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十二哩(戦争ソナタを知らない子供たち)

 Now we are engaged in a great civil war.      ♂ 精神科待合室に待ち暮らし振れるドラセナマッサンゲアナ      ♂ 「それで、お加減はいがかです」  横向きのスチールデスクで、白衣の草薙為比古先生は疲れた顔だ。あすは敬老の日で休診なので、予約が立てこんでいるのだろう。くさなぎクリニックの診察室。窓の幅広なブラインドごしに、タイル壁の白と電線の黒。キャビネットに数百の医学書とファイル。感じのいいヨットの油絵と、簡素なカレンダー。ダイキンの空気清浄機の稼働音。肘なしのオフィスチェアに、ぼくと父はいた。薄鈍色(うすにびいろ)のポロシャツの父は肌つやがよかった。ゆうべ、冷凍の(うなぎ)を食わせたからだろう。父はいう。 「悪くないです。食欲もありますし、身のまわりのこともできるようになりました」  ぼくはいいそえる。「ぼくから見ても、ずいぶん良くなったように思います。朝のゴミだしや、掃除機がけはやってくれますし。あんまりやると、へばっちゃうみたいですけど」 「はい。動いているせいか、寝つきもいいです。ただ、早い時間に目が覚めるのだけが悩みですね。夜の十二時ごろに寝て、三時から四時のあいだに覚めてしまいます。それから、もう眠れません。でも、齢のせいかもしれない」  先生はカルテにメモをとった。「それは早朝覚醒といって、うつ病の典型的な症状です。たしかに、加齢ともにノンレム睡眠が減って、睡眠時間が短くなるのは自然なことですがね。北浦さんは四十二ですからね。わたしも四十代になってから眠りの質が落ちました。家事以外に運動は?」 「あまり」 「睡眠には日中の活動量も影響します。自律神経には、日中の緊張状態を保つ交感神経と、夜間にリラックスをうながす副交感神経があります。この二つの神経の切り替えがうまくいかないと、昼は体がリラックスしたまま血圧があがらず、頭が冴えず、夜は体が緊張したまま寝つきが悪くなり、眠りも浅くなります。軽めの運動、たとえば散歩なんかをして、日光を浴びるのがいい。なに、気が向いたときだけでかまわんのです。義務感で無理をして、病気がぶりかえすのはまずい。それじゃ本末転倒ですから」 「でも、もう働きに行けそうな気がして。このまま家にいて、体力が落ちるのもいやです」  先生はじっと父を見て、デスクの抽斗をあけた。クリアファイルから一枚を抜いて、父にわたす。ぼくは横から覗きこんだ。療養実施状況報告書って記された紙には、日付欄と時間のグラフ。 「これで毎日の生活サイクルを報告してもらえると、ありがたいのですが。とりあえず二週間ぶんです」  父は苦笑い。「夏休みの予定表みたいですね」 「そうですね。今はあなたの人生の夏休みです。良くなったと思うかもしれませんが、まだ回復期にさしかかったばかりです。うつ病は心の風邪……なんていいまわしが流行ってますけど、完治する風邪とはわけがちがうんです。たとえ回復しても、発病まえの馬車馬みたいな働きかたは、もうすべきじゃない。うつ病でめざすのは、再発させないことです。この報告書も、できる範囲でやってください。竜也くんに手伝ってもらってもいい。決して焦らないこと、無理をしないことが、今のあなたの義務です」  先生は熱心に繰りかえした。 「先生はああいったけどな、父さん、行けると思うんだ」  父の声は不平そうだ。午後のいちばん暑い時間帯。雑居ビル二階のクリニックをでたぼくらを、残暑の生ぬるい空気がつつむ。風はない。曇天なのが、せめてもの救い。先に階段をおりる父の背中に、ぼくは声を張る。 「まだ早いよ。家で休みながら動くのとは、ちがうんじゃないかな」  薬局は同じビルの一階だった。保土ヶ谷駅付近の商店と住宅が混在する路地。先にアスファルトを踏んだ父が後ずさった。飢えたオットセイのごとく迫りくるおばさん、河合省磨の母親だ。げっ。 「まー! 北浦さーん、お久しぶりー。こんなところで、奇遇ですわねー。わたし、雙葉(ふたば)小からの帰りなんですの。北浦さんは? お仕事はお休みなのかしら」  ミセス河合は異様に高い声でしゃべりながら、目ざとく父の手もとをうかがった。受付でもらった処方箋。ぼくはそれを奪ってたたんだ。でも、遅かったみたいだ。ミセス河合は息子に似た薄い唇をゆがめた。 「あら、お薬をいただいてらっしゃるの?」  父は目を伏せた。「ええ、まあ、ちょっと」 「お母さんっ」  追いついてきた河合の妹の蝶子が、きつい声をだした。瘦せっぽちの体を小学校の制服につつんでる。ミセス河合は構わなかった。 