつだな。ぼくは左手で右の前腕をつかんだ。親指側の筋がびりびりする。どうした? と工藤。 「腕のすじが痛い」 「つったか? 待ってろ。冷却スプレー貸してやる」  工藤は教室なかばの自分の席へダッシュ。さすがはサッカー部員。冷却スプレーをご持参とは。運動音痴でスポーツ嫌いのぼくは、筋が攣るなんて初体験。こんなに痛いと思わなかった。瞬時で氷の粒になるスプレーを患部に噴きつけて、タオルで包んで……と甲斐がいしく介抱してくれる工藤。いいやつだ。 「おれの勝ち」  歯列矯正器を光らせて矢嶋がいった。あのテニエルのチェシャ猫じみた笑い。ぼくはムッとした。 「腕さえ攣らなきゃ、おれは勝てた。運がよかっただけだろ」 「運も実力のうち」矢嶋の声はコントラバスめいた響き。「おれの勝ち」 「はっはぁー、負けてやがんのー。だっせー」  茶々をいれてくる河合。ぼくはキレた。 「こんなターミネーターみてえのに勝てるわきゃねえだろ。文句あんなら、おまえがやってみろっ」  タァミネイダー? と矢嶋。まずい、口が滑った。矢嶋の顔色を盗み見るが、でかい同級生はべつだん気分を害したふうもなく、ぼくを不思議そうに眺めているばかり。ぼくは弁解しないことにした。河合にいう。 「ほらっ。ここ来て、やってみろ」  矢嶋がふいっと教卓を離れた。えっ? と思った。河合が矢嶋の背中に食ってかかる。 「なんだよ。勝ち逃げかよ。ずりいぞ」  矢嶋は河合を顧みて、ぼくを指差す。「そいつに勝ってから、でなおしてこいよ」  河合の狭い額が縮れて顔全体が紅潮した。相当むかついたらしい。うん、わかる。その気持ちはよぉーくわかるぞ。  新チャンピオン矢嶋は、悠々と窓際最後尾へ帰還。いそいそとペーパーバックをひらく。よっぽど読書好きなんだな。日本児童サイズの机と椅子は、矢嶋にはひどく窮屈そう。  菊池は頬づえついて矢嶋のほうを見つめてやがる。興味津々の子犬の目。くそっ、おもしろくねえ! 同じく矢嶋へ注目しながら工藤が、河合にきかせないようささやく。 「Y氏って、ちょっと、かっこよくねえ」 「かっこいいか?」ささやきかえすぼく。「おれは、あのすかした感じ、むかつく。あー、痛い、痛い」 「おい、北浦ぁ。もういっぺん勝負しろ」  教卓ごしに腕を突きだす河合。ぼくはスプレーの余韻でつめたい前腕を揉む。 「やだよ。まだ腕いてえもん」 「いーから、早くやれっつうの」  なんって自己チューなやつ。慣れているとはいえ、さすがにうんざりした。ぼくは工藤にいう。 「なあ、名探偵くん。北浦代理で、こいつの相手してやってあげて」  くしゃんと(まなじり)に皺をつくる工藤。シャイな笑顔だ。      ♂ 勝ちはない引き分けもないリタイアもない それがわが人生である      ♂  以降、負傷兵となったぼくは前線を離脱した。教卓上の腕相撲コロシアムを、アリーナ席で菊池と清水と観戦した。F組男子たちの実力は団栗の身体測定。  そこへなぜか二年C組の芝賢治が飛びいり参戦。シバケンはギッチョだ。右利きの連中に強引に左腕での勝負を挑んでは、あっさり負かして悦にいった。むろん、顰蹙を買い、みんなの腕相撲熱が醒めてしまった。  ブームは始まりと同様、忽然と終わった。だらけた退屈な日常が戻った。それに唯一よろこんだのは清水。 「だって、この体でどんなにがんばったって、体のでかいやつに勝てるわけないもの。シバケンもたまにはいいことするんだね。つぎはスピード勝負の遊びが流行らないかなぁ。