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八哩(Iris in Wonderland)

 男子便の鏡の前に立つ。ぼくの上半身が左右反転する。西瓜(すいか)の種めいたホクロが、ぼくの左下瞼。虚像のホクロは右下瞼。ぼくの左胸には心臓が埋まってる。虚像には心臓がない。ぼくはガンをつけてみる。虚像もガンをつけてくる。そのまま睨みあう。ぼくはバカバカしくなって笑う。虚像もしかたなしのように笑う。ぼくは立ち去る。虚像もいなくなる。いなくなるはずだ。      ♂ 蜘蛛の巣になった鏡に向きあえば光のなかで割れている俺      ♂ 「おい、ホクロ」  テレビの砂嵐じみた声。休み時間、ぼくは窓際の席でノートをまとめていた。未然・連用・終止・連体・已然・命令。ぼくの左下瞼のホクロは変に目立つ。ピエロの化粧みたいで嫌いだった。ぼくは声を無視して、黄色いラインマーカーをひいた。 「シカッティングしてんじゃねーよ、ホクロっ」  葛󠄀城力の爪先で、ぼくの机が浮く。()・蹴・蹴る・蹴る・蹴れ・蹴よ。その一撃で教室の音が消えた。無言の衆人環視。あゝ、いやだ。ぼくは立ちあがった。 「あゞ、チンパンジーの威嚇行動か。おまえの頭ってサル並みなのな」  葛󠄀城の顔面がゆがむ。背こそ高いが、その痩せこけ具合は理科室の骨格模型といい勝負。腕力でなら張りあえるだろう。腰巾着くんが加勢したらわからないが。葛󠄀城の背後霊っぽい面長の腰巾着くんはうつむいて、ぼくと目を合わせないようにした。ぼくは葛󠄀城にいう。 「おまえ、一人でくんのこわいんだろ。お供がいなきゃトイレもできねえんじゃねえの」  葛󠄀城は腰巾着くんの胸を突き飛ばした。 「てめえはどっか行ってろ、ジャマだ」  腰巾着くんはほっとした顔になって、そそくさと廊下へでていった。よし、作戦成功だ。 「あにニヤニヤとしてんだよ、ホクロ。おまえこそパーなんじゃねえの」  ぼくをおちょくるとき、葛󠄀城の目は輝く。他者を傷つけるのが生きがいの畜生。 「おまえさ、死ぬぞ」  頭に浮かんだことが、そのまま口をついた。は? と変な顔をする葛󠄀城。 「おまえさ、いつか死ぬんだぞ。こんなことして、なんになるよ。時間の無駄だよ。人生の無駄使いだ。もっと大事な、やるべきことが、他にあるだろ」 「ワケわかんねえことヌカしてんじゃねえよ、アタマおかしいだろ。自分から脱いでチンポさわらせて、まじヘンタイじゃねえの?」  ぼくの顔面から血のけが急激に失せるのがわかった。指先が震える。だめだ、キレたら負けだぞ。ぼくは爪を掌に食いこませる。唇の両端を吊りあげて強引に笑った。 「おまえこそ変態だろ。清水にやったこと、もう忘れたか。あんなのレイプと変わんねえよ。おまえ、やっぱホモだろ。おれのストーキングやめてくんない?」  葛󠄀城は唾しぶきを飛ばす。「おまえ、マジむかつくんだよ。死ねよ」  ハッと笑ってやった。「死んでほしきゃ殺してみろよ」 「ヌカしてんじゃねえよ。またマッパんなってチンポ見せるか? あゞ?」 「もっと高等な悪口いえないのか。おまえのお粗末な頭じゃ、その程度が関の山なんだな」 「おまえ、マジむかつくんだよ。死ねよ」 「それはさっきもきいたよ」 「おめえのチンポはくせえんだよ。腐れチンポぉ、ヘンタイホクロぉ」  レベルの低さにうんざりする。こいつとしゃべってると頭が悪くなりそうだ。ぼくは授業が待ち遠しかった。とくに移動教室の授業が。音楽室や家庭科室まではこいつも出張してこないからだ。ただしE組と合同の体育が厄介だった。五〇分の授業時間を葛󠄀城と同じ空間ですごさなくちゃならない。しかも今の単元は水泳。やつは教師の目を盗んでは、ぼくをプールに突き落とそうとしたり、水中で足をひっぱって溺れさせようとしたりした。 「葛󠄀城。何やってんだ。授業が始まるぞ」  数学の渡辺茂樹先生がいった。いわれなくても、ナベさんが来たとたん葛󠄀城はE組へ逃げ帰る。相手が弱いと見れば嵩にかかるくせに、強い立場の人間には尻尾を巻いてへいこらするんだ。ほんとうに軽蔑する。  遠くの席で清水俊太が見てた。ぼくの目をさけるように、小さな体をさらに縮こめる。葛󠄀城がつきまとうぼくを、清水は敬遠するようになった。でも、清水を責める気にはなれなかった。きっと、こわいのだ。何十回もあんな目に遭わされたんだ。たった一回だって、ぼくは汚辱感で自分のをさわるのも嫌になった。同様の強いストレス経験が重なると、関連するものが恐怖の対象に変わってゆく。  それなら、ぼくもいずれ葛󠄀城をこわいと感じるようになるのだろうか? 「おまえのせいで休み時間がうるさくてしょうがない」  冷ややかな声。ぼくの別なストレスの種、後ろの席の矢嶋健だ。ラコステの紺のポロシャツと、空色のクロップドパンツ。夏の軽装がおしゃれなやつは本物だ。矢嶋はグリーンの前髪を掻きあげて、赤いイヤパッドをはずす。ぼくは睨んだ。 「おれのせいかよ?」  (すが)められる鋼色(スチールグレー)の目。「そうだ。アレがそういうやつだとわかってて招きよせたんだからな」 「じゃあ何か? あの状況で見て見ぬふりすりゃよかったってのかよ」 「そうだ。おまえはバカだ」  むかついた、猛烈に。いいかえしたかったが、殺し文句が浮かばない。ハイッ全員着席! とナベさんが声をあげた。矢嶋は数学のワークブックをひらいて、まだ習ってない一次関数の問題を解きだした。ぼくは唇を嚙んで、自分の席におさまった。  期末試験はもう三日後だ。      ♂  昼食時間、矢嶋は教室から消える。気づくと後ろの席は空っぽ。