「まー、それは大変! それでお仕事は続けられるんですの?」  ミセス河合の下世話な興味は、わが家の経済状況にあるらしい。ここでのことは、きょう明日で河合のマンションに住む同級生の親全員が知るだろう。父は口をもごもごさせた。回復してきたとはいえ、やはり判断力が落ちているのだ。ぼくは口を挟む。 「父は自律神経失調症で、休みをもらったんです。それが何かいけませんか?」  ミセス河合は初めてぼくを見とめて、鼻を鳴らした。 「お休みするほど悪いの。それってどういうご病気なの?」  そのいいかたこそやわらかかったが、ぼくはしんそこ不愉快になった。お母さんっ、と蝶子がいった。ぼくはつっけんどんにいう。 「河合さん。ぼくたち急ぐんで、失礼します」  ぼくは父をひっぱって、薬局の自動ドアに飛びこんだ。さすがに、ここまでついてはきまい。(かもめ)の絵のついたガラス扉ごしに、ミセス河合は意味ありげに笑いかけてきた。      ♂  快晴の週明け、ぼくは気を張っていた。先週のできごとは、ミセス河合から愛息子(まなむすこ)に伝わってるはずだ。あの河合省磨のことだ。話に尾ひれをつけてリリースするにちがいない。  だが、教室の会話に耳を澄ませても、北浦のキの字もきこえてこなかった。おかしいなと思ったが、河合だって気まぐれを起こすことがあるのかもしれない。五時間目が終わるころには、ぼくは安心してた。 「おい、北浦タツヤぁ。ちょっとソコで話そうか」  昇降口で河合は声をかけてきた。菊池雪央と工藤斗南と音羽カンナ以下四人組をひきつれて。ぼくは暗い気分になったけど、半面で河合がしかけてきたことに納得していた。  月曜日は運動部のオフで、グラウンドには下校中のやつらが歩いてるばかり。三連休の雷雨のなごりの水溜まり。ぼくと河合たちは鉄棒前の砂場にいた。砂場といっても踏み固められ、ゴム枠の外の地面と硬さは大差ない。  河合はカドミウムオレンジのTシャツにワイシャツを羽織ってる。肩から大胸筋まではオレンジの布がぴちぴちで、腰まわりは布が余って皺になってた。ぼくはがりがりの体をひょろひょろの腕でかかえた。河合も音羽たちもにやにやしてた。工藤はぼくと目が合わないよう顔を背けてた。菊池は不安げにぼくと河合を見くらべた。 「おまえのオヤジ、おかしくなったんだって? 仕事はもうクビんなったのか。生活保護シンセーしなきゃな」  河合はいった。ぼくは両手を拳にして、でも顔は動かさなかった。河合は反応をうかがって、またしゃべりつづける。 「情けねえ話だよな。妻に逃げられて、コブつきんなって、挙句、精神科と役所のお世話んなってんだもんな。まあ、カエルの子はカエルっつうもんな……」 「それで?」ぼくは無表情にいった。「人の悪口いいたいだけなら、帰るよ。おれ、暇じゃないから」 「調子こいてんじゃねえぞ」  ドスの利いた声。ぼくは息を飲んだ。河合の目は血走ってた。 「人の女にちょっかいだしといて、なに聖人君子ヅラしてんだ。トモヨに何ふきこんだ?」  困惑した。竹宮朋代にふられたのを、こいつはぼくのせいと思ってるのだ。お(かど)ちがいもいいところだ。ぼくは負けじと声を張る。 「おまえが竹宮を大切にしてやんないから、そうなったんだろ。おれは関係ない」 「ウソつけっ。あいつはいったんだよ、オタウラのいうとおりだった……ってな。おれに恥かかせやがって。ここで土下座しろよ。そしたら、おまえのダメオヤジのことは、まわりに黙っといてやるよ。いますぐだ。さあ」  河合は手を打ちつつ、どぉーげぇーざ! どぉーげぇーざ! と繰りかえした。音羽以下四人がつぎつぎ追従し、土下座コールの輪ができあがった。工藤もお義理みたいに手だけ叩いた。菊池は泣きそうになってた。下校するやつらが、何事かと立ち止まってる。頭から爪先まで痺れたように感じた。ぼくは湿った砂のおもてを見た。土下座の舞台としては、これ以上はないシチュエーションだ。河合はちゃんと計算して、ここを選んだんだろう。腹立たしいのを通りこして、笑ってしまいそうになった。ぼくは顔をあげた。 「恥ずかしくないの?」 「……んだと?」  河合は手拍子をやめた。音羽以下四人のコールも立ち消える。ぼくは歯を剝きだした。 「おまえがお上品だなんて思っちゃなかったけど、ここまで下劣だと笑えるよな。苦労して体こわした人に鞭打つようなこといって、自分のバカさかげん棚にあげてひと責めて。おれさぁ、小学校のころ、おまえに憧れてたのね。おまえの振るまいとか、しゃべりかたとか真似したりさ。でも、完ペキ失望した。ガッカリだよ。いいふらしたきゃ、どうぞ。そこの六人はもう知ってるみたいだけどね。そんなに土下座がすきなら、自分で竹宮にでも土下座したらいいんだ」  河合は目を剝いた。