叩いて、かぶって、じゃんけんぽん! なら、ぼくチャンプになる自信あるな」  天気がくだり坂な月曜日。ぼくら四人は河合の席を中心に、それぞれ適当な空席についている。清水を睨む河合。こいつは矢嶋に挑戦するチャンスを失して、トサカに来てる。清水はごく無邪気に続ける。 「ぼく、早口言葉も得意だよ。ナマムギナマゴメナマタマゴ・トーキョートッキョキョカキョク・ボーズガジョーズニビョーブニジョーズノエヲカイタ」  工藤がげらげら笑う。「なんで坊主がジョーズの絵ぇ描くの! なにげにトチっただろ」 「うるさい」  河合は不機嫌全開。しゅんとしてしまう工藤と清水。どう河合の気をまぎらわそう。片イヤホンからヴィエルヌ《二十四の幻想的小品集》より《ウエストミンスターの鐘》。学校のチャイムでおなじみの、あの音階のリフレイン。ぼくは慎重に口をひらく。 「そういえばさ、つぎって学活だろ。たぶん、来月の遠足の班分けとかじゃない。女子と混合じゃん。どのへんの子と組む?」  どのへんの子。そのニュアンスは、他の三人にもちゃんと理解できるはず。教室には不安定で曖昧なヒエラルキーがある。目立って、強気で、声の大きいやつが上/地味で、おどおどして、何もいえないやつが下。その中間層を、ぼくは緩やかに浮き沈みしながら回遊してる。このグループ内なら上層代表が河合で、下層代表が清水だろう。そのヒエラルキーの海で、みんなは溺れないよう必死に水面方向を目指す。そのなかで河合は、なんだか余裕そうに見える。強者のホオジロザメ。やつはいう。 「カンナたちあたりにするか」  あの四人組か、音羽(おとわ)カンナ・堤香織・長谷川(はせがわ)法子(のりこ)樋口(ひぐち)未空(みく)。やつらは身なりを気づかって、弁当を食うときも机に鏡を置くようなタイプのグループ。その小ぎれいでオシャレな外見には好感を持てる。その代わりキャーキャーやかましくて、ぼくは少し苦手。ぼくはさりげなくいいそえる。 「菊池は?」 「ユキオトコ?」苦笑する河合。「まあ、あいつもいれてやるか。友達いないし」  菊池はF組のなかで浮いていた。女子とはちっともつるまず、男子とばかりしゃべった。あの子のことが、ぼくは心配だ。教室で孤立するやつは、いじめの対象にされやすい。女の世界のことはよくわからないが、なんとなく菊池に対する女子たちの目は冷たい気がした。菊池のメンバー加入権を確保したことで、ぼくはほっとしていた。  だが河合のやつは、ぜんぜん別なことを考えていたみたいだ。      ♂ 学校のヒエラルキーがわからない子の口笛のドラクエ序曲      ♂  五時間目の学活の議題は果たして、ぼくの予測どおり。来月の千葉・マザー牧場への遠足について。班のメンバー決めは、基本的には普段の男子グループと女子グループのお見合いってところ。おもしろいことに派手な男子は派手な女子と、地味な男子は地味な女子とくっつく。類は友を呼ぶ? そんなんじゃない。地味なやつには選択権がないのだ。誰だって強くてキレイで楽しいもののほうが好きだ。そのほうがかっこいいと思ってるんだ。  音羽たち四人組+ぼくら四人組+菊池は、河合の席を中心に立ったり座ったりしてる。面倒なリーダー役を買ってでる工藤。ダーメダーメ、とさんまのギャグを飛ばす河合。キャーキャーいってる音羽以下四人組。やっぱ、うるせー。一方、つつかれた蜆みたいな清水。ほのかに赤くなってうつむいてる。このチンチクリンは女子に対しての耐性ゼロ。菊池もだんまりがち。