ただ何も乗ってない机のおもてが四角く光ってる。あいつ、いつもどこへ行くんだろう?      ♂ 空席に風の気配があるならば推理無用のYの行先      ♂  葛󠄀城を相手するのに昼休みは長すぎる。ぼくは北校舎一階の保健室へ。消毒液のニオイの明るい一室は生徒のサロン。雨の日は三割増しでにぎわってる。たいていは、ぼくみたいに病人でもケガ人でもない、たいした用のないやつら。養護教諭の三笠(みかさ)裕子(ゆうこ)先生は人気者。いつでも二、三人の女子に囲まれて、そのふくよかな体を揺すってる。デスクや棚や長椅子に、誰かがゲーセンで獲ったような縫いぐるみ。ぼくは長椅子で、くたくたのたれぱんだを膝に乗っけた。片耳に高橋悠治の弾くサティ、《六つのグノシェンヌ》のモデレ。俗っぽくておしゃれでアンニュイなんだ。エリック・サティがピアニストを演っていた文学酒場黒猫(シャ・ノワール)の雰囲気かもしれない。  スチールデスク脇に、目覚ましいブルーのアロハシャツ。見るたびに着てるけど、いつ洗濯してるんだろう。芝賢治は備品の326(サブローって読むんだと最近まで思ってた)の作品集を読んでいた。 「芝ぁ、元気?」  シバケンはこっちを向いた。だが、まずいもんでも見たようにうつむいてしまう。ぼくはシバケンに寄ってゆく。 「よお、芝ってば。どうしたんだよ」  うん、ってシバケンはうなずく。目線を合わせない。こわばった頬。左耳のステンレスピアスの硬い光。心当たりといえば、あの教卓上の公開処刑騒動しかなかった。こいつのことだからにやにやしながらネタにするかと思ってたのに。 「おれが気持ち悪くて口も利きたくないか?」 「んなわけあるか」 「じゃあ、なんで目ぇ見て話さねんだよ」 「ふがいないんだよ」シバケンはカモミールの鉢を睨んでる。「助けに行きたかった」 「そんなの気にしてたの? おれ、うまくやったじゃん。見たべ、あいつの顔。なんもいいかえせねえでやんの。超スッとしたな」 「キモチワリイって泣いてたくせに」 「それは……」 「シュンタンこと見てらんなかったのはわかる。でも、おれだって同じだよ。キタがあんな目ぇあわされてんの見たくなかった。気にするに決まってんだろ」  苦しそうにいわれて、胸が熱くなった。 「ごめん。でも、後悔はしてない。今、あの状況に戻ったとしたら、同じことすると思う」 「あいつにずっとまとわりつかれても?」 「まあ、おれがやっちゃったことだからさ、ひきうけるよ。しょうがねえだろ」  シバケンはやっと目を見た。「おれにできることある?」 「いつもどおりにしててくれる?」 「いつもどおり?」 「会ったらしゃべってよ。変に気ぃ使ったり、深刻んなったりしないで。それだけでいい」 「それだけ?」 「それだけ」  シバケンは文句をこらえてる顔。ぼくの左耳で《ジムノペディ》のレント・エ・ドゥルルーが、レント・エ・トリステへ移ろった。シバケンは橙色の本を3D感覚でクルクルともてあそんでたけれど、やがてうなずいた。      ♂ 左耳はヘ音記号か糠雨がジムノペディのようにぬるくて      ♂  六月最後の週明けから三日間が、一学期末試験だった。期間中の席は出席番号順。教卓のそばの席で、ぼくは菊池雪央の背中に手をふれかけて、握りこんだ。ぼくの無茶苦茶な行動を、この子はどう感じたろう。傷ついただろうか。あきれてしまっただろうか。この子に裸を見られたんだと思うと落ちこんだ。どう話しかけるべきか、そもそも話しかけていいのか。菊池もぼくを振りかえらなかった。  最終日のトリは美術だった。配布された問題用紙を後ろへ回すとき、菊池が向日葵模様の封筒を差しだした。一瞬だけ、あの子は目を見た。 。封筒にはそう書いてあった。内容が気になって、答案に集中できなかった。Ⅴ字型の彫刻刀って、角刀だっけ、三角刀だっけ?  期間中、葛󠄀城は現れなかった。あいつでも成績は気になると見える。笑える。      ♂  制服も着替えないまま自分のベッドに座りこんだ。封筒の金色の向日葵のシールを慎重に剝がす。封筒と同じ模様の便箋が二枚。伊予柑色の丸っこい文字の行列。      ♂  これを書こうか迷いました。言いわけに聞こえるかもしれないから。でも、北浦には絶対に誤解されたくないので、書きます。  私がしゃべらないのは、北浦がイヤとかそういうんじゃありません。カンナたちの手前、北浦に味方することができないんです。臆病でごめんなさい。河合はカンナたちにも北浦を悪く言っています。北浦には聞かせたくない内容です。カンナたちはすっかり同調しています。本当に腹が立ちます。河合はなにげに顔が広いから、あいつの言うことを真に受ける人が増えるのがこわいです。河合の動向には気をつけて。  北浦がカツラギに立ち向かっていったときは、本当におどろきました。あれから毎日、きっとしんどいよね。でも、どうか負けないで。うまく言えないけれど、私はあなたを誇りに思っています。  P.S.これから、ときどき手紙を書いていいですか? もしOKだったら、私の机にこのシールを貼っておいてください。      ♂  朝。金色の向日葵を菊池の机に貼った。蛍光灯の下、それはオモチャの勲章みたいにピカピカしてた。      ♂ 咲きそうになるよゴッホの向日葵のようにひたすら黄色い恋が      ♂  六月が終わった。葛󠄀城はぼくの席に通いつめた。やつの幼稚な屁理屈なんて、いくらでも切り返せるし、言い抜けられる。休み時間の終り、葛󠄀城は屈辱的な顔で退散してゆく。  でも、つぎの休み時間、やつはまたやってくる。きりがない。まるでサティ《ヴェクサシオン》だ。