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九哩(四つめの街クロニクル)
ぼくらの小さな旅について。
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乾かないプールサイドの女子の目を泳ぎつづけよ牛蒡 少年
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学校の二十五メートルプールの水色は空よりも鮮やかだ。約四〇〇トンの水は絶えまなく波立ちながら、二クラスぶん十ダースほどの男女を洗ってる。炎天下の天幕のコバルトグリーンに染まり、ぼくはベンチのすみにいた。見学は(生理中の?)女子が七名と、男子はぼくだけ。水着を忘れた、というのは口実。ほんとうは葛󠄀城力から逃げまわるのに疲れたんだった。
イヤホンからルツェルン管弦合奏団による《水上の音楽》。第一組曲よりアレグロ・ニ短調。ドイツバロック音楽の巨匠ゲオルク・F・ヘンデルによる、王族の船遊びのための曲だ。それが流れていると日本の田舎の中学生たちの水泳風景も、どこか優雅だった。たゆたうコースロープの平行線、菊池雪央がマナティの子みたいに滑ってゆく。飛沫をあげるたくましい脚。菊池も体で語る種族の一員なのだ。プールの人工的なブルーとスクール水着の紺の対比は、ぼくの胸に涼感をもたらした。でも、実際はフェンスの水銀温度計は摂氏三十度を示してる。ぼくの体操着は汗で湿っぽかった。やっぱり参加すればよかった。水のまぶしさに、ぼくは目をつむった。肺いっぱいのカルキのにおい。
全身が冷たく濡れた。音楽が消える。大げさな音で転がるブリキバケツ。葛󠄀城の浮きでた肋骨は鮫の鰓 みたい。やつは嫌ったらしくにやにや笑ってた。ぼくはイヤホンをひっこ抜き、勢いよく立ちあがる。
「どうしてくれんだ、音しなくなっちゃったじゃん。弁償しろ」
「バぁーカ。そんなもん持ちこんでんほうがワリいんだろ」
この葛󠄀城に償わせるなんて、ワラジムシに芸を仕込むようなもんかもしれない。それでも、ぼくはあっさりひきさがりたくなかった。
「ふざけんな。おまえがバックレたって、おまえの親に請求するからな」
「おまえのオナニーせーきゅーするからなぁ。バカじゃねえの」
ぼくは息を浅く速く吸った。怒りで胸が詰まって何もいいかえせない。葛󠄀城はプールの彼岸へ駆けてゆく。ぼくは唇を嚙んだ。ウォークマンの電源ボタンを押してみた。液晶画面に表示はでない。髪の先から雫がとめどなく滴る。顔面へ流れる水を、ぼくは腕でこすった。かわいそう、って見学の女子の誰かがつぶやいた。
ヴィーンヴィンヴィンヴィーン、と初夏の蝉が喚いている。
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三日後に夏休みを控えた教室は、もう前倒しでプライベートの気分だった。水泳のあとの疲労感も手伝って、みんなの表情も姿勢もだらけてる。制服に着がえたぼくは、生乾きの前髪をサイドへ撫でつけ窓際の席についた。鼻の奥につんとカルキのにおい。
つぎの四時間目は社会科。なにげなく机へいれた指先が、何かにひっかかった。筒状に丸まった白い紙。なんだ、こりゃ? 菊池の秘密通信なら、いつもガーリーな封筒にはいってる。まさか、新手のいじめ? 死ね、とか書いてあったりして。おそるおそる、その紙を広げた。A4のコピー用紙。青いフェルトペンで、おそろしく丁寧な字がつらなっていた。何か詩のような言葉。差出人の名前はない。でも、その字に見おぼえがあった。
ぼくはあたりを見回した。まわりのやつらは、ぼくに無関心……いや、一人だけ、ぼくを見ているやつがいた。目が合うと、清水俊太は大きくひとつ頷いた。それで充分つたわった。ぼくは頷きかえした。清水はもういっぺん深く頷いて、そっぽを向いた。
