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七哩(白昼堂々)
河合省磨がやってくる、にこにこ顔で揉み手しながら。登校直後のぼくが席についた途端だ。教卓そばの席。清水俊太が体育のたびにあがらされる教卓。憂鬱。左斜め後ろの席に生気のない顔の清水本人。こいつとは、もう長いこと口を利いていない。罪悪感。そして、ジョーズのごとく迫りくる河合のにこにこ! あゝ、鬱陶しい。ぼくは先制パンチをかます。
「ノートを貸してほしいんだろ?」
河合の顎が落ちた。有効打。「……どうして、わかった?」
「おれはサイコメトラーなんだよ」
河合が過剰ににこにこするのは頼みごとがあるときだ。来週には期末テストが控えている。そんなところだろうと当たりをつけてみただけ。
「で、どの教科を貸してほしいんだ?」
「社会と、理科と、数学と、国語と、英語」
河合は五本指をすべて折る。反撃の有効打。
「って主要五教科全部じゃねえかっ。授業中、何やってたんだ」
「おれ、サッカー部じゃん。スクワットとかクーパー走とか死ぬほどやらされて。朝練のあと超ダルくてさ、ノートなんかとってる気になれないんだよね。コピーして持ってきて」
せめて、その手間は自分でやれよ。どうせコピー代なんか返さないくせに。口にだせない不満ばかりが溜まる。いらいらする。つい反論してしまう。
「工藤だって、サッカー部だろ。でも、あいつは、ちゃんと自力でがんばってるよ」
すっと笑みをひっこめる河合。狭い額が水平にしわっと縮れる。ぼくが思いどおりにならないと、こうやってすぐ不機嫌になるんだ。
「なんだ、おれにお説教すんのかよ。おまえ、小ウザイか?」
「説教じゃないよ。ただ事実をいったんだ」あゝ、めんどくせえ。しかたない。妥協してやるか。「わかったよ。コピーはとってきてやるから、なんか奢ってくれる?」
「はぁ? 根性がいやしいな。そのくらいボランティアでやれよ。これだから貧乏人は」
なんか、これって変じゃない? 友情の基本ってギヴ&テイクだよな。ぼくはいつもこいつにギヴするけどテイクしたことあったっけ? こいつはいつもぼくからテイクするけどギヴしてくれたことあったっけ? どうして河合ってこんなにケチで他力本願なんだろう。北浦はなんで河合なんかと一緒にいるの? ぼくは河合の目を見る。
「おれをなんだと思ってんの?」
「あ?」
「おれはおまえの友達のつもりだから手を貸すんであって、おまえの召使いじゃないんだよ。いくらなんでも失礼すぎるよ。それにさ、そろそろ人に頼らない方法もおぼえないと。大人になったとき困るのは河合自身だよ」
急激に赤みが差す河合の顔。あゝ、逆鱗にふれちゃった。
「むかつくんだよっ!」
割れんばかりの声。満席に近い教室じゅうの目が一極集中。いやだ、ぼくは目立ちたくない。腕相撲王ならばともかく、こんなバカみたいなことでは。荒げた声の勢いのまま、河合はまくしたてる。
「なんでもかんでも、わかったようなツラしやがって。おまえ、自分だけは何か高級な人間みたいに思ってんだろ。そういう見くだしが普段から態度にでてんだよ。ダサい北浦タツヤの分際でっ」
六歳からの幼なじみは人目をはばからず罵倒した。腹立たしいよりは、かなしかった。ぼくは静かにいう。
「おれ、河合のためにいったんだ。なんで怒るの?」
河合の顔の赤みがますます強くなった。もう、だめだ。やつは絶叫する。
「偽善者ぶってんじゃねえよっ!!」
偽善者ぶってんじゃねえよ? ぼくの脳の血流がフリーズした。河合は輪郭がぶれる勢いでそっぽを向いて、大股に去ってゆく。だから、ぼくは教えることができなかった。
あのさ、河合。それって、まちがってるぞ。正しい文法でいうなら、こうだ。
善人ぶってんじゃねえよ。
♂
打たれ弱いホオジロザメの大口にしょっぱい海が波打っている
♂
五時間目は学活。さしせまった行楽行事もなく、お題は未定。学級委員長の工藤斗南が緊張気味の声を張る。
「じゃっ、まず、今日の議題をなんにするか、意見のある人いますかぁー?」
すかさず挙手。どうやったって無視しようのない長ぁーい腕。その腕のぬしは窓際最後尾の大問題児・矢嶋健!