不協和音のモチーフが何度も何度も何度も繰りかえされる。いつまで続くのか。頭おかしくなりそうだ。 「おい、アンティモゥツァルト」  授業の直前、後ろの席の嫌な気どり屋がいった。やっと葛󠄀城を追っぱらったところだった。ぼくは攻撃的な動作でふりかえった。 「あゞ、なんだよ、キャベツヘッド?」  矢嶋は業務用スライサーのキャベツみたいな前髪ごしに濃い眉をしかめる。白の麻シャツに水縹色(みずはなだいろ)のスリムタイ、ダメージ加工じゃないプレーンなネイヴィージーンズ。相変わらず、ファッション誌のページから切り抜かれたみたいなセンスのよさ。まあ、よく続くよな。ぼくならコーディネイトするのが面倒で、一週間でめげてるだろう。 「いつまでアレをまともに相手してる気だ」 「しょうがねえだろ。無理やり相手させられるんだから」  矢嶋はため息。「おまえ、休み時間のあいだ、どこか行け」 「おれは悪くないのに、なんで逃げなきゃなんない」 「おれが迷惑だから」 「知らねえよ。おまえがどっか行っとけっつうの」 「同じやりかたをしていたら、同じ結果しかでないぞ。アレは誰にも相手にされない。おまえが全力で構ってくれるから、うれしくてしかたないんだ。おまえが無視に徹していれば、むこうもそのうち諦めるかもしれない」 「……」  これってアドヴァイスなんだろうか。ぼくは調子が狂って前を向いた。  たぶん、矢嶋のいうとおりだ。無視が一番いい。それができないなら避けたほうがいい。  でも、釈然としなかった。葛󠄀城からこそこそ逃げるなんて。  何よりも、矢嶋のいうことをきくなんて。      ♂  休み時間は一〇分だけ。行ける場所も、できることも、限られてる。ぼくはサティをききながら、校舎をあてもなくうろついた。動く標的は撃たれにくい。西から四階の廊下を歩き、東から三階の廊下を歩き、西から二階の廊下を歩き、東から一階の廊下を歩き、西から二階の廊下を歩き、東から三階の廊下を歩き、西から四階の廊下を歩き、東から……。  意味のない繰りかえしは人の心を蝕む。このままじゃ、ぼくは発狂するかもしれない。  シグナルレッドの火災報知機。半卵型のランプと、スピーカーの穴ぼこ。赤い顔の口に相当する[強く押す]に、ぼくは人差指を乗せた。力をゆっくりとゆっくりと込めてゆく。なかなか凹まない。ぼくは全力で押した。ボタンのプラスチック板が砕けた。  機械仕掛の蝉は空襲警報のけたたましさ。ぼくはびびって逃げだした。無人の二階の廊下を駆けて、思いなおして歩いた。ボタンを割った指を握りこむ。落ちつき払って、ワイシャツでごったがえす中央階段をくだった。誰も何も気にしてないふうに見えた。非常ベルが見えないガラス片のように降ってくる。まるで頭んなかで鳴ってる気がした。      ♂ 朝顔のつるはどこにもゆけなくて自分自身にまきついている      ♂  月曜日。ぼくらの教室に朝八時のなだらかな日差し。きょうも暑くなりそうだ。机の群れが同じ高さで光る。その窓辺の机の一つに、ぼくは軽いバッグを置いた。後ろの席の緑の皇帝は、ハードカヴァーの洋書に夢中だった。 「おまえ、いっつもなんか読んでるよな」  矢嶋は一瞥し、すぐページに目を落とした。 「それってなんの本なの」  やつは黙って表紙を見せた。Robert Ryan《UNDERDOGS》。 「アンダードッグってどういう意味」  矢嶋はぼくの目を見すえた。「マケイヌ」 「……」  ぼくが負け犬っていわれた気がして黙った。矢嶋は本の虫に戻った。      ♂  午後のチャイム。昼食時間、矢嶋は教室から消える。緑のセミグロスマッシュショートが廊下へでてゆく。ぼくは弁当をさげて追いかける。白兎を追うアリスみたいに。  南に苛烈な太陽/西に堂々たる積乱雲。どちらも目に痛い白さ。関東の梅雨明けはいまだ宣言されないが、すっかり夏の空。矢嶋は陽炎(かげろう)と土埃のグラウンドを突っ切る。ぼくは十五メートル後ろをついてゆく。尾行なんて刑事ドラマみたい。意味もなくわくわくする。  矢嶋はTシャツ・ハーフパンツ・革サンダルってラフな格好。なのにダサくない。ミケランジェロのダヴィデじみた筋肉のせいか。妙に怒肩、肩胛骨が鋭い。ぼくらの小さな影は黒猫みたい。やつは東門の階段・二車線の道路・住宅地の斜面へ。こっちを振りかえったり、歩みを速めたりはしない。あんがい気がつかないんだな。ぼくは大胆になって距離を半分にした。  矢嶋は坂の終りの、とある敷地へはいっていった。そこが目的地らしい。尾行大成功。あっけないもんだ。  小さな公園だった。せいぜい十坪か。キハダがささやかな木陰をつくり、ニワトコが赤い実をつけている。玄武岩の甃。敷地の三分の一は池で、ほとりに木製の(あずまや)。そいつの正六角形の座に、矢嶋が腰をおろした。いそいそとランチボックスを膝のうえで広げる。  ぼくが園の短い階段をおりてゆくと、矢嶋の顔が険しくなった。 「ここは、おれの場所だ」  ムッとした。「だって、公園じゃん。おれが来たっていいはずだろ」  矢嶋は左頬をひきつらせ睨んだ。心臓が押し潰されそうな眼力。ぞわっと皮膚が粟立つ。回れ右して教室に帰ろうかと思った。  水音が()ぜた。池に波紋。何がいるんだろう。鯉? ぼくは威喝い同級生に注意を戻す。矢嶋の視線も池からぼくに返ってきた。あの恐ろしい圧力は消えていた。いつもの読めないポーカーフェイス。ぼくが透明人間であるかのように向こう側を見て、サンドウィッチを齧りだす。判決・シカトの刑。そんな感じ。  すみっこの低いベンチに、ぼくはへたりこんだ。心臓がしばらく肋骨をノックしてた。  炎天下の小路に人けはなかった。