姦しい女四人衆と距離を置いて、ぼくの隣で頬づえ。退屈そうな顔。ぼくはこしょこしょと話しかける。 「なんで菊池って女子としゃべんないの?」 「だって、女ってめんどくさいじゃん」  こしょこしょと応じる菊池。ぼくは笑ってしまった。 「菊池、色男みてえだな」 「いっそ男ならよかったかも」  菊池はにこりともせずにいった。暗い声。ぼくはなんとなく、それ以上はきけなかった。 「なあ。Y氏って、どうすんだろ?」  工藤が指差す窓際最後尾の席、ぽつんと読書に励む矢嶋。何やってんだ。集中しすぎてまわりが見えてないとか? いや、やつはそんな鈍いタイプじゃないな。プライドが邪魔して、自分からはみんなに声をかけられないのかも。いるよね、そういうの、クラスに一人は。工藤は冗談めかしていう。 「誘っちゃおっかな~」 「あゝ、誘ってこいよ」  意外にもあっさりと許可する河合。目を丸くする工藤。この河合のことだ。矢嶋と同じ班になれば目に物いわすチャンスも巡ってくるとでも考えたんだろう。 「マジで? じゃ、ちょっくら行ってくんわ」  工藤は窓際最後尾へ小走り。骨を投げられた犬みたい。嫌な予感。あの矢嶋のことだ。ロクなことにならないに決まってる。ぼくははらはらと見守る。矢嶋の脇に立つ工藤。ページから顔をあげる矢嶋。 「矢嶋くん、はいるとこ決まってないよね。よかったら、おれらの班に来ない?」  ヤジマくん! 工藤はふだん人にクンづけなんかしない。でも、きっと面と向かっては呼び捨てにしにくいんだろう。矢嶋って威圧感あるもんな。工藤を無表情に見ていた矢嶋は、再びページに目を落とす。 「必要ない。遠足は行かない」 「どうして」 「どうして?」鸚鵡(おうむ)返しにする矢嶋。ひどく鬱陶しそう。「理由を百語以内で説明しろって? そんなことする義理も道理もないと思うけど」  矢嶋はすかした表情でページを繰る。工藤は凍ってる。あんな冷淡な反応をされるなんて思ってもみなかったんだろう。そんな工藤にトドメを刺す矢嶋。 「くだらない用がすんだなら、むこう行けば」  ぐわっと赤くなる工藤の頬。おいおい、そりゃないだろうよ。工藤は親切で声をかけに来たのに。ぼくは工藤にしんそこ同情。いままでの言動から鑑みて、あのサッカー部員は矢嶋に好意的な感情をいだいてたんだろう。友達になりたかったのかも。でも、あれじゃ、それも台なし。 「なんなの、あいつ! すっげえヤなやつじゃん。超ガッカリしたわ。マジ最っ低」  ぷりぷり怒りながら戻ってくる工藤。あーあ、せっかくの貴重なファンを失望させちゃって。バカだな、あいつ。矢嶋は工藤を見てもいない。本の虫。ぼくはわからなかった。あいつ、孤立してるってのに、どうして平然としていられるんだろう?  班のメンバーが決まったら、その名前を黒板に記入しなきゃいけない。なぜか、その役を河合がやる。おかしい。そういう雑務は、いつだって工藤やぼくに押しつけるのに。やつは白いチョークで、B班の欄にみんなの名前をつらねる。。きったねえ字。女子の名前はきっと、河合のお気にいり順だな。ぼくは気づいた。あれっ、清水は? それと同時に本人が河合にいう。 「ねえ。ぼくの名前、忘れてるよ」  清水は名前を書きたそうと黒板へ寄る。その正面に立ちふさがる河合。あいつの身長は一七〇センチに少したりない。いまだ一五〇センチ未満の清水と並ぶと、大人と子供みたい。途惑う清水に河合は告げる。なんだかとても気持ちよさそうに。 「おまえは、ダメ」  ……え。口のなかで小さくつぶやいて、清水は笑みをこわばらせる。