「席替えを要求する」
しかも工藤の指名を待たず、さっさと発言しやがった。一時停止してしまう教室。みんなびびってた。頑なに孤高と沈黙を守ってきたレインボー矢嶋が、みずから挙手し、みずからしゃべった。ただ、それだけのことで。
もちろん、反対者はでなかった。
席替えか……。ぼくの左斜め後ろの清水、思い詰めた横顔。以前のハツラツとした表情が噓みたい。席の位置が動いたところで、こいつの過酷な状況に打開の余地はないだろうし。何もしてやれないのかな、ぼくは?
偽善者ぶってんじゃねえよ!
河合のよくわかんない罵りが、耳から消えない。何かはできるはずなんだ。ただ具体的な方法が浮かんでこないんだ。ぼくの軟弱な脳味噌じゃ。くそぅ。ぼくは髪の毛に右手をつっこんでくしゃくしゃにする。自分の髪にさわると落ちつく、ほんの少し。
「大丈夫? もしかして頭いたい?」
前の席から菊池、心配げなベイビーフェイス。やさしい子だな。ぼくは曖昧に笑って、かぶりを振った。ある意味、痛いよ。あーあ。この子と気軽におしゃべりできるのも、きょうまでかな。菊池のぼんのくぼを眺めてるのが、ぼくは好きだったよ。多少、やましい気持ちでね。菊池のあどけない声。
「席、はなれちゃうかな。ちょっと、さみしいな」
「かもね。でもさ、もうすぐ期末テストじゃん。期間中はこの席順だよ」
「あ、そうだね。また、しゃべれるね。よかった」
「でも、菊池はテスト期間中はテストに集中したほうがいいんじゃないのかな?」
「どういう意味よ?」
むくれる菊池。ぼくは笑って、はっとして笑みをひっこめた。清水が見ていた。ぼくが気づいたのがわかったんだろう。やつはそっぽを向いてしまう。ごめん、清水。今、隣でいちゃつかれちゃ、たまんねえよな。でも、それも、きょうまでだから。
ぼくはイヤホンを装着し、ウォークマンの[PLAY]を押した。菊池ともうしゃべらないための小道具。蝸牛管に流れこんでくるモダンな管弦楽。ブリス《色彩交響曲》の四曲は紫・赤・青・緑それぞれのイメージでつくられてる。アーサー・ブリスは、《惑星》で有名なグスタフ・ホルストの生徒。母親がアメリカ人だからか、かすかにジャズの匂いがする。小難しい理屈はいったん置いといて、肩の力を抜いてきける。ぼくのオススメは情熱的な《赤》と、いっとう華やかな《緑》だ。
視界のすみをよぎる例の皇帝緑 。クラス一の問題頭。うちの担任が匙を投げたせいか、それともいたく気にいってるのか、このごろは不動でこのカラーだ。あいつの通り名はいずれ、レインボー矢嶋じゃなくなるかもしれない。
矢嶋の進行方向に、黒板脇のパイプ椅子でだらけてるジャージの香西博文。すわ、実力行使か⁉︎ ……と思ったら、早とちりだった。小ウザイに大判の白封筒を差しだす矢嶋。小ウザイがとりだす薄い紙。窓辺の光に透ける直線とこまい文字……診断書かな。あの草薙為比古先生に書いてもらったやつと質感が似てる。渋面になる小ウザイ。肩をすくめる矢嶋、そのアメリカンなジェスチャー。
二年F組の教室は休み時間のようなにぎわい。イヤホンごしでもわかる、談笑・鼻歌・クシャミ・奇声。実質は自習と変わらないもんな。学級委員お手製の阿弥陀 クジの三十六本の縦線のどれかに、各自が名前を書いて横線を一本たしてゆく。廊下際先頭から窓際最後尾まで。それだけのささやかなリレー。もちろん、結果は恨みっこなし。
ぼくは腕時計を読む。二時二分。もう、こんな時間? 始業が一時三五分/終業が二時二五分。クラスが総勢三十六名。記入に一人につき三十秒かかったとして単純計算で……十八分程度ですむ作業だよな。誰だよ、リレーを止めちゃってんのは。ぼくは教室を見わたす。ウォーリーを探すみたいに。
クジの在処は、あの窓際最後尾の席だった。プリントミスの書類をリサイクルした用紙を見おろし、緑の皇帝・矢嶋さまは思案顔。赤いシャーペンで机のへりをトントントントン……四分の四拍子。いったい何を悩んでるんだ。びりっけつの矢嶋に選択肢はないに等しい。どこに横線を加えるかだけだろう。もしや、ニューヨーク育ちだから、阿弥陀クジのやりかたがわからないとか?