泣く寸前の熱がやってくる。立ちつくす七人をすりぬけて、ぼくは東門の階段へと駆けだした。      ♂ 大人たち。僕らのRPGはロールプレイングゲームじゃねえよ      ♂  最後の水泳の授業は最高だった。その日、葛󠄀城力は欠席。プールの底に沈められたり、プールサイドで体当たりされるリスクを警戒しなくてよかったんだ。このシーズン初めて、ぼくは伸びのびと泳いだ。スポーツの神に見放されているぼくでも、クロールはまあまあやれる。締めのタイムトライアルだって、二十五メートル十六.二四秒っていうそれなりの記録だった。葛󠄀城の休みの理由は知らなかったが、もし病気ならとうぶん寝こんでいてくれって願ってしまった。  おぞましいニオイのプール用更衣室とも、きょうでおさらば。肩の重荷をおろした気分で、ぼくは裸足で炎天下へ。右手に水泳セット/左手にスニーカー。更衣室小屋のおもてで体育の難波(なんば)志帆(しほ)先生(二年A組担任)と、着替えのすんだ女子が向かいあってた。ぼくが音羽以下四人と呼ぶグループのうちの、長谷川法子だ。長谷川はこわい顔で何かまくしたてた。なんかトラブったかなって思ったが、それほど気にせずぼくは昇降口へ向かった。  ぼくらの教室じゃ、女子たちが弁当を広げるためにわざわざ机をくっつけあい、男子たちは机は定位置のまま適当なところに弁当を持ち寄った。ぼくは窓際準最後尾の自分の席へ。後ろの席に矢嶋健、グリーンの髪に灰白のスリットシャツ。こいつは四時間目が終わるとすぐ例の公園に行ってしまうのに、きょうはなぜかペーパーバックをひらいてる。 「行かねえの? 弁当わすれたか」 「それがなんなのか聞こうと思って」  矢嶋は顎をしゃくった。ぼくの机に詰まった教科書類から、白い細い紐の輪がはみだしてた。水泳のまえは、こんなものなかったはず。無性に嫌な予感がした。そのナイロンの紐を、ぼくはおそるおそるひっぱった。手品師のシルクハットに仕込まれた万国旗のように飛びだしたのは、まばゆい純白のレエスのブラジャー! たぶん、カップはA。 「ワァオ。それ、おまえの?」  矢嶋はおもしろそうにいった。顔面が猛烈に熱くなって、ぼくは首をぶんぶん振った。 「てめー、なに持ってんだよっ」  ヒステリックな女の声が飛んだ。音羽のグループのうちの、樋口未空だ。同じく、堤香織もいる。樋口の叫びで、教室じゅうの視線が一斉集中。ぼくはブラジャーを隠したくなった。でも、それじゃ挙動不審な気がして、そのつつましい下着をそっと椅子に置いた。樋口と堤は黒板のほうから駆けてきた。樋口はブラジャーを見て、また叫んだ。 「これ、カンナのじゃん。てめー、ソレどうしたんだよっ」  ぼくはパニックになりそうだった。「机にはいってたんだ。おれじゃないよ」 「泥棒」  堤がいった。大きな声じゃなかったけど、そこにいる全員にきこえたと思う。たむろした野球部軍団から田村(たむら)宗近(むねちか)が伸びあがって、疑惑の品の正体をたしかめた。三分刈りの田村は目を丸くし、恥ずかしそうにニヤニヤした。その反応を見て、他の連中も覗きこんでくる。追い討ちをかけるように樋口が喚く。 「カンナに何してくれてんだよっ、このド変態っ」  頭が真っ白になりそうだったが、ぼくはどうにか冷静な声をだす。 「知らない。いま戻ってきたら、これが机にはいってた。おれが盗んだわけじゃない。もし盗むんなら、こんな人の多いとこに持ってきたりしない。そこまでバカじゃないよ。誰かがいれたんだ」 「いいわけしてんじゃねえよ、ドロボー。この変態。露出狂」 「カンナ、かわいそう」  堤が通る声でつぶやく。ぼくはむらむらと腹が立ってきた。これはこいつらの悪意の猿芝居にちがいない。ぼくは教室を見わたした。廊下寄りの席で河合は狡い顔つきで笑ってる。まちがいない、黒幕はあいつだ。矢嶋は見ているばかり。わかってるんだから、いいひらきをしてくれたっていいはずなのに。 「おまえもなんとかいってくれよ。これ、おれが来るまえからあったんだろ」  矢嶋の銀の歯列矯正器。「助けてほしいか?」  むかついた。もしかして、こいつもグルなんじゃないか? 矢嶋と河合がつるむとは考えにくかったけど、ぼくは疑心暗鬼になってた。このままじゃ下着泥棒に仕立てあげられてしまう。ぼくは樋口たちにいう。 「おれはこんなもん知らない。これ、おまえがいれたんじゃないの。おまえら、おれを悪者にしたいんだろ」 「ひらきなおんじゃねえよっ」と樋口。 「人のせいにして、最低」と堤。  ぼくは怒鳴る。「じゃあ、先生でも警察でも呼んでこいよ。おれは恥ずかしいことなんか何もやってないからな」      ♂ 葡萄から葡萄の種が出て嫌な予感は嫌な現実となる      ♂  生徒指導室――問題児のための取調室。