コピー用紙の青い文字。ぼくは清水を助けるために一発逆転の劇的な方法ばかり考えていた。けれど、清水がしてほしかったのは、こういう地味でささやかなことだったのかもしれなかった。ぼくはコピー用紙を宝の巻物みたいに握りしめて、黒板上の秒針が長い針を追い越すのを眺めていた。
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あいされるあいされないにかかわらずぼくが短い歌であること
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JR保土ヶ谷駅は横須賀線の横浜駅のお隣だ。その表玄関たる西口を見てみよう。あのTS HODOGAYA BLOG.ってサインの鏡のビルディングを除けば、どうしようもなく野暮ったい感じのところだ。マンハッタン育ちの矢嶋健にいわせれば、クソ田舎街 。もし気まぐれを起こしてここに立ち寄るようなことがあっても、よそもんのあんたは信じられないだろう。ここが横浜だなんて。駅前広場を占めるのはバスロータリーと駐輪場。それを商業施設がぐるりと囲んでる。埃っぽいアスファルトに黄や黒や白のタクシーが列をなし、歩道のチャリンコ群は不ぞろいな∞の重ね書きって感じ。四面を見せて走る市営バスは冴えない亜麻色と海色のツートン。自動ドアが割れるたび一〇〇デシベルの騒音を吐きだすパチンコ屋の前には、ぼくよりもでかい向日葵が三、四本。砂色っぽい老人は福祉法人提供のベンチで休み、ビタミンカラーの親子は駅ビルの細いエスカレーターへと急ぐ。この広場を北へ抜ければ大通りがあり、西へ行けばいりくんだ路地がある。
盛況のマクドナルドから油のにおいが漂う駅舎の軒先、青あおとした大 公孫樹 の下で、ぼくと清水は挨拶代わりにハイタッチ。ぼくらは西へ。
線路沿いの界隈に、江戸時代からタイムスリップしてきたような濃いセピアの町屋。切妻造の中二階。万十瓦ぶきの下屋 庇に〝宿場そば 桑名屋〟の看板。引戸のガラスだけは新しいものらしく、均一な厚さだった。その戸口をはいると、右手に透かし階段、左手に帳場。時代がかったアイテム(浮世絵・徳利・草鞋・小田原提灯……)でごちゃごちゃしてる。とくに目を惹いたのは、飴色の下駄箱。その蓋の一つひとつに東海道五十三次の宿場町の名が書きこんである。おもしろい。清水は宮に、ぼくは鳴海に、蒸れたスニーカーを押しこんだ。長年の使用で錠がいかれちゃったのか、蓋はきちんとしまらなかった。
帳場の奥から現れた、黒ぐろした毬栗頭に縹色 の作務衣 のご主人は、愛想のいい顔で奥の間に通してくれる。いらっしゃい、待ってたよ、さあ、どうぞ、どうぞ。
きいたこともない昭和の歌謡曲が低く流れてる。十畳ほどの小ぢんまりした座敷。漆喰の壁に筆書きのチラシがたくさん、〝桂歌助落語会 於当店二階 八月廿日(日)午後二時 木戸銭阡伍円 先着二〇名様迄〟。客は近所のビジネスマンらしき白人と台湾人と日本人のトリオと、ぼくらだけ。清水は天ざるの海老を齧ってホクホクしてる。ぼくは鴨せいろをすすって蕎麦湯を飲んだ。デザートは蕎麦アイス。
いよいよ取材になった。座敷のすみで蕎麦屋のご主人、権藤 昭博 さんは手を振った。
「いや、こいつを建てたのは平成になってからなんだよ」
意外。権藤さんは大きな額縁を持ちだした。浮世絵だ。画面の右手前から伸びた太鼓橋を、武家駕籠や虚無僧が渡ってゆく。その左奥の岸に藁ぶきの茶屋が建ちならぶ。砂色の空に〝東海道五拾三次之内 保土ヶ谷 新甼橋〟とある。安藤広重《東海道五十三次》の一枚らしい。