顔をあげる矢嶋。目が合った。逸らしようもないほど一直線に。ぼくの注視をあらかじめ知っていたかのよう。薄気味悪かった。やつの右目が細くなる。頭をぶち抜く射程を測る具合に。あいつは器用にシャーペンを回して、サインしなれた芸能人っぽいタッチで書きこんだ。クジの用紙を手に席を立つ。こっちへ来る。ぼくは下を向いた。
矢嶋が用があったのは、教卓脇に待機する学級委員長だった。クジをおっかなびっくり受けとる工藤。シャイな笑顔で何かいう。たぶん、礼の言葉。なんとも応えず背を向ける矢嶋、無表情。
ぼくは忍び笑い。あいつ、まじでターミネーターだったりして。冷たい鋼の心臓。
阿弥陀クジの席番号の部分のセロテープを剝がす工藤、指先でクジの縦線と横線と辿って、抽選結果を読みあげる。副委員長の榊言美はいちいち頷きながら、黒板の仮座席表の空欄にみんなの名字を書きいれてゆく。ペン習字のお手本みたいな美しい字。二人のぎこちない、初ういしいやりとり。
そんな二人に、小ウザイが割ってはいった。えっ? と口をあける工藤。うなずく榊。副委員長は仮座席表の窓際最後尾の枠にこう書きこんだ――矢嶋。同じ席のまま?
そうか、さっきの診断書って眼科のだったのかも。おそらく矢嶋は遠視か何かなのだ。なるほど。あいつはハナから、あの席を定住基地にする腹だったんだ。立ち回りのうまいやつ。たしかに、あそこの住み心地は悪くないだろう。後ろにも横にも誰もいなくて開放的だし、窓から裏庭の緑も見える。しかし、夏の直射日光はいただけないよな。他の列より机が一個多いせいで、間隔のスペースも詰まり気味だし。これからの暑くなる季節は、ぼくは涼しい廊下寄りがいいな。自由に選べるならの話だけど。
北浦――って榊が書きこんだ。あの窓際最後尾の一個上の枠、威喝いターミネーターの真ん前に。
噓だろ。
♂
置き勉の教科書類をありったけショルダーバックに押しこんだ。菊池に手を振って、しょぼくれて新しい席へと引っ越す。はち切れそうなバッグは、そのままぼくの心の重さだった。あのレインボー矢嶋の前なんて。
まあ、でも、べつに仲よくする義理ないんだし、矢嶋って他人に関心ないし、こっちが気にしなきゃいいだけのことだよな、うん。ぼくはバッグを窓際の机に置き、なるったけ静かに腰を椅子におろした。
「おい、アンティモゥツァルト」
背中を打つコントラバスめいた声。反 モーツァルト? まさか、ぼくのことか。なんなんだ、その超絶すかしたあだ名。たしかにモーツァルトは大っ嫌いだけど。ぼくを見すえる鋼色 の三白眼。矢嶋はバナナみたいな指先を振る。
「こっち寄りすぎだ。もっとまえ行け」
偉そうな口調。ぼくはムッとした。
「後ろにそんだけスペースあんだろ。おまえが机さげりゃいいじゃん」
おっ、というふうに目を大きくする矢嶋。やつは歯列矯正器を見せた。活きのいいオモチャを見つけた性悪猫の顔。うっ、かかわりあいたくねえ、こういうタイプ。ぼくは用心深い小魚みたいにつんと前を向いた。
「おい、アぁンティモゥツァルト」
ぼくはビクッとした。「何っ?」
一転、とりすました顔で上体を乗りだしてくる矢嶋。
「いいこと教えてやる」
イイコト? 瞬間、自然教室での芝賢治とのアレやコレやを思いだしてしまう。いや、たぶん、そういう色っぽいことじゃないはず。ぼくは慎重に目つきで問いかける。何?