北校舎一階の保健室のとなり。その頑丈そうなスチール扉を外からは見たが、内装は知らないまま卒業すると思ってた。人生って、わからないもんだよな。普通教室の三分の二ほどの広さ。教室のよりも上等のクリーム色のカーテン。オイスターホワイトの壁。  二脚のロングテーブル/六脚のパイプ椅子。ぼくの隣に矢嶋の図体。ぼくらのむかいにワイシャツの樋口と、上だけジャージを着こんで袖をまくった音羽。四人のあいだにTシャツの難波先生。テーブル中央に問題のブラジャー、たたまれてビニール袋にはいってる。ぼくはなるべく見ないようにしてた。音羽がうつむきがちにいう。 「プールのあと、着がえようとしたんです。そしたら、ブラが見つからなくて。みんなが探してくれたけど、やっぱりなくて。まさか盗まれたのかなって。窓の鍵あいてたし。なんか気持ち悪くて。いうの恥ずかしかったから、法子にいってもらったんです。でも、ほんとに盗まれてるなんて」  音羽は涙ぐんでみせる。傷ついた被害者の役。なかなかの演技だった。 「あたし、見た。こいつ、授業途中でプールから抜けてました。絶対、こいつが犯人だし。まじキモいわ」  樋口はそこまで役者じゃなかった。きいきい声で喚くだけ。ぼくは怒りを隠さずいう。 「噓つくなよ。おれ、ずっとプールにいたよ。清水にききゃわかる。先生、おれ、そんな恥ずかしいことしません。帰ってきたら、机んなかにあったんです。だいたい、ほんとに盗んだんだったら、あんな人目につくとこにいれとかない。誰かがいれたんですよ。誰とはいわないけど」  樋口は巻き舌。「セキニン逃れすんな。カンナに謝れ」  難波先生の強い声。「感情的にならないで。たしかに窓の鍵はあいてた。けど、あの窓は、そもそも人がはいれるほどひらかないの。授業中はドアは施錠するしね。だから、授業のあいだに、こっそり忍びこむなんてできないの。やれるとしたら、授業の前か、後だね。着替えの女子でいっぱいのなかに、男子がはいっていったら、その時点でアウトでしょ。北浦くんにはむずかしいと思うよ」  ぼくはうなずく。この女先生がぼくに味方してくれそうで安心した。矢嶋が口をひらく。 「おれが席に戻ったときには、もうブラァはこいつの机んなかにありましたね。こいつ、おれのあとから来たんですけど、おれにいわれるまでは気づきませんでした。もし、こいつがそこにいれたんだったら、もっと態度や仕草に後ろめたさがでたと思うんです。でも、それはなかった。こいつって思ってることがすぐ顔にでるんで、わかりやすくて楽ですよ」  フォローしてるつもりなんだろうが、ぼくはむかついた。先生はうなずいて、演技派の女子にやさしく語りかけた。 「音羽さん、そういうことなんだ。だから、これを北浦くんの机にいれられるとしたら、女子の誰かだと思うの。心当たりはない? ケンカしてる子がいるとか……」 「ないです。あたし、あたし……」  音羽は二重瞼からぼろぼろ涙をあふれさせた。顔を両手にうずめ、花奢な肩を震わせる。アカデミー主演女優賞もんだ。ぼくは拍手を送りたいくらいだった。  ぼくと矢嶋は先に指導室をだされた。ここのパイプ椅子には二度と座りたくない。九月のぬるい風が一階の廊下を吹き抜ける。ぼくは大きく伸びをした。 「あー、よかった。あの女の先生、まともな人で。あやうく犯人にされるとこだったし」 「どうかな」矢嶋は廊下の先を見やる。「あのセンセエは信じても、外野は疑うかもしれない。おまえ、前科あるし」 「なんだよ、前科って」  威喝い背中にいった。矢嶋は片頬を見せる。 「教室でポルノショウはまずかった。おまえをヘンタイ呼ばわりしてるのは、あの女らだけじゃない。カウアイは、こんどのことを最大限利用するだろうな」 「河合が糸ひいたって、わかってるんだな」 「おまえにこだわってるのはあいつだ」  矢嶋は北階段へ。ぼくは下で立ちどまった。 「そこまでわかってるなら、なんで教室でちゃんとかばってくれなかったんだよ」  階段の途中で、矢嶋は目を眇めた。「バカ。おれまでドロボー仲間にされるじゃないか。おまえと心中する気はないよ」  思いがけず悲しくて、ぼくは立ちつくした。矢嶋は踊り場でまたふりかえった。 「教室で待っててやったんだし、証言もしてやったんだから、ありがたく思えよ。ランチを食べそこねた」  昼休み終了五分まえを告げる予鈴が鳴った。矢嶋は上へ消えた。かすかに《泥棒かささぎ》序曲の口笛。ぼくはうつむいて、その階段をなるったけゆっくりとのぼりだした。      ♂ 近眼のあいつの無関心に似て横浜市営バスの海色      ♂  体育の次の単元はサッカー、八対八の簡略式のやつ。