「これ、オフセット印刷じゃないんだよ。親戚に摺師がいてね。見てごらん。橋のたもとの看板、二八とあるだろう。二八は十六文って意味で、蕎麦屋の隠語ね。広重が蕎麦屋を描いたのは、この保土ヶ谷だけなんだ。それをわたしは発見して感激してね。調べてみたら、保土ヶ谷宿 っていうのは蕎麦の実の集積地だったんだ。ここで殻を剝いてヌキ実にしてから江戸に運びいれてた。当時、ここには七軒も蕎麦屋があったんだよ。その保土ヶ谷の蕎麦屋ってアイデンティティを打ちだすために十年まえ、お店を建て直したの。宮大工や、屋根葺職人、左官、表具師なんかの一流の人たちに頼んで、江戸の船宿をモデルに本格的な造りにしてもらった。釘は一本も使わず木を組んで、内装もこのとおり凝りに凝ったよ。できたてのころは建築の先生や学生さんなんかがワンサカ見学に来たもんだ」
「それで、なんで桑名屋なんですか? さっきの下駄箱に桑名ってありましたけど」
人見知りな清水がおずおず尋ねた。権藤さんは目のまわりにいっぱい皺をつくった。
「よく気がついたね。初代のひいおじいちゃんが、三重県の桑名で商 いを起こしたからなんだ。それが横浜に移り住んで、ここに店を構えたのが明治の十九年。翌年に程 ヶ谷 駅が開業するのを見越してのことだろうね。文明開化の時代、横浜は若者の憧れの場所だったんだろう。夢を見たんだと思うよ。ひいおじいちゃんは結婚しなかったんだけど、養女をもらって大事に育てた。ひいおじいちゃんが亡くなったあとは、その子が店を盛りたてた。大正の関東大震災で倒れた店を次の日にはひき起こして、復興にたずさわる人たちに蕎麦をふるまった。それが、おばあちゃんの自慢だったな。昭和の頭には、できたての横浜中央卸売市場に支店をだしてね。昔はまだ市内をチンチン電車が走ってて、おばあちゃんはそいつにのって二つの店をかけもちしてた。おばあちゃんも独身を通してね、夫婦 養子をとって店を継がせた。それがわたしの両親ね。戦時中は蕎麦粉や小麦粉も手にはいらなくてね、おばあちゃんは泣く泣く店をしめなきゃいけなくなった。おやじも大陸に出征したしね。長い休業を挟んで、ようやく店を再開できたころ、わたしが生まれた。おやじは、いそがしい、忙しい、が口癖だった。わたしはおばあちゃんに育てられたようなもんだ」
ぼくのじいちゃんが震災や戦争で死にかけたって話を思いだした。すごく由緒正しいんですね、ってぼくはペンをメモ帖に走らせた。清水はデジカメのファインダーを覗きこんで権藤さんと浮世絵をどう収めるか思案してるふうだ。権藤さんがいう。
「そのおやじが五十六で急に亡くなって、わたしは二十歳で店を継がなきゃいけなくなった。最初は蕎麦屋やってるのがつまんなくってね。若かったからね。毎日ただ忙しいばっかりで、このままでいいのかって、ずいぶん悩んだね。どうしたら楽しくやれるだろうって考えて、商工会議所の勉強会に行ってみたの。まわりは大きい会社の管理職ばっかりだったね。そこでコーポレーション・アイデンティティって言葉をおぼえてね。訳すと、企業の独自性ね。うちの店のアイデンティティってなんだろうって、また考えてね。そんなとき保土ヶ谷がかつての宿場町だと知って、これだ! って直感したね。図書館に通いつめて、区役所の勉強会に参加してね。そこに広重の絵だ。それ以来、ここで蕎麦屋をやってることが、おもしろくてたまらなくなったよ。〝宿場そば〟って店名につけたのはわたしなんだ。それからはもうのめりこんでね、そのうち保土ヶ谷宿場まつりを立ちあげて実行委員長なんか務めるようになってた。しまいにゃ元の帷子 橋の場所にモニュメントをつくろうって事業を役所に提案しちゃったりしてね。今じゃ立派な宿場マニアだよ。みんなは東海道バカっていうけどね。なんでもきいてくれていいよ」
権藤さんは作務衣の胸を叩く。ぼくはペンを構えつついう。
「ぼくたち、大まかなリサーチはしてきたんです。東海道がいつ成立したかとか、なんのために整備されたのかってことは。きょうは、おもに保土ヶ谷の見どころと、その歴史的背景について、特ダネを教えてください」
権藤さんの目が光った。よどみなく熱っぽく語りだす。ぼくのペンの動きはせわしくなった。