リーダー格、直々の戦力外通告。工藤はそっぽを向いていた。清水はぼくを見た。助けを求めるように。だが、ぼくは目を伏せてしまった。清水を一番の友達だと思ってたはずなのに。臆病者の自己保身。呆然とする清水をきれいに無視して河合は、もう音羽たちとコース決めのことでキャーキャーはしゃいでる。ぼくは河合を睨んだ。やつは下品に大口あけて笑ってる。班にいれたくないなら、まえもってはっきりと伝えればいい。どうしてこんな回りくどい残酷なやりかたをする必要がある? だいたい清水が何したってんだよ。  でも、それに少し加担したぼくだって同罪か。清水はおどおどしながら別の班の椎野亘に話しかけている。遅まきのメンバーいり交渉。かわいそうに。      ♂ 罪悪のざらつきの見て見ないふりカモフラージュのためヘッドホン      ♂  河合に切られた清水は漂流を始めた。五月も中旬。クラス内の友達コロニーはずいぶん固定化してきている。それでも、清水は人づきあいがヘタなわけじゃない。ちゃんと居場所を確保した。清水が加わったのは万田(まんだ)吉太郎(きちたろう)・溝下潤・村木(むらき)哲久(てつひさ)たちのグループ、通称Mスリー。地味でダサくて鈍くさい連中。それでも、清水はうまく溶けこめているふうに見えた。そのまま、そこに定着できたら、それはそれでよかったはずだ。  だが、清水はとことんツイてなかった。      ♂  霧雨の土曜日。北校舎三階の体育館。トーナメント表の頂上で、ぼくらF組男子出席番号奇数組はE組男子出席番号偶数組とぶつかった。優勝決定戦! たった全四グループだが、オスザルどもはヤル気満々。単元はバスケットボール。ぼくの最も不得意とする球技。ぼくは当然のごとく補欠にされ、折り重なったマットのうえで体育座りして見学してた。  試合は矢嶋の独壇場。その体格のよさを活かし、ハーフコートを縦横無尽に駆け抜ける。矢嶋の突進に、びびって避けてしまうE組の杉俣孝作。アメフト選手かよ。そのエース矢嶋の名アシスト役が清水。うんと腰を落としてドリブルしながら、ちょこまか逃げまわる小柄な清水を、誰も捕まえられなかった。清水はトリッキーなフェイントを繰りかえし、素速く的確にボールを送りだす。それを長身の矢嶋がしっかとキャッチして、やすやすとゴールリングに叩きこむ。スラムダンク。まるで二人だけの世界みたい。  そういう体での会話を、スポーツほぼ全滅のぼくは眩しく眺めてた。だから、すぐ気がついた。E組のトンボ鉛筆みたいにのっぽでガリガリなやつが、清水を執拗にマークしてた。ボールを持っていない清水を、さりげなく小突いたり、こっそり蹴ったりする。試合の流れとは無関係な陰湿なファール。審判の小ウザイは見ていない。よっぽど知らせにいこうかと思った。いや、そうすればよかった。でも、そのときは白熱した勝負に水を差す決心がつかなかったんだ。  のっぽはしつこかった。じりじりと逃げる清水に、満員電車の痴漢みたく寄り添ってゆく。早く試合が終わってくれって思った。でも、それより先に清水の我慢の限界が来てしまった。やつは本来は勝気なんだ。ただ人見知りのきらいがあって、すっかり馴染んだ相手以外にはその面をださない。ぱっと見はおとなしそうだから、のっぽは高をくくってたんだろう。  ボールを両手キャッチした清水は、くるりと片足で方向転換。全身で振りかぶってボールをぶん投げた! いまの競技はドッジボールじゃない。