ヴィーンヴィンヴィンヴィーン、と遠くで一番乗りの蝉。周辺に飛地のようにある青い木立が、ぬるい微風にざわめいた。いい場所だ。たとえ皮膚がとろけそうにクソ暑くたって、葛󠄀城のいる教室よりは断然いい。  冷凍食品の詰めあわせ弁当をたいらげたぼくは、池を見つめてすごした。溶けかけの鏡みたい。ゆがんで、ちぎれて、あつまって、たゆたう昼の光。  ふいに冷たい風。水の光が鈍った。ぼくは空を仰いだ。育ちきった積乱雲が対流圏界面に到達し、全天を覆いはじめていた。重たい鼠色。アパトサウルスの腹の音じみた雷の気配。こりゃ早めに退散したほうがよさそうだ。ぼくは腰をベンチから浮かせた。  一億粒のBB弾のごとく雨。うわっとぼくは叫んで、亭へ飛びこんだ。矢嶋は食いかけのサンドウィッチ片手に、戦争みたいな降りを呆然と見ている。 「Boy.」 「すげえ」  木々の葉が破れそうだった。水の礫が甃に砕けて、白い砂利をぶちまけたよう。濃厚な雨のにおいを、ぼくは肺いっぱい吸いこんだ。なんだか声をあげて笑いだしたいくらい愉快になる。  矢嶋は身じろぎもせずに、いつまでも雨を見ている。      ♂  遠雷。雨あがりを待ちながら、ぼくはやっぱり池を見た。亭の太い柱に凭れ、膝をかかえて。墜落する雨粒と同じ数の波紋。雫を飲む無数の口のよう。いま聴くとしたら、ドビュッシー《版画》の三曲目だろうか。《雨の庭》は半音階/全音音階・長調/短調が三分間に詰めこまれた忙しない小品だ。  矢嶋はいつのまにかサンドウィッチを食べ終え、ハードカヴァーをひらいていた。 「おまえってほんっと本すきな」  ぼくは声をかけた。ぼくを一瞥し、ページに目を落とす矢嶋。返事はなし。つまんねえやつ。あーあ、ウォークマン置いてきちまったもんな。雨の勢いはゆるまない。退屈さを持てあまし、ぼくは懲りずにいう。 「なあ、あんときの自己紹介のあれってリンカーンだよな?」  鋼色(スチールグレー)の三白眼が、ぼくを見すえた。四秒のまがあった。 「Now we are engaged in a great civil war.」 「え?」 「今、われわれは大いなる内戦に従事している」矢嶋は日本語でいいなおした。「そこが気にいった。だから使った」 「ナゥ ウィ アー……?」 「Now we are engaged in a great civil war.」  矢嶋は丁寧に発音した。ぼくはなるべく忠実に真似る。 「ナゥ ウィ アー エンゲィジディナ グレイト シヴィルウォー」  矢嶋は肩をすくめた。まだまだだな、って感じに。     ♂ 一瞬で世界を染める俄雨(にわかあめ)ぼくらのシャツは西瓜のにおい     ♂ 「The chime heard every day at most schools in Japan is that of Big Ben, the famous clock in London. About sixty years ago this school chime was made by a Japanese junior high school teacher and his friend, a mechanic. The teacher wanted to make a new school bell. Until then school bells went whooo…… Some students remembered the air-raid warnings when they heard the sound. So the teacer and his friend made a new machine and chose the chime of Big Ben.」  火曜日。流れるような音読に、ぼくはゲリー・カーのコントラバスを思った。抑揚をつけた低くて伸びやかな声は、後ろの席の矢嶋だ。つまんない教科書のプログラムが、まるで気の利いたレディオショーのMCだ。 「Great job!」指導書を広げた海老原晋先生がいった。「さすが矢嶋センパイ。ネイティヴの発音はちがうな。みんなぁ、単語と単語の音のつなぎかたとか参考にしろよな」 「おれらが日本語しゃべってんのと同じことだろ。何もすごいことないっつうの」  三列むこうの席から河合省磨がきこえよがしにいった。矢嶋は着席したんだろう、その椅子の足が子豚のくしゃみほどに鳴った。ぼくは後ろの男をうかがった。矢嶋の顔に表情はなかった。やつはじろじろ見返してくる。ぼくはマッハで顔を背けた。 「ビッグベンはロンドンの国会議事堂の時計台の通称だ。ディズニーの《ピーター・パン》に一瞬だけでてくるから、知ってるやつもいるかもしれないな。先生は学生時代に実物を見にいったことがあるぞ。大学が休講になった日、急に思い立って着のみ着のままで友達と羽田から飛行機に乗ったんだ。あれは鐘が十五分おきに鳴るんだが、学校のチャイムよりテンポが速くて、ぐっと荘厳な感じだったな。夕暮れのテムズ川のむこうに、ライトアップされたビッグベンがそびえてるのはきれいだったぁ。ちなみに、そのときの友達ってのは女の子じゃなくて、空手二段のごついやつだったんだが、帰り道、ナイフを持った男が……」  あゝ、エビセンの必殺・脱線が始まった。ひらかれた十枚の窓。曇りがちな朝の空に、濃い葉桜がざわめいた。ぼくは左手で前髪をくしゃくしゃにして、教科書の挿絵のイギリス人教師に鼻毛を描いた。 「……だから、おまえらもいざとなったら相手の鎖骨を狙えよ。よし。あと五分あるけど、キリがいいから今日はここまで。楽にしていいぞ。