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〽お江戸日本橋七つ発ち……その昔、東海道を旅する人は、明け七つ(朝の四時ごろ)に江戸を発つのが習いだった。起点の江戸日本橋から、品川・川崎・神奈川・保土ヶ谷――ここは四つめの宿場町だったんだ。江戸からここまでが八里九町 。一里が約四キロで、一町が百九メートル強。だいたい三十三キロの距離。鉄道も自動車もない時代、人の足か馬の脚だけが旅の手立てだった。膝栗毛って言葉が、それを象徴してる。順調に歩いたって八時間ちょいの道のり。ここへ到着するころには正午を回ってる。つぎの戸塚までには権太坂の一番坂/二番坂って難所がある。たいていの旅人は保土ヶ谷でひと休みしてから坂に挑んで、戸塚で宿をとることが多かった……というのが権藤さんの談。昔の男は一日で十里も歩いたのだ。
江戸日本橋より八里、って標石。相鉄天王町駅の高架脇が目当ての公園だった。敷地はいびつな十字路状で、四隅は植込み。クロマツ・タイサンボク・ビヨウヤナギ。園の真んなかへんが、橋らしく平たく杉板張りになってた。おととし完成した、旧帷子橋(新町橋)のモニュメントだ。もとは何の変哲もない公園だったが、七年まえの洪水で近隣が甚大な被害をこうむったため、再整備されたのだ。
保土ヶ谷区を袈裟がけに走る帷子川は昭和中期に大規模な改修がされて昔とは流れがちがう。現在の帷子橋はもっと北。江戸の旅人は、ここにあった橋を渡って保土ヶ谷宿にはいった。さっきの広重の絵の橋がここなのだと思うと、不思議な感じ。現在の背景は、茶屋と山じゃなく、ちんけな商店とビル。ぼくはモニュメントをがんがん踏んづけて確かめた。頑丈な造り。かたわらには燈籠までしつらえてある。あたりに掃いて捨てたいほど夥しい鳩が、かくかく頷きながらうろついてる。あの赤い眼が、ぼくはいささかこわい。やつらを追い散らす。そこへ清水がお父さんのデジタルカメラのフラッシュを焚いた。
ぼくは案内板の地図を写しとろうと四苦八苦した。撮っちゃったほうが早いじゃない、って清水は三秒で終わらせた。二.五インチの液晶画面に地図の画像をだす。
「見よ、光学三倍ズーム三三四万画素の威力を!」
「こんなちっちゃくちゃ読めないじゃん。ほら、だからデジタルなんか信用ならないんだ」
清水は黙って🔍を連打する。画面に地図が詳細に拡大表示された。ぼくは恥じいった。
現在地の旧帷子橋跡から、目標の境木 地蔵までの行程は、約四.八キロ。たった一里と八町ぽっちの旅。
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この街を何千マイル歩いたらぼくらは虹の脚を持つのか
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神奈川宿から保土ヶ谷宿へかけて旧東海道筋は、環状一号線におおよそ重なる。東海道をそのまま利用して道路をつくったからだ。車のぽんぽん行き交う環一を、ぼくと清水は南西へ歩く。アオギリ並木の化粧ブロックの歩道は、大門 通りまでちょん髷に裃の人型になったブロンズ風のポールが立ちならぶ。そいつも清水は写真に収める。
雑居ビルと個人商店の多い並びに、ちらほらと昔ながらの紅殻 塗りの木造建築がまぎれてる。気にかけたこともなかったそれらが、ここが宿場町だった証に思えて今はうれしい。知識を得たことで、いつもの街が別の顔を見せはじめる。数字の小数点以下が限りなく続けられるように、この小さな街は知ろうとすればするほど拡がってゆくのかもしれない。