「あいつは、おまえを、おそれてる」
矢嶋は重おもしく文節を区切った。濡れて光る矯正器の銀。
「誰のこと?」
「あのカウアイとかショゥメンとか」
「へっ?」
「下品なやつ。サル顔で声のでかい」
「あっ、河合省磨?」
「そう、それ」
「河合がなんで、おれをおそれるんだ?」
「サルは冠を戴いてもサルだから」
意味不明、理解不能。矢嶋はペーパーバックを片手で器用にひらいた。ぼくは黒板を眺めて、ため息を長くついた。何いってんだ、こいつ。あの超ふてぶてしい河合が、ぼくごときをおそれるもんか。ぼくは教室のなかにダークブラウンの無造作ヘアを探した。河合がいたのは、ぼくが座りたかった廊下寄りの席だった。隣の音羽カンナとイチャイチャしてる。竹宮朋代という、もったいないほどの彼女がいるくせに。河合は朝にブチキレてから話しかけてこなかった。まあ、機嫌を直せば、また絡んでくるだろう。ぼくらの関係は、あいつの気分しだいなのだ。
「おい、アぁーンティモゥツァルト」
誰か、いますぐ席を替わってくれ!
♂
若葉冷え「席をおゆずりください」の「ださい」ばかりが気になるたちで
♂
窓辺の石油ヒーターに腰かけて、ぼくは頬をガラスに寄せた。イヤホンから、フルートが活躍する変調子の音楽――ドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》は、夏落葉が穏やかな広い河をたゆたう雰囲気。思考の邪魔にならないサウンドだ。夏至の時雨がしめやかに青葉を濡らす。ブレザーが暑かったけれど、脱ぐのが面倒くさい。あらゆることが億劫だ。菊池とすらしゃべりたくない。
菊池は音羽カンナ以下四人とつるんでた。どういう心境の変化かわからない。隙間風。牛舎で雨宿りしたときは、あんなに近づけたと思ったのに。あーあ。さりげなくたしかめる、菊池のベイビーフェイス。笑いのかたちはしてるけど、あまり楽しそうに感じられない。あの雨のなかで見た、あの目の輝きがないんだ。茶髪・化粧・ミニスカート(校則違反上等! って感じ)の四人組と、素朴な菊池に共通の話題なんてあるんだろうか。
清水は廊下際の席で孤り。机の潰れた箱ティッシュを見て何分も凍ってる。やっと存在してる亡霊みたい。席が離れてしまってからなおのこと、ぼくは清水に話しかける勇気を失っていた。ぼくんちにドラえもんが来てくんないかな。あの遠足の班決めのときにタイムマシンでつれてってくんないかな。そしたら、ぼくはあのときのぼくをぶん殴って、清水に味方してやるのに。
ぼくはぎゅっと瞼をとざす。あゝ、ぼくの人間不信の主要因が大口あけて笑ってら。見なくても、あの品のない高笑いがイヤホンごしの鼓膜に刺さる。ぼくはウォークマンのヴォリュームをあげた。あの日から河合は、ぼくを完全無視するようになった。おいしく利用できないから、ポイッ。使い捨て。サイテー。でも、河合ばかりを責めるのはすじちがいかもしれない。ぼくはもうガキじゃない。十三歳の男だ。ひとかどの分別はある。むしろ、ぼくは河合を甘やかしすぎて、やつが自立心を養う機会を奪ったのかもしれない。もちろん、怠惰だったのは河合だ。けれど、ぼくはそれを助長した。
もう、いやだ。何もかもから逃げてしまいたい。せめて、ぼくが高校生だったら。速攻で辞めてやるのに、こんな学校。あゝ、中学生って不便だ。
「おーい」