あ、でも頼むからチャイム鳴るまでは立ち歩くなよ。トイレはOKだ」  エビセンのお気楽な指示が飛んで、午前の教室はリラックスムード。ジャグジーのぬるい泡ぶくみたいな私語が、耳にくすぐったい。 「ねえ、ねえ。矢嶋くんって、すきな子いるの?」  いきなり大胆な質問をぶつけたのは、ぼくの隣の榊言美。ぼくはびっくりして榊と矢嶋を見くらべた。糊の利いたワイシャツのまぶしい榊、人のよさそうな垂れ目で後ろの男子を見つめてる。矢嶋の表情筋は動かないが、頬がほのかにピンクになった。やつはオーヴァーシャツの袖を伸ばす。 「いない」 「じゃ、わたしにチャンスあるかな?」  榊は自身の顎をつついた。とことん大胆だな、この子。矢嶋は目を伏せた。 「恋愛する気はない。今はやるべきことが、他にたくさんあるから」 「矢嶋はやさしいなぁ。はっきりいったらいいのに、趣味じゃないって」  榊の隣の工藤がいった。らしくない、嫌味な口調。矢嶋に剣突を食らったのを、まだ根に持ってるんだろうか。榊は頬を赤くして工藤を睨んだ。 「自分がモテないからって僻むなよ」  矢嶋が冷たくいった。工藤は食ってかかる。 「んだよ、女子の前だからってカッコつけて」 「工藤くんの一億倍かっこいいよ。あんたみたいんじゃ死ぬまで彼女できっこないね」  榊がいった。こんどは工藤が赤くなった。 「うわ、独り身のさみしいやつらがイガみあっちゃってるよ。やれやれだな」  さらに余計な茶々をいれてきたのは、工藤の右斜め前の河合だ。こいつの彼女が、あの学年一の竹宮朋代だってことはみんな知ってる。榊も工藤もいいかえせず歯嚙みした。 「別れ話されてるやつがよくいうよな」  河合の顔色が変わった。矢嶋はすかしたポーカーフェイス。 「おまえもすぐサミシイ独り身だ。よかったな」 「何いってんだ。おれらはラブラブだっつの」 「なら、今のうちに楽しんでおくといい。人間、最後は独りだ」  河合の額が皺くちゃになった。そういえば、つきあってるというわりに河合のそばに竹宮の姿を見なかった。それに矢嶋は気づいたのだろうか。河合は鼻を鳴らした。 「ちょっとエイゴしゃべれるからって、いい気になってんじゃねえぞ。彼女どころか友達いねえくせに」 「友達ってなんだ? そこのご機嫌うかがいか。お山のタイショーっておまえみたいなやつをいうんだろ。動物園のサル山の」 「ふん。強がったって、おまえに友達がいない事実は動かないんだよ」 「おまえが独りよがりなガキって事実もな。お寒い関係にあぐらかいて悦にいってろよ。一人じゃ何もできないウゴーノシューが」  ぽかんとなるみんな。ウゴーノシューって何? と工藤のささやき。エイゴじゃねえ? と河合がささやきかえす。榊は英和辞典をまくった。ぼくはひとり忍び笑い。  ナニ語だよ、ウゴーノシューって!  烏合の衆だろ!      ♂ 口笛がうまく吹けない人のため在る通学路外れの公園      ♂ 「おまえってニューヨーク帰りだよな?」  薄曇り。例の公園のベンチで、ぼくは汗を袖でぬぐった。じっとしてても髪の生え際がじんわり濡れてくる。緑の髪のバイリンガルは亭で食後の読書中。きのうと別のペーパーバック、表紙は升目におさまった女の唇・鼻・耳・目。()めつけてくる三白眼。 「そうだ」 「カーネギーホールって行った?」  矢嶋は顔をしかめた。嫌な話題でも振られたように。「よく行った」 「どうだった」 「あのシィートは寝心地がよかった」 「目が覚めてるときの話」  矢嶋は本ばかり見る。「ミッドタウンウエストは、指折りのビジネス(ディストリクト)のひとつなんだ。そのでかいビルとビルの隙間に、カァネイギィホォㇽはひっそり建ってる。時代がかったブリック造りで、独特の雰囲気がある。三つのステイジじゃ、いつでも何かしらパフォウマンスをしてる。すごいプロから、笑っちゃうようなアマチュアまで。おれはステイジよりも、おまけのミュゥジィアームのほうがすきで、そこのピアーノで遊んでた」  横文字の発音がいちいちよくておもしろかった。アメリカ訛りだ。 「ピアノ弾けんの」 「習ったことがある」 「辞めちゃったんだ?」 「こんなこと話してどうする」 「日本語の練習だと思えよ」  矢嶋はムッとしたふう。「おれの日本語はカンペキだろ」 「いや、おまえの日本語お堅いし、ときどき発音が変」 「どこが」 「ウゴーノシュー、じゃない。烏合の衆だ。それに、そんな格式張ったことわざは日常会話じゃ使わない。文章語だよ。まあ、おまえは人と話すよか本よんでる時間のが長いから、そういうのがポロッとでるんだろうけど」  矢嶋はまばたき。「ぽろっ?」 「つい、うっかり、無意識にな。おれが練習台んなってやろうか」  矢嶋は硬い無表情。ぼくは笑ってみせる。 「その代わり、おまえは英会話をレクチャーしてくれるとか、どうよ」 「ホドガヤのまんなかにいる生きもの、なんだ?」 「へ?」 「これに答えられたら、教えてやってもいい」矢嶋の歯列矯正器の輝き。「期限は今週中だ。せいぜい頭をひねるんだな」      ♂  夕飯の席、〝肉のミカミ〟のポテトコロッケを箸でつつきながら、ぼくはきいてみた。 「ねえ。保土ヶ谷の中心って、どこだと思う」  父は蜆の味噌汁をすすった。食欲がでてきたようで、飯を残さなくなった。頬が健康的にふっくらとした。父にきけば、たいていのことは答えてくれる。テレビと新聞が、この人の趣味だ。 「区役所か駅じゃないか。さもなきゃ保土ヶ谷(ちょう)か。あそこは本陣があるだろう」 「本陣?」 「江戸時代の、殿さまが泊まる宿だ。学校で習わなかった?」 