しっかり空気の詰まった硬いボールが捉えたのは、のっぽの顔面のド真んなか。ボールのゴムが鋭い高音で鳴った。他の連中はもれなくその場で氷の像と化した。のっぽのアバタづらにはじかれたボールが、遠く場外へとバウンドしてゆく。ワックスの剝げたフローリングに、ぼたぼたと散る鮮やかな赤。のっぽの両手で覆われた鼻から、みるみるあふれだす。清水は見たことのないおっかない顔をしてた。  のっぽは鼻を押さえた指のあいだから睨みかえした。そこにある憎悪の色。……ぞっとした。思わず、のっぽのジャージの長ズボンをぼくはたしかめた。󠄀。ほつれた刺繍はそう読めた。      ♂  つぎの週から、葛󠄀城(かつらぎ)は清水につきまとった。体育のたび清水を追っかけまわし、因縁をつけて絡んだ。まるで追跡ミサイル、ギザギザの歯が描いてあるやつ。つきあいの浅かったMスリーは清水をあっさり切り捨てた。清水は負けてなかった。あいつはけっこう口が達者だ。理路整然と反論した。だが、葛󠄀城は理論では返さない。はあ? チビの声って小さくてきこえないなぁ。小学校低学年レベルの屁理屈。って単語で短い導火線に火がついてしまう清水は殴りかかった。しかし、いくら葛󠄀城がガリガリだからって、あの身長差じゃ清水はかないっこない。返り討ちにされた。  そして、葛󠄀城はやりかたをエスカレートさせた。      ♂  それから体育後の着替えのたび、いつかは腕相撲コロシアムだった教卓が、惨劇のステージになった。主役は清水、準主役は葛󠄀城、端役は名前のわかんない面長のやつ。みんなぁー、清水チビ太くんのオナニーショーの始まりだよ! 葛󠄀城がのたまう。教卓そばのA席で、ぼくはなるべく顔を背けてる。いつかのシバケンのオナニーショーを思った。あれは最高最上だった。ぼくは一瞬だけ、そちらへ目をやる。教卓に乗った真っ裸の清水。それを羽交い絞めにする葛󠄀城。清水の股間を摘まんでいじっている腰巾着くん。ぼくは片手で目を覆う。これは最低最悪だ。そもそも、これはオナニーですらない。強制わいせつ、犯罪だ。清水は、されるがまま。こいつは素ばしこいけど、ぜんぜんスタミナがない。初めは抵抗していても、すぐにバテてしまうんだ。清水は一分とかで射精する。でも、その一分間が、いやに長い。  その他大勢の反応は二つに分かれた。しっかり見るか、目を背けるか。どちらかといえば見るやつが多かった。見ていてやるのが思いやりか、目を背けてやるのが思いやりか。よくわからなくて、ぼくは清水を見たり、みんなを見たり、清水を見たり、みんなを見たり……ぼくは半端者だ。  窓際最後尾の矢嶋は、ウォークマンのイヤパッドで外界の音を遮断し、しっかりと目をつむっている。完全無視の構え。こいつって超自分本位だよな。  廊下寄りの列のなかばの席の工藤は、なるべく見ないようにはしているけど、なんか、すっげえ、つらそうな顔つき。こいつは、やっぱり根がやさしいんだろうな。  廊下際最後尾の河合は、横柄に椅子に凭れて腕組みして見ていた。ニヤニヤしながら。人が苦しんでいるのを楽しんでる。河合は思いやりが、ない。  清水が果てる。鼻を掠める、あの六月の花栗のにおい。うわっ、きったねー! 葛󠄀城が罵声を浴びせる。汚いのは、おまえだ、葛󠄀城。心のなかで、ぼくはいう。でも、それを口にはできない。口笛でも吹きそうに意気揚々と去ってゆく葛󠄀城。腰巾着くんは軽鴨(かるがも)の子みたく従う、怪我でもしたのか右足をひきずって。  