その耳障りな声に、はっとした。黒板側の戸口、葛󠄀城力 のアバタづらがあった。腰巾着くんの長い顔も。
「みんなぁー、清水チビ太くんのオナニーショーの始まりだよ!」
ハシボソガラスみたいに声を張りあげる葛󠄀城。毎回おなじ口上。バカのひとつ憶え。でも、今は体育の時間じゃない。昼休みだ。教室には女子が大勢。冗談だろう? ぼくはイヤホンをひっこ抜いた。手招きする葛󠄀城。清水はひきつった顔。このごろは清水は自ら教卓へ登るようになっていた。抵抗したって無駄だからだ。もしかして、それが葛󠄀城はおもしろくなくなったんだろうか。
葛󠄀城は体の大きさにものをいわせ、清水をひっ立てた。清水は暴れた。いやだ、いやだ、と殺されかかってるように喚く。葛󠄀城は冷たく笑ってる。ぞっとする。クラスのやつらは見てるだけ。何人かで団結すれば葛󠄀城なんて簡単に追い払えるはずなのに。清水は隠さず泣きじゃくってる。葛󠄀城は容赦なく清水をひきずってゆく。処刑台の教卓へ。
どうしてそこまで人に残酷になれるのか。同じ人間のはずなのに、どうして人間を人間として扱わないんだ。怒りが込みあげた。冷酷無慈悲な葛󠄀城にも、何もしようとしないその他大勢にも、都合よく人を利用することしか考えない河合にも、それをどうすることもできない自分自身にも。ぼくは葛󠄀城を睨んだ。
葛󠄀城の視線と、ぼくの視線が交差した。目を逸らせ。本能がそう命じた。けれど、ぼくは従わなかった。
「あんだよ?」
葛󠄀城がいった。残忍な動物の目つきで。教室じゅうの視線がぼくに突き刺さった。
「あんか文句あんのか。あ?」
葛󠄀城はナ行の発音が不明瞭でア行音にきこえる。きつい暗い目つき・ニキビとその跡でデコボコの頬・ゆがめられたガサガサの唇。顔の造作より何より気持ち悪いのは、そのつらの皮の下のどろりとした塊 のような悪意。ぼくはヒーターから立ちあがった。やめろよ、っていった声は掠れた。口んなかがカラカラだった。唇を舐めて、いいなおす。
「やめろよ」
あゞ? と葛󠄀城がすごんだ。清水の瞠った目は涙でいっぱい。どうして? って顔つき。清水にとって、ぼくは裏切者なのかもしれない。今さらかもしれない。けれど、これ以上、友達が貶められてゆくのを、ただ見ていたくない。
「いやがってんだろ。かわいそうだと思わないのかよ」
葛󠄀城は鼻で笑った。「じゃ、おまえ、身代わりになるかよ?」
ぼくは絶句した。喉が奇妙な音を立てた。葛󠄀城は勝ち誇った笑み。
「身代わりになる根性もねえくせに、文句いってんじゃねえよ。ボケが」
葛󠄀城の理屈はおかしい。でも、ぼくの頭は混乱していて、どこがおかしいのか指摘できない。何かいわなきゃとあせれば焦るほど、言葉がでてこない。代わりにでてくる変な汗。
「やるのか、やんねえのか? おい、どうなんだよっ!」
葛󠄀城は教卓を蹴った。薄いスチールが破れそうにたわむ。何もいいかえせない。悔しい。負けたくない。負けるわけにいかない、絶対に。
でも、どうしたらいいんだ?
♂
空転のブリキの翼ぼくの背で捲かれつづける螺子のぎりぎり
♂
「いいんだよ、北浦。もう充分だよ」
声をあげたのは清水だった。とても久しぶりに、ぼくはやつの目を見た。その冷えびえと濡れた目。清水は悲しく笑って、みずから教卓へ歩み寄る。刑を執行される囚人の足どり。笑う葛󠄀城の肩ごしに遠く河合の顔、醒めた侮蔑の表情。偽善者ふぜいに何ができる?