ぼくは歩きながら口笛。貴志康一《大管弦楽のための日本スケッチ》の第一曲目。貴志康一は戦前の夭折の天才作曲家。滝廉太郎の少しあとの人。戦中戦後の混乱のせいで長いこと忘れられてしまっていたが、近ごろその遺業が見直されはじめている。第一曲《市場》は、街の喧騒と気分を描写した混成曲 風のそれ。保土ヶ谷の雑多な雰囲気に似あうと思ったんだ。午後のきつい太陽光線と、澱んだ排気ガス混じりの空気。汗は止めどなく噴きだしてくる。遠い蝉の声。
清水がいう。「自由研究のタイトルどうする。保土ヶ谷新聞じゃダサいよな」
「ほどがや瓦版?」
「いまいち。英語でそれっぽいのない?」
ぼくは思いつくまま挙げてゆく。「タイムズ、ポスト、トリビューン、メール、テレグラフ、クロニクル……」
「ホドガヤクロニクル」
「それでいこう」
ぼくは《市場》を口笛。清水は真似してデュエットしてくる。なんだかヒグラシみたい。八月のぬるい西風が音の切れっぱしをさらっていった。
JR東海道踏切の北側。保土ヶ谷駅西口商店街宿場通りと、かなさわ・かまくら道の交わる細い辻が通称、金沢横町。そこの市野屋商店(明治三十四年創業の雑貨店)のトタンの外壁に寄り添うように、苔むした道標が四基。サイズも形状もまちまちな四基にはいろいろ字が彫ってあるけれど、ほとんど判読不能。横浜教育委員会の案内板によると、レアもんなのは左から二つめのスリムなやつ。文化十一年製、杉田への道を示すのもので句碑を兼ねている。当時は有名だった浄瑠璃役者の句〝程ヶ谷の枝道曲れ梅乃花〟――当時の案内書や文芸作品は〝保土ヶ谷〟って四文字を嫌った。四は死に通じるからだ。あの弥次さん喜多さんで有名な《東海道中膝栗毛》も〝程谷〟って二文字で書いてるしね。それでも四文字の〝保土ヶ谷〟のほうが由緒があって、公文書には専らそっちが使われていた。今のお役所は〝保土ケ谷〟なんて変な表記を使っているが、あれは日本語を知らんバカのやることだ、と権藤さんはいかっていたな。たしかにホドケヤじゃ間抜けだもんな。ぼくを比較対象として道標の横に立たせ、清水は写真を撮った。
四路線の東海道踏切を、ぼくらは南側へ渡る。直角に国道一号線にぶつかって、ここから旧東海道は一国 に重なって西へ進路をとる。〝小田原49㎞〟〝戸塚8㎞〟って道路標識の手前が、はずすわけにはいかない苅部 本陣跡。江戸からでた大名行列が最初の宿泊地として利用したのがここだ。保土ヶ谷宿の顔。小田原の殿さまの家臣だった苅部豊前守 康則 (すごい名前)って人の子孫が代々当主をつとめている。明治天皇もご休息なさった由緒あるスポット。古びた万代塀のむこうにうかがえるのは、通用門の屋根とくすんだ土蔵ばかり。
「人んち勝手に撮っていいのかな?」
「さあ」
ぼくと清水は顔を見あわせる。道のむこうからドヤドヤと中高年の大群。先頭に小旗を掲げた老人。東海道ウォーキングツアーの団体さまのようだ。その一員のおじさんが一眼レフのフラッシュをばしばし焚いていたので、清水も遠慮なくそれに倣った。
本陣跡の数軒西隣、こちらもはずせないのが旅籠・本金子屋跡。銅板ぶきの堂々たる中二階。上下階前面の仕舞屋 格子が美しい。非公開だが裏に庭園があって、こちらは大正天皇が腰かけてお茶を召された石があるって話。写真担当の清水は観光客ごと写す。文章担当のぼくは建物から受けた印象を書きとめる。一国沿いにはついこのあいだまでこんな明治大正期の商家建築が散らばっていたが、つぎつぎに集合住宅に建てかえられていった。それでも旧家が根強く残っていて各戸が昔の屋号で通じてるんだ、と権藤さんは語った。
ぼくらは遥か京都へと続く一二五里の道を見わたした。刹那、そこに徳川の時代の賑わいが重なった。軒を連ねる茶屋と旅籠・荷を積んだ農耕馬・状箱を担いだ町飛脚・もろ肌脱いだ駕籠屋・めかしこんだ飯盛女・脚絆に草鞋の旅人たち――ここが宿駅だったのは、たった百三十年まえのこと。その昔、彼らが吐いた空気を、今、ぼくらが吸っているのだ。それはまったく確かなことなんだった。
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快晴の小田原49㎞の標識の下 燕の客死