残された清水は体を拭くこともせず、慌ててブリーフとズボンとワイシャツを着こんで、ポケットティッシュで教卓をきれいに掃除する。被害者による証拠隠滅。  着替えのすんだ女子たちが、出入口付近の席の河合に状況を問いただしたのち、ようやく教室にはいってくる。じかに目にはしていなくても、やつらだって何が起きているかはわかってる。わかっていて傍観してる。ぼくも、また。  全員、共犯者だ。  清水は泣いている。      ♂ 教室の死角で笑う連中をあの子の丸い鏡が見せる      ♂  梅雨前線がでばってきた金曜日がマザー牧場への遠足。天気は曇り、ときどき小雨。傘が手放せない。だいたい、こんな雨どきに野外でのイベントを敢行することが、どうかしてるんだ。クソ中って教師もバカなのかもしんない。  校外学習って、ファッションセンスがもろばれになるよな。頭から爪先までカラフルでスタイリッシュで隙のない音羽以下四人組。寒色系チェックのネルシャツ・人参色のTシャツ・迷彩カーゴパンツ・ハイカットのコンバースの河合。亜麻色のカーディガン・白のブラウス・矢車菊色のスカート・勿忘草色のタイツ・水玉のレインブーツの菊池。ハンテンの鼠色のキャップ・黒のジャケット・藍鼠のハイネック・鉛色のスリムジーンズ・ニューバランスの工藤。みんな、それぞれイイ感じ。ぼくはキャップ以外は工藤と似たような格好。だけど、ぼくの蕎麦色のジャケットはくたびれ気味。なぜ、みんなはイベントのたび、わざわざ上から下まで新品をそろえるんだろう?  五千株のラベンダー畑に、ぼくはシャッターを切った。あとで書かされる学級新聞のためだ。忽然とB班のみんなの姿がなかった、菊池以外は。ふたりで顔を見あわす。山羊に鼻を抓まれた気分。つぎのブルーベリージャムづくりの会場を目指せば合流できるだろうと踏んで、ぼくらは歩きだす。  雨の降りが激しくなってきた。風も。ぺかぺかの折りたたみ傘じゃ、まにあわない。ぼくと菊池は、そのへんの簡素な牛舎で雨宿り。牛の強い生命力のにおいがロマンチックさを半減させてはいるものの、学校じゃないところで、こんなシチュエーションで女子と二人きりなんて、マジで正真正銘の初体験だ。わぁーお、なんか落ちつかねえや。ぼくは両手で二の腕をこすった。菊池がいう。 「寒いの?」 「えっ。うん、ちょっとな」 「濡れちゃったもんね。あたしも寒い」  うわ目づかいの菊池。ぼくの鼻のやや下、その黒髪の分け目から香るリンス。どこにも存在しない花の匂い。うっすら、どきどきした。ドビュッシー《亜麻色の髪の乙女》が脳裏を掠める。こういうときって何しゃべりゃいいんだ? えーっと、えーっと、えーっと……頭がからから空回り。 「ねえ。スキー教室のときのこと、おぼえてる?」  菊池から話しかけてきてくれた。白セーターの雪ん子。ぼくは頬笑む。 「もちろん」 「あのね、河合ってひどいんだよ。北浦が来るまで、あのクモの相手、あたしがさせられてたんだ。おまえ、いちばん度胸ありそうだろ、デブだから、って。マジ最悪じゃない? あたしだってクモきらいなのにさ。北浦が追いだしてくれて、ほんと助かったよ。あのときは、ありがとね」  ぼくに再会したときの菊池の喜びぶりを思いだす。「そうだったのか」 「あのあと、北浦の部屋に、変な電話かかってきたでしょ」 「なんで知ってんの」 「あれかけたの、竹宮朋代なんだ。ほら、あの髪ながいキレイな子。河合が北浦の部屋の番号おしえて、かけさせたんだ。おとなしそうな顔のやつらばっかだったから、きっとおもしろいぞ、って。最低じゃない?」  