急にすべてがふっと遠ざかるふうに感じた。腹の底から湧きあがってくる何か。
「……よく、ない。よくない。何がいいんだよ。よくねえよっ。いいわきゃねえよっ! ぜんっぜん、よくねえよっ‼︎」
声が勝手にあふれだした。みんなが驚いた目を向けてる。ぼくは人から注目されるのが苦手だ。苦痛だ、っていったほうが伝わるかな。テレビカメラに向かってピースしたがる通行人の気持ちがさっぱりわからない。でも、今はなぜか平気だった。頭の大事な回線が、ぶった切れてしまったようだった。指先は震えている。けれど、自分の指じゃないみたいだ。ぼくがぼくじゃないみたいだ。自分の頬から血のけがひいてゆくのがわかる。きっと、顔面は蒼白だ。すべてに腹が立っていた。葛󠄀城力にも、その腰巾着くんにも、河合省磨にも、その他大勢のクラスメイトにも、自分自身にも、そして清水俊太にすら猛烈にムカついていた。全身を駆けめぐるアドレナリン。
ぼくは三人に割ってはいった。清水をかばうように背にして。ぼくはブレザーを脱いで捨てた。葛󠄀城がすっと腰を落として構えた。
ぼくはワイシャツのボタンを外しにかかった。葛󠄀城の目が途惑ってる。ぼくは上半身裸になった。バックルをかちゃかちゃ鳴らし、ベルトを抜きとる。ズボンの前をあけて、ずりおろす。上履きを放るように脱いで、スニーカーソックスを丸めた。トランクスに手をかけると、女子の悲鳴がきこえた。ぼくは片手をあげて大声でいう。
「はぁーいっ。おれの変なもん見たくない子はぁー、三秒以内に机に伏せろぉー。いぃーち、にぃー、さぁーん、ダぁー‼︎」
もちろん、アントニオ猪木のモノマネだ。ダぁーの勢いで、ぼくはトランクスをおろした。北浦竜也のストリップショー! 残したのは左手首のセイコーの時計だけ。じいちゃんの形見だ。じいちゃんが守ってくれるかも。あゝ、股間がすーすーすんなぁ。ほぼ生まれたまんまの姿で、ぼくは教卓にあぐらを掻く。高みから教室を見わたす。ほとんど全員、あっけにとられた表情で注目してる男子たち。ほとんど全員、目を覆ったり横を向いたり机に伏せたりしている女子たち。男女できっぱり反応が分かれるのがおもしろいな、ってよそごとのように思った。ぼくは《マトリックス》のキアヌ・リーヴスみたいに腕を伸ばして、洋式の手招きをした。
「身代わりに、なってやるよ。ほら、やれよ」
葛󠄀城すらぽかんとしていた。ぼくは肩をすくめる、ちょっぴりアメリカンに。これは矢嶋のモノマネ。
「なんだ、やらないのかよ。タダ見か?」
男子の一部から笑いが起きた。笑うことは支持することだ。みんなはぼくの味方だった。葛󠄀城のアバタづらがゆがむ。葛󠄀城は腰巾着くんに顎をしゃくった。やれ、の合図だ。しかし、腰巾着くんはもじもじして下を向いてる。こいつのほうが恥じらいってもんを知ってるだけ、まだマシだ。
「やれ」
こんどは声にだして葛󠄀城は腰巾着くんを小突いた。自分の手は汚さないんだ。清水のときもそうだった。葛󠄀城は上半身を抑えておく役。腰巾着くんは栄養失調のミニチュアダックスフントみたいな面長。もみあ毛が濃くてルパン三世に見えなくもなかった。その面ざしは小学生の雰囲気を残してる。あきらかに一年生。学年別に色ちがいの上履きは、ぼくら二年生は緑/腰巾着くんは赤。その穴のあいた上履きは無記名。おずおずと手を伸ばしてくる腰巾着くん。爪が汚い。初めての他人の手がこいつかよ。悲しかった。しょうがない。清水は今までずっと孤りきりで、それに耐えてきたんだ。きょうくらい、ぼくが代わってやったっていい。
はっとした。ロッカーのまえ、菊池が顔をあげていた。ぼくの貧弱な全裸を、一直線に見つめている。菊池の決意したような表情は美しかった。
ぼくはその子の目を見て、床のほうを指差した。見ないで。
菊池は泣くのをぐっとこらえたこわい顔をして、ゆっくりうつむいた。
♂
網膜が光の痣にまみれてておまえの顔は読んでやれない
♂