グラウンドに石灰で描いたコートで、E組男子BグループとF組男子Aグループの試合が続行中。  矢嶋は腕の長さを見込まれてポータブルゴールの前。暇そう。本があったら読みだすにちがいない。清水俊太はこの競技でも小回りの利くドリブラー。でも、積極的に前にでない。だって必要ないんだ。河合は華麗な足捌きでボールを運び、敵ディフェンスとキーパーをかわし、ハットトリックを達成。こんなのサッカー部の河合にとっちゃ遊びみたいなもんだろう。やつは笑顔で工藤とハイタッチ。健全な青春の一ページ。  ぼくはめずらしく出場していたものの、正直なところ補欠のほうがありがたかった。ボールなんか持ってないってのに、葛󠄀城にドリブルさながら脚を蹴られまくってげっそりしていた。ぼくは試合を邪魔しないようコート内を逃げまわった。  審判の香西博文はボールの行方ばかり追っている。あえて気づかないふりをしているのかもしれない。あんなやつに何も期待しない。小ウザイ自身、生徒をいじめて楽しむろくでなしなのだ。  清水の気づかう目つき。ぼくは合図を返す余裕がなかった。矢嶋はぼくなんか見てもいない。ほんとうに友達甲斐がない。河合は四本目のゴールを決めた。工藤とハイタッチ。葛󠄀城はぼくから離れない。あした、ぼくの脚は(あざ)になるだろう。不意に、ぼくはその場にしゃがみこみたいほどの疲労を感じた。  金属を打つ激しい音、めちゃくちゃなリズム。ぼくは佇んだ。葛󠄀城がぼくのスニーカーを踏みにじる。しつこい。ぼくは無断でコートを飛びだした。どうせ大勢(たいせい)に影響はない。葛󠄀城はコート外まではついてこなかった。  ぼくはフィールドをでて、トラックを越えて、グラウンドのはしっこに立った。右近中の校舎は北と南に分かれている。南の特別教室棟の三階は丸ごと体育館になっていて、北の普通教室棟のてっぺんは低い鉄柵ばかりの屋上だ。どうやら、その屋上から音は降ってくる。プロコフィエフ《ピアノソナタ第七番》を思った。第三楽章プレチピタートの七拍子。何人かが様子をうかがうしぐさをする。大多数は気にもとめず試合は続く。音はやまない。ぼくは胸を押さえた。ほんの少し、せわしい鼓動。  塔屋の扉二枚がべろりと倒れた。隕石が落ちたかってほどの物音に、ガラスの破砕音。グラウンドのやつらがいっせいに振り仰ぐ。屋上に人影が三つ転がりでた。ひとりは青いアロハシャツ。芝賢治は赤い筒を手にしてた。ツレの髙梨与一とミズノが喚く。シバケンは赤い筒、もとい消火器をかまえた。  九月の昼のきれいな空へ、白い噴煙が長く広がった。  ぼくは目を瞠いた。はあぁっ⁉︎ って声はボールをかかえた河合だ。スローインの途中だった試合は完全にストップした。  宙を漂う消火剤のなごり。それは北の風のなか横ざまに流れてゆく。シバケンと髙梨はタコ踊り。ミズノは(ぬえ)のような声で笑ってる。  グラウンドの全員が凍ってた。真っ先に動いたのは、われらが体育教師。小ウザイは猛然と駆けだし、昇降口へ飛びこんでった。三十秒後、屋上に到達。おまえら、何やってんだぁーっ! ヤンキー三人はてんでに散って跳ねまわった。地べたの生徒たちはあきれたり、笑ったり、しゃべくったりした。  鉄柵のむこうを横っ跳びするシバケンは、重力が半分しか利かないみたいだった。ぼくは無意識に自分の体操着の胸ぐらを握りしめた。小ウザイなんかに捕まらないでくれ。もっと不羈(ふき)奔放であってくれ。  小ウザイと三人の鬼ごっこは、あっけなく終わった。いちばん動きのとろいミズノが捕獲され、塔屋にひきずりこまれたんだ。シバケンと髙梨がそれを追って退場した。青空。  ぼくは目をとじた。瞼裏(まなうら)の青空へ、まばゆい粉の雲が膨らむ。それが繰りかえし再生する。それは十三年間で見た美しい光景のトップ3にはいると思った。      ♂ 秋空に汚れなどなく消火器をぶっ放しても童貞のまま      ♂  十三年間の人生を、大人は短いというだろう。ぼくの記憶は四歳からだから、実質は十年くらいの経験しかない。それでも十年も経てば、たいていの業界は世代交代するし、太陽活動周期だってひと巡りする。  それだけの時間で、ぼくが悟ったことは二つ。生と死はセットメニューだってこと。あらゆる意味は人間の都合のいいこじつけだってこと。人生は無意味だなんてつまんないことをいいたいんじゃない。もともと全ては一枚の大きなまっさらな紙だったのに、それを人間が好き勝手に切りとって字や絵をかいたんだ。紙は細かくなってグチャグチャに塗りつぶされて、そこへ新たに自分の言葉や絵をたすことは難しい。それは年々、難しくなるんじゃないかと思う。ぼくは一枚の大きなまっさらな紙の時代についてよく考える。こういう感慨を、ぼくは人にしゃべったりしない。