河合のやりそうなことだ、その点は驚かなかった。あの泣いてたような声、あれが竹宮朋代? ぼくは無意識に唇を強く嚙んでいた。根拠はないけれど、あれは経験に裏打ちされた演技に思えたのだ。 「でも、あの子、なんか頭おかしい男子がアンアンいってくるからキモかった、って怒ってた。マジいい気味。ねえ、それって、もしかして北浦?」 「おれなわけないじゃんっ。芝っていうヤンキーのやつだよ」  ぼくは手を全力で振った。菊池は笑顔になった。 「シバって、芝賢治くん?」 「知ってんの?」 「初音小だった。同じクラスだったこともあるよ。あのころから、ちょっとワルかったけど、そっかぁ、やっぱヤンキーになっちゃったんだね」 「初音なら、清水ともおな小じゃん」 「えっ、そうなの、清水くんて初音?」 「知らなかったの?」 「うん。あんな子いたっけ。記憶にないなぁ」  ぼくは苦笑した。影薄かったんだな、清水。 「でも、清水くん、あたしに何もいってくれなかったよ。清水くんも、あたしのこと、おぼえてなかったのかなぁ?」 「あいつ、女子と口きけないから、うまくいえなかったんじゃないの」  菊池は声を立てて笑った。「清水くん、あたしを女の子だと思ってくれてたんだ。それ、うれしいかも」  ぼくは複雑な気分だった。そういや、清水もだな。 「ねえ。北浦は、なんで河合なんかと一緒にいるの。清水くんのこと、急に仲間はずれにしてさ。北浦にも、いっつもすっごいバカにしたみたいな態度とるし。よくむかつかないで相手してられるね?」 「いや、むかつくけど」 「じゃあ、なんでつきあってるの」  考えたことがなかった。どうして、ぼくは河合とつるんでる? あいつのことは好きじゃない。自己チューだし、人づかいは荒いし、口をひらけば自慢と悪口ばっかだし、キレやすいし、一緒にいてちっとも気が休まらない。でも、河合のやつがぼくを頼ってくるんだ。ぼくのことなんかハナからバカにしてかかってるくせに。ぼくもなんだかんだでそれを許している。ぼくは考えながらいう。 「まあ、つきあい長いし。おれは、あいつとおな小でさ。今井小。入学から数えるとカレコレ、えーと、八年か。長いなぁ。そういう長続きしてる関係って貴重じゃない?」 「むかつくのに?」  ぼくは二の句が継げなくなる。首をひねる菊池。 「わかんないなぁ、それ」  それきり、ぼくらは口をつぐんでしまう。静かな雨音。ぼくは焦りを感じた。会話が途切れたことに対してじゃない。長年、左右反対に履きつづけてた靴を指摘されたような、奇妙な感じ。  かたわらで尾っぽを揺らしていた牛の尻が、滝の勢いで放尿しだした。そのオシッコの量の多さったら! 液体が牛舎のコンクリを這うように広がって、盛大に湯気をあげる。ぼくと菊池はそれぞれに悲鳴をあげて飛びのく。雨降りのなかへ。しばし、ふたり呆然としてから、おたがいを見やる。透明なビーズみたいにきらきら濡れた髪。ジャスミンティーゼリーみたいにうるうるした双つの目ん玉。どちらからともなく、ぼくらは腹をかかえて笑いだす。  ぼくらは牛舎のオシッコに侵略されていない陣地へ移動し、再び雨をしのいだ。沈黙はもう気にならなかった。降りつづく六月の雨音が、やさしいサウンドトラックみたいだ。  清水も、どっかで雨宿り、してんのかな。      ♂ ともにいることができないならせめておなじ雨に濡れる距離で

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