「今は戦国時代なんだよ」 「とにかく、保土ヶ谷町には、その跡が残ってたはずだがな」  保土ヶ谷町か。いかにも保土ヶ谷の中心って感じの地名だ。ぼくは勢いこむ。 「その本陣で動物って飼ってたりする?」  父は首をかしげる。「どうだろうな。殿さまの馬を繋いだかもしれんな」 「そうか、馬か」 「それがどうかしたのか」 「うん、ちょっとね。宿題みたいなもんがでて、調べてんの」 「そうか。しっかりやれよ」  ぼくはコロッケを齧った。「うん、大丈夫」      ♂ 「どうして馬だと思った?」  水曜日。教室の窓辺で、矢嶋は長い前腕を持てあますように組んだ。きょうは杏色(アプリコット)のコットンシャツ。ぼくは自信をくじかれた。 「昔、保土ヶ谷町に本陣ていう大名やお公家のための宿屋があって、そこに今の駐車場みたいに馬小屋もあったはずなんだ。だから」  矢嶋は皮肉に笑った。「おれは保土ヶ谷とはいってない。ホドガヤのまんなかっていったんだ。もう一度よく考えるんだな」      ♂  保土ヶ谷の真んなかって?  ぼくは自分ちの都市地図をひらいた。政令指定都市・横浜には十八の区がある。最大面積は西南の戸塚(とつか)区で、最小面積は東の西(にし)区(花の(なか)区の西にあるから西区という)。保土ヶ谷は? 下から数えたほうが早い十一番目の大きさ。東西に五.八キロ/南北に七.四キロ。その中途半端な広さの区は、横浜市の中央に位置してる。まんなかのまんなかって? いびつを極める境界線、複雑に交錯する道路・線路・河川、地名と番地番号でごちゃごちゃのページを睨んでも、皆目わからない。  ぼくは二枚のA4のトレーシングペーパーをスティック糊で継ぎあわせた。マスキングテープで固定し。製図ペンで区境・町境・町名を写しとる。小一時間で、純粋な境界線と町名の白地図ができあがった。そいつを光に透かす。北西から南東へ生えたギザギザのキノコの断面図を想像してくれると、だいたい保土ヶ谷区のかたちだ。ぼくは逆さにしたり裏返したりしつつ悩む。これの中心て正確にはどこなんだ? 笠と軸のちょうど継目の小さな町・坂本がそれっぽい。ぼくはキノコの最も幅の広いところ(笠のてっぺんから軸の根もとまで)を定規で計って線を薄くひき、元の地図帖に重ねた。その線は[文]マークを掠めていた。  市立坂本小学校。      ♂  木曜日。炎天の放課後、ぼくは家と反対方面へ。保土ヶ谷の中心まで。ぼくの知りあいで坂本小の出のやつはいない。ご近所だが、まったく未知の場所だ。ぼくは倒れないよう、自販機でアクエリアスを買ってちびちび飲んだ。  保土ヶ谷らしい無秩序な住宅地。その校舎は遠目にぼくの出身小よりも新しくてキレイそう。卒業生でもないのに敷地に踏みこむのはためらわれた。ぼくは低い柵のぐるりを巡った。飼育小屋らしき赤い屋根。うっすらと獣のにおい。だが、ぼうぼうの樟に阻まれて、生きものの姿はうかがえない。小屋の脇にフェンスつきの運動場。逆さに伏せたU字溝ブロック。兎かな、と思った。  あたりは下校中の小学生だらけ。やつらの顔つきや体つきは、やけに幼く見える。ぼくも二年まえまでこの一員だったってことが、なんだか信じられない。ぼくは低学年っぽい男子二人組に近づいた。 「ちょっと教えてほしいんだけどさ」  じゃれあっていた二人組が凍った。天下の右近中の制服にびびったのかもしれない。ぼくはやつらの目線に腰をかがめて笑った。 「おれ、フィールドワークの宿題だされたんだ。協力してくれる?」  二人組は顔を見あわせてから、同時にうなずいた。ぼくは指差す。 「そこに飼育小屋あるじゃん。何を飼ってるのかな?」 「「ウサギ!」」  ガキンチョふたりの返事が元気にそろった。やっぱり。 「兎だけ? 鶏は?」 「ウサギだけ!」とガキ一号。 「最初に七匹いて、こないだ三匹うまれた。赤ちゃん、ちっちゃくてムワムワしてて、すんげえカワイイ!」とガキ二号。 「でも、女子があんま抱っこするから、いまストレスで下痢して弱ってんの。もし死んだらナナミらのせいだよなー」と一号。 「なー。ていうか、フィールドワークって何」と二号。 「実地調査、かな。そこに実際に行ってみて見て聞いて触って確かめる勉強」 「「ふーん」」と一号二号。 「校内に兎以外の生きものはいる? たとえば池があって鯉がいるとか」 「池はない。プールにヤゴがいた」と一号。 「ヤゴね。プールびらきのまえに大発生するよね。そういう勝手に湧いたんじゃなくて、大っぴらに飼ってる生きものっていないの?」 「大っぴら?」と二号。 「えぇっと、外の人に知れわたるくらい本格的に飼ってる生きものってこと」 「おれら、カイコの幼虫飼ってるけど、それって本格的?」と二号。 「カイコって(まゆ)つくる(かいこ)?」 「うん。理科の授業で、クラス全員で飼ってんの」と一号。 「蚕の幼虫って桑の葉っぱ食うんだろ」 「そう。道に生えてるやつ摘んで、濡らして冷蔵庫でとっとくの。幼虫、白くてムニムニしてて、すんげえカワイイ!」と二号。 「こいつのカイコ、チョーでけえでやんの。もうすぐ繭んなるんじゃねえかな」と一号。 「でも、やなんだ」と二号。 「どうして」 「糸をとるとこまでやんの。繭んなったら鍋で茹でちゃうんだって」うなだれる二号。 「そっか、つらいな。けどな、その蚕はおまえに大事なことを教えるために命をくれるんだ。しっかり最後まで面倒みてやれ。そのぶん、おまえはきっと大きくなるから。な?」 「うん」と二号。 「兎の赤ちゃんは元気になるといいな。おかげで、よくわかったよ。サンキューな」  ぼくは手を振って、その場を離れた。小学児童が不審な男子中学生に声をかけられる事案発生! って警察沙汰にならないことを祈りながら。