暗いやつっていわれるのがオチだから。清水なら真剣にきいてくれるかもしれない。でも、ぼくはシバケンと話したかった。  二年C組の教室まで出張してったけど、シバケンの姿はなかった。 「なあ。芝ってどこ行ったかな」  出入口付近にたむろしてる連中に尋ねた。いかにもヤンキーって感じの私服三人組。天野克浪、ミズノと髙梨。三人のあいだで視線のやりとり。天野がガムを嚙みながらいう。ライムミントの香。 「シバケンなら謹慎中よ」 「謹慎?」 「屋上消火器事件で、小ウザイ殴ってさ」 「何日の謹慎なの」 「さあ。二、三んちじゃねえ?」 「ありがとう」ぼくはその場を離れかけて、振りかえる。「髙梨さ、()神社の祭り行った?」  ウルフカットの髙梨はにやりとした。「おまえってデブ専なのな」  天野が笑い声をあげる。腹が立った。 「変な噂、流さないでくんない。おれ、べつにデブ専じゃないから」  菊池はデブじゃないから、と心んなかでつけたした。ぼくはこんどこそ歩きだした。だから、まえに()()んなったやつだって……という話し声がきこえて、憂鬱になった。  職員室まで足を伸ばして、二年C組担任の海老原晋先生に尋ねた。 「芝賢治の家に行きたいんですけど、住所って教えてもらえますか」  採点中だったエビセンは小テストの紙を裏返して、椅子を四分の一回転させた。 「北浦、あいつと仲いいらしいな」 「はい、友達ですけど」  エビセンは真摯な顔つきで、声を低くする。 「ここだけの話にしてくれ。あいつ、欠課や欠席がいやに多くてな。欠席が年間三〇日を超えると、受験ってもう厳しいんだ。おれは受験なんかしないからいいんだって本人はいうんだけど、高校はでとかないと選択肢ってだいぶ減っちゃうだろ。あいつな、美術の成績は五なんだよ」  エビセンはデスクの抽斗(ひきだし)をあけ、一枚のルーズリーフをとりだした。シャーペンで細密に描かれたエビセンの肖像だ。イワトビペンギンみたいな髪の一本いっぽん、顔の陰影、ひょうきんそうな表情……。 「あいつの描いたもんはすごい。見る者を黙らせるような、(しん)に迫った描写をする」  いつかシバケンが描いた眼帯の天使を思いだす。走り描きのぼくの横顔も。ぼくは真顔でうなずいた。エビセンはうなずきかえす。 「おまえも見たか。なんというか、こう、もったいない気がしちゃってな。まあ、余計なお世話なのかもしれないが」イワトビペンギン風の頭を掻く。「芝公のやつな、おれによくおまえの話をするんだよ。キタの投球フォームがギクシャクしてておかしい、とか、キタの靴下にデカい穴あいてた、とかな。いや、バカにしてるんじゃなくてな。そういう話するとき、あいつ、すごくうれしそうなんだよな」エビセンは両手を膝に置いた。「なあ、北浦。芝公のこと、気にかけてやってくれないか。自分の可能性を自分で狭めるような真似はやめろって、それとなく伝えてやってほしい。おまえのいうことなら、きくかもしれない。おまえも色いろいそがしいだろうとは思うけどな。頼むよ」  小ウザイとエビセンの一番のちがいは、これだ。小ウザイにとって生徒は管理の対象だが、エビセンはぼくらを一人前の人間としてあつかう。信頼して、目をかけて、頼る。だから、ぼくらも、一見はいい加減そうなエビセンを信じて、愛するんだ。  ぼくは息を大きく吸った。「わかりました、努力してみます」      ♂  シバケンちの住所は、仏向町の一〇〇〇番台。クソ中の半キロ南、横浜新道に分断された飛び地のようなところ。ぼくは坂になった跨道橋をくだって、不ぞろいなアパートと戸建の路地をうろついた。さらに数百メートル南へ行けば、もう初音ヶ丘だ。  空地に面した青いトタンの平屋が、手づくり風の表札を掲げてた。しば。おそらくぼくの齢の倍くらいの築年数なんだろう。ピイィ~ン・ポオォ~ン。呼鈴の音は壊れたように甲高い。人がでてくる気配はなかった。もう一度だけ押してみることにした。ピイィ~ン・ポオォ~ン。どたどたと床を踏む重たい音。ドアごしにハスキーな声。 「はい、誰?」  ひらく薄いドア。シバケンの痩せた裸の胸・割れた腹筋・半びらきのローライズジーンズから陰毛。その背後にジャージをだらしなく着た年上っぽい美人、日サロで焼いたミルクココア色の肌。口をあけるぼく。目を丸くするシバケン。ぼくはビニール袋をやつに押しつけた。中身はコンビニのお菓子と飲みものだ。 「ごめんっ、邪魔しちゃった。それ、やる。じゃあ」  一刻も早く逃げだしたい。なのに、腕をつかまれた。 「待ってよ。せっかく来たんだから、あがってけよ」 「いや、いいから。ほんっと、ごめん」  ぼくは無理やり前へ進もうとした。シバケンは頑として手を放さない。 