教室の二つの出入口に人だかりができていた。騒ぎをききつけた、他のクラスからの野次馬。目覚ましいブルーのシャツを見つけた。芝賢治は直立不動。その顔じゅうの筋肉をバキバキと音がしそうなほど緊張させて、でかい目ん玉をひん剝いてる。なんつうツラしてんだよ、こいつ。
湿った音がする。腰巾着くんの手は単純すぎる上下運動。なんだかチンコも自分のじゃないみたい。気持ちいいっていうよりか、こそばゆい。力が弱いんだよ。ぼくは両の手を落ちつきなく動かして二の腕や首の後ろをさわったりしている。蛍光灯が頭上で忙しなく点滅しはじめる。ホラー映画の演出みたいに。
傍観主義のギャラリーは、ぼくと視線が合うと誰もが目を泳がせた。けれど、ぼくが別のところを見ると、再び凝視するのだ。蜘蛛の糸のような粘っこい視線を皮膚ごとひっぺがしたくなった。
野次馬の最前列で仁王立ちの河合。いつもみたいににやにやしてるかと思えば、なぜか怒ったようなツラ構え。なんだ? 見つめていると、目を逸らす河合。まあ、こんなやつ、もう、どうでもいい。
遠くの工藤は机に両腕を乗せて不安げに見つめてる。ぼくは試しに手を振ってみた。工藤は控えめに指先だけ振りかえしてくれる。やっぱ、いいやつだな。
教卓脇の清水はまばたきを忘れていた。きれいな流線形の目。あゝ、そうだった。そのつがいの小魚みたいな目が、ぼくは好きだったんだ。損得ぬきで遊んでくれる友達はこいつだけだったのに、河合に与するなんてバカだったんだ。ごめんな。ぼくは清水に頬笑んだ。清水は泣き笑いになった。
窓際の定位置で緑の髪の問題児は、いつもどおり赤いイヤパッド装着し、しかし瞼はおろしていなかった。視線が克ちあっても、矢嶋は目を背けなかった。定番のすかしたポーカーフェイス。だけど、その三白眼はおもしろがってるふうに感じられた。河合みたいに見くだして楽しんでるのとは、ちがうような。でも、何がどうちがうんだろう。……あんまり見つめあってるのも、変だな。ぼくはさりげなく視線を移した。
ロッカーまえの菊池。両目を押さえてじっとうつむいてる。泣いているんじゃないかと心配になった。赤い両耳。今井小の飼育小屋の子兎を思いだした。ぼくが雑草をあげすぎたせいで、お腹を壊して死んでしまった。
野次馬のなか、シバケンはさっきと同じ姿勢、同じ顔つき。リアルすぎる蝋人形みたい。ぼくは小さく笑った。あゝ、そうだ。いっそ、こいつみたいに堂々とやってしまおうか。
ぼくは腕時計を読む。一時二七分。ぼくは腰巾着くんにいう。
「おまえ、やる気あんの?」
腰巾着くんが凍った。ぼくはその赤茶色の目を覗きこんだ。ぼくは歌うように続ける。
「昼休み、終わっちゃうぞ。つぎは保健で、あの小ウザイだ。本鈴三分まえには来るから、あと五分しかない。さっさとカタつけないとマズいんじゃないの、おたがいに?」
セリフの終いのほうで、ぼくは葛󠄀城を見やった。おまえの頭をパンチングボールにしてやる、って顔芸をする葛󠄀城。ちっともこわくなかった。ぼくは腰巾着くんに告げる。
「もうちょいさぁ、力いれらんないかなぁ? 男だろ。もっとギューッと握れよな」
団栗眼がまばたき。もしかしたら人間語が通じないのかと心配したが、大丈夫だった。軽く添えるだけだった手が、がっちりと握りしめてきた。自分でさわるより数倍くすぐったい。あおっ! ぼくはマイケル・ジャクソンっぽく叫んだ。さっきよりも大人数がうけた。笑わせたもん勝ち。手の動きは相変わらず単調。でも、さっきよりはいい。チンコの裏側に圧力がかかって、先端が熱を持ってくる。快楽と屈辱で頭がぐちゃぐちゃになってくる。歯を食いしばった。目をとじた。
強烈な生体電気が背骨を貫いた。腹から胸へ生あたたかいものが飛び散った。嗅ぎなれた饐 えたニオイ。ぼくは水浴びの犬みたいに身震いした。顔面にまでかかったソレを拳で乱暴にぬぐった。腰巾着くんを睨む。
「こんなことして、楽しいか?」
腰巾着くんはうつむいて、汚れた右手をぶらさげた。だんまり。そういえば、こいつがしゃべるのってきいたことがない。葛󠄀城が睨む。ぼくは睨みかえした。