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。まあ、蚕は除外だな。兎。それが答え……か? 何か釈然としない。矢嶋は藤塚小の出のはずだ。坂本小の飼育小屋のことなど知っているんだろうか。そもそも保土ヶ谷の中心は、ほんとうに坂本小なんだろうか。  ホドガヤのまんなかにいる生きもの、なんだ?  わからない。まるで謎かけだ。……謎かけ? ぼくは立ち止まった。低い門から蟻ん子みたいにあふれるランドセルの子たち。姿かたちは異なるのに似かよった印象の小学生・小学生・小学生・小学生――  ぼくの頭に閃くものがあった。      ♂ 護られる/阻まれる 日々、同義語に錆びつく兎小屋の金網      ♂ 「あのお題の答えだけどさ」  金曜日。窓辺の席に矢嶋がついた途端、ぼくはいった。きょうは水平線色(ホライズン)のボタンダウンシャツに、瑠璃色(ジェイブルー)のループタイ。角ばった顎に組んだ両手を添えて、矢嶋は左の眉尻を動かす。それで? やつの机に、ぼくは広げてやった。例のトレーシングペーパーの地図。やつは腕をひっこめた。 「ここが保土ヶ谷の中心だ。坂本小学校」ぼくは地図をつついた。小学校の位置に☆マーク。「おれは行ってみた。ここには飼育小屋があって、兎がいる。でも、それが答えじゃないんだろ?」 「ちがう」 「でも、保土ヶ谷の中心はここだ」ぼくは☆をつついた。「小学校にいる生きもの、それは……子供だ!」  矢嶋の表情に変化はなかった。ぼくは不安になってきた。 「どうよ、当たった?」  矢嶋は地図を手にとった。横文字の新聞でも流し読みするかに上から下まで見てから、噴きだした。光る歯列矯正器。 「残念。おまえの負け」 「じゃ、答えは何?」 「アルファベットにしてみな」  HODOGAYA? ぼくは指を鳴らした。「ドッグ! 犬か」 「そのとおり」 「なんだ、そういう発想かよ」  ぼくはずっこけるジェスチャーで、窓枠に凭れかかった。なんだったんだ、いままでの苦労は。矢嶋は地図を二つ折りにした。 「まあ、この地図よくできてるし、おもしろい答えだから、引き分けにしてやる」  ぼくは身を乗りだした。「教えてくれんの?」 「おまえのヤル気しだいだな」 「じゃあさ、サラリーマンって和製英語だろ。ほんとの英語じゃ、なんていうの」 「Nine-to-five.」 「ガッツポーズは?」 「Fist-pump.」 「バカ、アホ、ドジ、マヌケ」 「ケンカ売ってんのか」 「まじめにきいてる」 「Nat, idiot, buum, dork.」 「村八分」 「Odd man out.」 「腕立て伏せ」 「Pushup.」 「ビーチサンダル」 「Flip-flops.」 「ホチキス」 「Stapler.」 「アイスキャンディー」 「Popsicle.」 「アンパンマン」 「Thinner addict.」  ぼくは首をかしげた。「なんか、噓おしえてない?」 「うん」  矢嶋は真顔でうなずく。ぼくは笑った。夏の鳥が鳴いた。午後の降水確率は九〇%。でも、窓辺からの空は曇りながらも明るかった。      ♂  目覚ましいブルーのアロハシャツが、廊下のむこうに立っていた。その裾を南風に膨らませて、芝賢治は焼けた腕を組んでる。険しい表情。予報どおりの雨になった下校時間。昇降口付近は傘とワイシャツでごったがえしているものの、シバケンの立ち位置ばかりは人が避ける。ぼくはたまたま矢嶋と一緒だった。距離が詰まると、シバケンはいう。 「おい、メリケぇン。相変わらずバカか?」  丹塗りの不動明王のご面相で矢嶋は傘を握りなおした。金属の石突の光。喧嘩に巻きこまれるのはごめんだ。ぼくは空気の読めない子のふりをする。 「よお、芝ぁ。昼まえ地震あったのわかった?」 「キタ、ツラ貸せ」  シバケンの鋭い眼光。ぼくは矢嶋に手先をひらひら振った。 「だってさ。じゃあな」  矢嶋はポーカーフェイスに戻って、何もいわず離れてった。一緒に帰ろうって約束したんじゃないにしても冷たい。 「で、地震あったのわかった?」 「そりゃ揺れんだろ、三宅(みやけ)(じま)噴火してんだから。おまえ、メリケンとつるんでんのかよ」 「メリケンって矢嶋? 最近しゃべるようになったけど」 「すぐ離れろ。あいつはバカメリケンゆわれて睨まれてんだよ。最高学年さしおいてバカなカッコしてやがっから。おれらんとこにも、お達し来てるし、ソートーだぞ」 「物騒な話だな」  シバケンは睨んだ。蛍光灯の暗さのなか、煙水晶の目ん玉が魅いられそうにきれいだ。 「他人事じゃねえ。巻きぞえ食うぞ。ヘタすっと、おれんことも敵に回すかもしんねんだよ。なあ、おれはそんなんイヤだ。イイコだから、ゆうこときいとけ。な?」  ぼくは黙ってた。読みたくてたまらない本が禁帯出だといわれた感じだった。      ♂  月曜日。青空。予報じゃ、きょうも真夏日という話だった。ぼくは公園の水道の栓をひねった。あたりまえに透きとおった水がこぼれる。考えたら、これって不思議だ。冷たい水を両手に受けて、汗じみた顔をざぶざぶ洗う。蛇口をうわ向きにして、絶食の駱駝みたいにたらふく飲んだ。ぼくは息をついて、口を手首でぬぐう。 「公園の水道代って誰が払ってんのかな」 「税金だろ」  亭の矢嶋がすげなく返す。やつは本を手放さない。この気温で、よくも脳味噌がオーヴァーヒートしないもんだ。よし、税金を無駄遣いしてやる。太陽に背を向けて、親指を蛇口に乗せる。水が扇状のスクリーンになって、そこに映る小さな虹――赤・橙・黄・緑・青・藍・紫。