「遠慮すんなって」 「いえ、帰ります。帰らせてください」 「帰んないでよ。サナが気になんなら、そっちを帰すからさ」  なかば強引にひきこまれた。狭い三和土に、厚底サンダルと汚いスニーカー。  サナと呼ばれた女が身支度を整えてやってきた。露出度の高いキャミソール。三五〇mℓペットボトルが挟めそうなおっぱいの谷間。つい、見てしまった。彼女はサンダルを履きながら、ぼくをチラ見してくすくす笑った。ぼくは顔が熱くなった。玄関のドアがあいて、しまった。ほっとした。部屋で物音を立てていたシバケンが顔をだす。手招き。  家の間取は2DK。奥の和室がシバケンの寝ぐらだった。やつはびりびりに破れた(ふすま)をとじて、横の敷居に金属バットを挟んだ。ちょうどいい長さ。それが鍵代わりらしい。殺風景な六畳間。立派なのは学習机くらい。棚はガムテープで繋いだ化粧品の段ボール箱だし、ごみ箱は焦げたパスタ鍋。どう振るまえばいいのかわからなくて、ぼくはショルダーバッグをさげたまま突っ立ってた。 「そこ座っとけよ」  シバケンが指差す、二つに折った煎餅(せんべい)万年床。躊躇したものの、ぼくは腰をおろした。踵に当たる尖った何か。タバコの箱かと拾いあげたら、コンドームのイラストつきの使用書。ぼくは目が点になって、箱をぶん投げた。それが傷んだ畳に跳ねて空っぽな音がした。〝10コ入〟なのに使いきったのかよ。ぼくは膝をかかえて小さくなった。ぜんぜん別のことを考えようとした。漂うバニラ系の香りと、濃い体液のにおい。 「帰しちゃってよかったの、彼女?」  シバケンは首を鳴らし、剝きだしの肩を回した。「べつに彼女じゃねえし。やることはやったし。やりすぎてタマ痛えわ」  ぼくと芝はちがうんだ、と思った。シバケンはぼくの手土産を覗いて、八重歯を見せる。 「三ツ矢サイダーじゃーん。すきなんだよね」  目の高さに黒ぐろとした陰毛。ぼくは顔を背けた。 「せめて毛はしまってくれる?」 「ピンポン鳴って、急いだらチャックにチン毛からんじゃったんだよ」 「それは、ごめん」 「これ、毛ぇ抜かなきゃムリかな」うつむいてファスナーを動かそうとする。「いてててて」 「じゃ、そのままでいいよ」  シバケンは笑って布団に飛び乗った。カーテンごしの光に、きらきらと舞う埃。旧式な雀色のエアコンの風がそれを巻きあげる。ぼくは息を詰めた。シバケンは袋の中身をひっぱりだした。 「なんで来てくれたの」 「退屈してるかと思って。そうじゃなかったみたいだけど」 「ありがとな。暑かったろ。乾杯しよ」  汗をかいたペットボトルを打ちあわせた。炎天下を運んだ炭酸飲料の喉ごしはぬるかった。それでも、ほとんど一気に飲んでしまう。ぼくは音を殺してゲップした。ぼくの一挙一動を、シバケンは唇に笑みを含んで眺めていた。何がそんなにうれしいんだろう?  あまり見られたくなくて、ぼくは段ボール製の棚へ背いた。下段にスケッチブックや雑誌が大きさ順に並んで、中段にビデオテープの手書きのラベル(少年時代・クール◦ランニング・ショーシャンクの空に・小さな恋のメロディ……)、上段にCDケースの背がきれいにグラデーションになっていた。手錠・メリケンサック・縫いぐるみのポケモン軍団。立ちのぼる香水と性のにおい。シバケンと何を話したかったのか、よくわからなくなってた。瞼裏の青空に消火剤のまばゆい雲。 「あのとき、屋上で何してたのさ」 「ハナシきいた?」 「見てた。あのとき、校庭でサッカーしてた」  シバケンは得意げににんまりする。「ヨイチと喧嘩んなったのね、消火器の中身がなんなのかで。粉だろ! っておれがゆって。泡だべよ! ってヨイチがゆって。てゆうか屋上っていっぺんでてみたいんだけど、ってミズノがゆうもんだから。じゃ屋上でぶっ放して確かめんべ、ってハナシんなってさ。屋上って鍵かかってんじゃん。消火器でドアがんがん叩いて、ぶっ壊したんだわ。大噴射も見えた?」 「見えた。粉だったな」 「だろ。なのに、ヨイチのやつ、あれはチョー細かい泡だ! って。ガンコどんだけだよってカンジじゃねえ?」  ぼくは力なく笑って、湖池屋のポテチの包装を破った。袋の背をひらいて、数枚を鷲づかみにした。シバケンも同じにする。二人ぱりぽりとしょっぱい芋を嚙み砕く。鬱陶しがられるかと思って、ぼくはためらった。 「芝は行きたくないの、高校?」  シバケンはきょとんとする。「うち、ビンボーだし」 「高校いかないで、すぐ働かなきゃいけないほど大変なの? お兄さんいるんでしょう」  シバケンの顔から表情が失せた。一切の感情が死んで、目だけが生きてぼくを見る。デスマスクに睨まれたようで、ぼくの胸はかすかにせわしくなった。シバケンは苦笑した。 「マヂでなんも知んねえのな。