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エンジン音はスケールのない音楽だ。二輪車はテノール・普通車はバリトン・大型車はバス。午後三時の一国 は時速五十キロ超 で行き交っている。保土ヶ谷橋から新大橋まで一国 は今井川に寄り添われながら続く。厚ぼったい翼を鳴らすアオサギ。川風はマイナスイオンを含んでいるだろうか。どうせ排気ガスで相殺されるだろうが。殺気だった八月の太陽。鼻の頭がひりひりして、頭が朦朧としてくる。清水の顔色は桜海老みたい。炎天下に膝栗毛は無茶だったかも。道の先で逃水がきらめいている。
ひと息いれよう、ってことで決議した。清水はボタンの点灯した自動販売機のまえで腕組み。
「同時に二個押すと左のやつがでるってマジかな」
「やってみ」
清水はファンタグレープとファンタオレンジのボタンを押しこんだ。左のグレープがでた。ホントだった、と清水はうれしそうに飲んだ。ぼくは一五〇円を投入して不確実な賭けはせずにアクエリアスのボタンのみ押した。転がりでるペットボトル。
清水のジャイアンツの帽子の鍔に|蜻蜓(とんぼ)が留まった。読売巨人軍じゃなくてサンフランシスコのほう。いとこの留学土産だそうだ。清水がいう。
「この青いやつ、なんでシオカラトンボっていうのかな」
「齧ると海の味がするからだよ」
「マジで?」
「噓だよ」
清水はぼくの膝裏を蹴る。蜻蜓が飛んだ。ぼくは笑ってアクエリアスを一気飲みした。車道をロードバイクの一団がカラフルな風のようによぎっていった。
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自販機のアクエリアスは売切れて帽子に憩え塩辛蜻蜓
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元町橋の橋銘板とピースしてるぼくを、清水は撮影する。そこから百メートルほど南西へ歩いたところが東海道第一の難所・権太坂の入口だ。有名な箱根駅伝往路二区の難所とは別口。ぼくらは一番坂にアタックする。昭和三十年ごろに改修されるまでは、昔の面影を残した鬱蒼とした松並木の山道だったらしい。今じゃまわりは普通の住宅地。改修でずいぶんなだらかになったとはいえ、楽ちんとはいいがたい勾配。登りはじめてすぐに、権太坂改修記念碑と鳥居と祠がある。それも写真に収めたら先へ。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。
「今いる場所で幸せになれないやつは、どこへ行っても同じなんだ」
唐突に清水がいった。ぼくは振りかえった。フェンスに両脇を挟まれた権太坂歩道橋のうえ。足下の横浜横須賀道路に輝く車の流れ・東に蜃気楼めく横浜ランドマークタワー・南に白い煙を戴く資源循環局保土ヶ谷工場の煙突・北に右近中学校のお膝もとの仏向 無線中継塔が見えた。折ってない野球帽の鍔に、やつの目は隠れている。
「って誰かがいってた。誰がいったのかは忘れちゃった。でも、権藤さんの話きいてて、そうかもしれないなって」
「うん?」
ぼくは前を向いて歩きだした。さらに住宅街のなかへと坂は続いていた。
「ぼく、死のうかと思った。葛󠄀城にやられてたとき。でも、できなかった」
友達の声は冷静だった。ぼくはただ歩みを止めるまいと思った。
「死ねないなら、生きるしかない。生きるなら、幸せになりたい」
「うん」
「今もやられてたときのこと、よくフラッシュバックする。そうすると息ができなくなるんだ。もちろん、オナニーなんか無理だよ。一生このままだったらどうしよう」
ぼくもずっとさわってなかった。安っぽい慰めをいってもしょうがない。清水は続ける。
「葛󠄀城を殺そうかとも思った。でも、親や姉ちゃんを殺人犯の家族にはしたくないよ。だからさ」