七色のグラデーションに、ぼくは見える。けれど、矢嶋にはどうなんだろう。英語圏じゃ虹を六色と見る人が多いって教科書に載ってたな。ぼくは虹を指差す。 「なあ、なん(しょく)に見える?」  矢嶋は面倒くさそうに目を凝らす。「レェッド、オゥレンジ、イェロゥ、グリィン、あとブルゥ」 「藍色は?」 「あい色って?」 「インディゴ」 「それはブルゥだろ」 「紫は?」 「それもブルゥだろ」 「おまえの世界って大雑把なんだな」  ぼくは水道の栓を全開にする。ほとばしる水の蛇。それを親指で潰して、扇状に噴射した。天気雨のように(きら)めいた。矢嶋は腕をかざして立ちあがる。 「What you do !?」  ぼくは声をあげて笑った。逃げまどう矢嶋を、容赦なく狙い撃ち。水しぶきは光の破片。矢嶋は池のほとりに跪き、その水を掬って投げる。波紋の乱反射。水の塊が、ぼくの胸で砕けた。輝く歯列矯正器。そうだよ、笑え。もっと、笑え。ぼくらはバカみたいに水を浴びせあった。夏の空へ、二人ぶんの歓声があっけらかんと吸いこまれる。こんなに笑ったの、何ヶ月ぶりだろう。小さな公園は水浸し。ぼくらの髪も、服も、靴も、たっぷりと濡れた。ぼくのワイシャツが生ぐさい。 「池の水かけるか、ふつう? ちょっと飲んじまった」 「おまえが悪い」  矢嶋は貼りついた前髪を両手で掻きあげる。おっさんなオールバック。笑えた。矢嶋のTシャツも半透明。水もしたたるマッチョメン。  太陽は非情に照りつけ、風は体温よりも熱い。濡れた服が生ぬるくなる。気持ち悪い。ぼくはワイシャツを脱ごうとした。それより先に矢嶋がTシャツを脱いだ。シャツを捻って絞る。矢嶋の上腕二頭筋は特大レモンを移植した感じで、腹直筋は白い板チョコみたいだ。ぼくはボタンを外すのをやめた。こいつと並んじゃ、運動音痴のぼくの体なんか目も当てられない。なんだ、この敗北感。  そういえば、こいつに全裸を見られたんだよな。いや、こいつだけじゃなく、ほぼクラス全員に。イくところまで見られたんだ。いまさらに憂鬱になった。あーあ。葛󠄀城力はいつまでぼくにつきまとうんだろう。重石が頭に乗ってるみたいだ。ぬか漬けのように発酵しそうだ。だしっぱなしの水道で、ぼくはもういっぺん顔を洗った。  彼方の校舎から、始業五分まえの予鈴。早くも乾きはじめた甃に足跡をつけながら、ぼくは公園の階段へ。だが、矢嶋は甃に寝そべって目をとじたきり。発達した大胸筋はぷりぷりした双子の丘陵地帯を形成してる。 「行かねえの?」  矢嶋は目もあけない。「おれはパス」 「サボりかよ」 「おれの勝手だ」 「だって義務教育だぞ」 「おまえ、義務教育の意味わかってないな」 「受ける義務のある教育だろ?」 「親がその子供に受けさせる義務のある教育だ。おれや、おまえの義務じゃない。ガッコなんて行きたいときだけ行けばいい」      ♂ すこやかな胸でおのずと割れそうな鏡と虹とチャイムの日々よ      ♂  〽A tale begun in other days(遠い日々に始まった物語), When summer suns were glowing(夏の太陽が燃えていた頃)……とソプラノが、ぼくの片耳に訴える。セントルイス交響楽団のモダンで叙情的な演奏。余った対のイヤホンを、矢嶋がその耳に嵌めた。小さな公園で、ぼくらは大の字。背中に甃があたたかい。矢嶋は考えこむ顔つき。 「これ、《鏡の国のアリス(スルー・ザ・ルッキンググラス)》の詩だろう?」  驚いた。「そう。この《夏の日の思い出》って曲は、トレディチの大作《少女アリス》の第一部なの。デイヴィッド・デル・トレディチってアリスおたくで、《少女アリス》のほかにも《アリス交響曲》や《最終アリス》なんて作品がある。《少女アリス》はルイス・キャロルとアリス・リデルら三姉妹の川遊びの一日を表現してて、第一部はその午前。午後の第二部は発売されてないみたい。きっと、長すぎて音源化できないんじゃないかな。すべての楽章が切れ目なく演奏されるから」 「ふーん、ロマンティック」  曲がロマンチックというのか、ぼくがそういわれたのか、よくわからなかった。半裸のマッチョメンは目をつむって、イヤホンごしの音楽に耳を澄ませている。矢嶋の胸のむこうで、夏の池がきらめいていた。その光はダイヤモンドのように細やかだったり、鏡の破片のように鋭かったりした。ハレーションを起こしそうに明るい空の青。白い太陽は南中から傾いたところだった。ぼくは目をとじる。瞼の裏でグリーンの残像がちらついた。ぼくはぼんやりという。 「アリスとピーター・パン」 「アリス(エンド)ピィタァ・パン?」 「どっちもロンドンっ子でテムズ川流域が生活圏じゃん。どうして出会わないんだろう」 「それって謎なぞ?」 「そう思ってもいい」 「《不思議の国のアリス(アリス・イン・ワンダーランド)》の出版が一八(エイティーン)六五(シックスティファイヴ)、《ピーター・パン》の初演が一九(ナインティーン)〇四(オーフォー)。ピィタァが生まれたころ、アリスはとっくに大人の女だったからだろう」 「なるほど。納得」ぼくはうつらうつらという。「ピーターがもっと早く生まれてたら、ネヴァーランドに連れてかれたのはウェンディじゃなかったかな?」 「It's romantic.」  笑った声。こんどはぼくのことらしかった。遠く五時間目の終業を告げるチャイムが響く。ビッグベンよりもチープで軽やかに。     ♂ 舶来の童話を引用しつづけるぼくらは葦の国に生まれた

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