「おまえって、もしかしてホモ?」
「はっ?」葛󠄀城の顎が落ちた。
「男につきまとって、服ぬがして、こういうことして、楽しいんだろ? おまえ、清水のストーカーかよ。うわぁー、気持ち悪ぅい」
みんながどっと笑った。男子も女子も。葛󠄀城のアバタづらが赤くなった。
「ねえ、気持ち悪いから、あっち行ってくんない? もう二度とF組に来ないでね。来たらストーカー規制法で告訴するからな」
ぼくは手先をひらひら振った。おととい来やがれ。葛󠄀城は睨んでいたが、やがて顔を背けた。クラスメイト+野次馬一同の凍った針の視線がワルモノ二人に浴びせられた。葛󠄀城は舌打ちして近くの机を蹴っ飛ばし、野次馬を割って教室をでていった。腰巾着くんはびびったように首をすくめ、右足をひきずって葛󠄀城のあとに続いた。
「北浦」
清水が潰れた箱ティッシュをさしだした。ぼくは体や教卓の精液をおおざっぱに拭いた。きちんとやるのがバカらしかった。トランクスとズボンだけ穿いた。残りの服を小脇に、素足に上履きをつっかける。腰が重怠い。ふらふらと窓際の席を目指す。一緒に追ってくる一同の視線がうっとうしい。
ヒュウッ、と口笛。ぼくの後ろの席の矢嶋だ。ぼくはひと睨みして、裸の背中を向けた。服を机に盛って、腰を椅子に投げだす。現実味が戻ってきた――羞恥・憂鬱・嫌悪感。
清水は教卓の汚れをきれいに後始末してくれた。箱ティッシュをかかえて寄ってくる。
「大丈夫?」
「おう」返事をするのも、かったるかった。
「助けてくれて、ありがとう」
「おう」
「北浦、かっこよかった」
前髪に隠れがちな清水の目は、メダカの棲む小川ほどに透明だ。ぼくはこころもち穏やかになる。
「いや、なんか、もう、マジびっくりした。なあ、おれ、なんにもこわくなかったんだ。自分が超 サイヤ人にでもなった気がしてさ」
「うん。ほんと、孫悟空みたいだったよ」
「でも、むちゃくちゃ、気持ちわりい。おまえ、よく、あれだけ耐えてたよな。根性あるよ。いままで、何もしなくて、ごめんな」
清水はまた泣きそう。ぼくの涙腺もゆるんだ。顔を突きあわせて一緒に泣きだした。清水のやつが洟まで垂らすもんだから、ぼくは笑ってしまった。清水も笑った。鏡を見てるみたいだ。清水はティッシュで洟をかんで、ぼくはワイシャツで涙をぬぐった。
黒板側のドアから小ウザイ。ぼくを一目みるなり顔をしかめる。
「なんだ、その格好は」
「暑いんで、脱ぎました」
ぼくは適当に答えた。正直に話せば、清水のこともいわなきゃならない。もう友達をさらし者にしたくない。小ウザイは眉間に火の字の皺を寄せたが、それ以上は突っこんでこない。葛󠄀城がこれだけ大っぴらにやらかしてるんだ。小ウザイだって何も気づいていないはずはない。見て見ないふり。教師だろ? なんで生徒を守んないんだよ。まあ、そんなもん期待するだけ無駄か。こいつは職業として教師を選んだだけの小役人なのだから。清水はいっぺんうなずいて、廊下際の席へ戻ってゆく。
天井の角に据えつけられたブラウン管に、小ウザイがビデオカセットをくわえさせる。内容は清く正しい性教育の訓話。アホらしい。人間がいかにして子孫を発生させるかなんて、ぼくらはとっくの昔に知ってんだ。
野次馬の消えた戸口に、ぽつんとシバケン。外の雨雲みたいに暗い表情。ぼくは手を振った。やつは逃げるように去った。なんだろう?
まあ、いいや。ぼくはあくびした。ちくしょう。眠い。ふて寝してやる。ぼくは服の山に伏せた。優等生なんか、やってらんない。いいじゃん、きょうくらい。ぼくにはド変態ってレッテルがべったり貼りつくだろう。たぶん、女子からの人気はガタ落ちだな。彼女をつくるって密かな目標は、高校までお預けかな。でも、いいや。清水がいてくれるし。ぼくは笑ってた。勝った、と思ったんだ。
けれど、それは大間違いだった。
♂
笑っても笑えなくても教室の囚人でしかないのは同じ
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