坂がだんだんとなだらかになってくる。清水はあっさり答えをだす。
「葛󠄀城のいる場所でも、幸せにならなきゃいけないんだ」
「うん」
「今いる場所を楽園にする方法は、きっと自分で見つけるしかないんだろうな」
「うん」
「権藤さんは、保土ヶ谷を自分の楽園にできたんだよね。自分のやりかたで」
「そうだな」
「ぼくらにも方法が見つかるかな?」
「探してないもんは見つからない」
清水がぼくを見やった。ぼくは汗をぬぐって、大股に足を運ぶ。
「探しつづけりゃいい。そのうちヒョコッと見つかんだろ。運がよければさ」
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秒ごとに更新されてゆく空を忘れて何度でも上を向く
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光陵高校・権太坂小学校・保土ヶ谷養護学校のスクールトライアングルのなかが、一番坂と二番坂の接続部分だ。二番坂はごくゆるやかな道がうねりながら南西へ延々と続いてる。清水がいう。
「ぼく、光陵高校いこうかな。毎日、こんな広い空が見られるって、よくない?」
ぼくは天を仰いだ。八月の水蒸気にくすんだ青は、電線と高圧線に切り刻まれながら、それでも高かった。峰雲の果てに天空の城がありそうだ。
「よかったな、第一志望が決まって」
好成績者の余裕で、清水はうなずく。背の低い友達がひと足先に大人になった気がした。進路か。ぼくの成績だと金井か上矢部あたりだろうか。空の最も濃い部分を見つめながら、ふと疑問が湧く。
「でもさ、クソ中って横浜市の学校じゃ一番海抜高いんだべ。あそこ、ここよりも高いってこと? 開放感ないよな、あそこ」
「まわりも高いからじゃない? ここはいっぺんにギューンと高くなるけど、あそこはジワジワだらだら高くなるじゃん。等高線の幅が広いっていうか」
たあいない話をしながら、ぼくらは歩く。ひたすら退屈な住宅街。一軒で用がすむ田舎の何でも屋、旧式な丸ボタンが三個しかないポスト型の自販機。ぼくは清水からデジカメを奪って、その小さな自販機を撮影した。清水は不思議そう。
「何それ」
「コンドームだろ」
清水はぼくの靴を蹴った。「なに撮ってんのさ」
「記念に買ってみる?」
「どこで使うの」
「水風船に」
「バカでしょ」
保土ヶ谷消防団第一分団第二‐二班消防機庫のシャッターに広重の浮世絵。ぼくはそこに清水を立たせてフラッシュを焚く。攻守交替だ。二番坂の突き当りが境木小・中学校だった。境木中学校前の停留所の角を西へ折れて、ぼくらは行進する。
ちなみに境木って地名は、武相の国境 にちょうど木が植わってたからついたらしい。それが境木地蔵尊の大欅 。そこが保土ヶ谷と戸塚の区境でもあり、ぼくらの最終目的地だ。
「ここ?」
清水がつぶやいた。〝一心山良翁院境木延命地藏尊〟ってご大層な標石。ぼくはいう。
「そう、ここが武蔵国 の西の最果てだ」
「おおっ!」
「イェーっ!」
ぼくらは突発的に盛りあがってダブルハイタッチした。朝から考えれば優に五キロ以上の距離を踏破したんだ。けっこうな達成感。
地蔵尊の境内は多種多様な草木に囲まれて、ちょっとした林みたい。短い石段の向かって左手に例の大欅。見あげるような巨木は百三十年と同じ色の葉を活きいきと繁らせている。境木地蔵由来の石碑を三秒で片づけて、ぼくはデジカメを構えて石段を指差した。
「そこん立てよ」
清水は急に真顔になった。
「最後くらい一緒に写ろうよ」
清水はデジカメを奪いかえし、おどおどしながら道ゆく主婦に声をかける。メガネで小太りのおばちゃんは笑顔でひき受けてくれた。
一たす一は?
二ぃ‼︎
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