そういや、キタんちって遠かったもんな。あゝ、だから、おれんこと芝って呼ぶんだな」 「どういうこと」 「ここらでっつったら、フツーは兄貴のことだから。どうしても区別したい場合は、兄貴はで、おれはってわけよ。でも、キタは、おれんこと芝って呼んでくれてんべ。それ、うれしかった」やつは喉を反らして、サイダーの残りを一気飲みした。盛大なゲップ。「いてもしょうがねえよ、あんなキセーチュー」  寄生虫。急に胸に鉛を積まれた気がした。ぼくは残り三センチほどのサイダーを流しこんだ。シバケンは意外そうに顔を覗いてきた。 「いわねえのな」 「何を」 「おれが兄貴の悪口いうと、血のつながった家族でしょ? とかいいだすんだぜ、お育ちのいいやつらはよ。よく知りもしねえくせに」 「血が繋がってるからって、仲よくできるとは限らないだろ」ぼくは母を思っていた。「そんな単純なら、尊属殺人は起きないよ」  シバケンはにやりとした。「わかってんじゃーん。マヂぶっ殺してえよ。今のうち、殺っとくかな。十三までは、ひと殺しても、鑑別所(カンベ)少年院(ネンショー)も行かなくてすむしな」 「でも、殺したら一生それがついてまわる。人殺し、って死ぬまで差別される」 「殺さなきゃ、一生あいつにつきまとわれて、生き血すわれる。どっちがマシだろな」シバケンは暗く笑った。「大げさって思ってる?」 「わからない」  シバケンは真顔でうつむいた。かと思うと、やにわに立った。両手をジーンズにかける。 「ゴチャゴチャ説明すっより早えもんな。ちょっとだけよ~」  途惑った。あいつはジーンズをずりおろした。毛が抜けたのか、イテッという。一瞬みえた、渦巻く陰毛と白っぽいチンコ。シバケンは尻を向けた。臀部(でんぶ)が黒ずんでいる――何十という小さな瘢痕(はんこん)の集まり。たぶん、タバコの火を押しつけたんだろう。その瘢痕の並びが、と読めた。 「これ、幼稚園から、ずっとやられてた。おれが熱がんのが、おもしろかったんだろ」  ぼくは息が苦しくなった。シバケンはジーンズを穿いた。布団にあぐらをかいて笑う。 「おれの兄貴って、そういうヤツなわけよ。オフクロもひでえ目みた。あいつが勝手にオフクロの実印持ちだして、九十四万のバイク買ったりした。オフクロが怒って返品しようとしたら、バイク連れて家出しやがって。兄貴にとっちゃ、おれは遊び道具で、オフクロはカネづるなんだよ。義理も情もねえよ。そんなのが助けてくれるわきゃねえだろ」  安易な慰めなんていえなかった。ぼくはシバケンのジーンズの破れた膝にいう。 「ごめん」 「何が」 「こういうとき、いいこといえなくて」  シバケンはやさしい目をした。「期待してねえよ。でも、春にオフクロがブチキレてさ。いますぐ出ていかなきゃ、あんた殺して、わたしも死ぬ、とか兄貴に包丁むけたのな。あんなこええオフクロ初めてだった。それでやっと兄貴はでてった。だから、今は少しいいんだ。だいじょおぶ。おれは早くしっかりして、オフクロんこと守ってやんなきゃいけねえの。だから、高校は行かねえ。まあ、おれの成績表、コーシンだし」 「更新?」 「イッチ、ニッ、イッチ、ニッ」  シバケンは座ったまま腕を振って足踏みしてみせる。行進か。 「でも、美術は五だって……」  ぼくは口を滑らせた。シバケンはいぶかしい顔をしたが、すぐにピンと来たようだ。 「エビセンか?」  ぼくは黙った。シバケンはつまらなそうにそっぽを向いた。 「なんだ、エビセンにいわれて来たんだ」 「ちがうよ。おまえの住所きくときに、そういう話になっただけ。ここに来たのは、おれの意思だよ。エビセンは、おまえのこと、もったいないっていってた。おれもそう思うよ」 「人のシンパイしてる場合か?」  シバケンは喧嘩するみたいな目。思わずたじろいだ。あいつは学習机の充電器からケータイをとった。DoCoMoの二つ折り式のそれをひらいて操作する。ボタンを押すたび軽やかな電子音。 「こんなの届いたんだ」  ケータイを手わたす。その液晶画面には、 2000/9/20 19:42……と表示されてた。発信者は、。件名は、WF:Wf:Re:WF:WF:……。本文は、こんな感じだった。北浦タツヤは片親、母親は男をつくって逃げた、父親は精神病で失業中。北浦タツヤは服も買えない貧乏人、風呂にもろくに入らないからクサい。北浦タツヤは腹黒い守銭奴、友達との交際費すらケチる。北浦タツヤはホモのド変態、だから葛󠄀城に脱いだ。北浦タツヤは下着ドロ、女の敵……。その文面からにじんだ悪意で、指が震えた。 「それ、カツラギじゃねえな。あいつがこういうコムツカしい言葉つかうとはおもえねえし。それの発信元たどって、そいつ、ぶっ飛ばしてやろうか」  本気でやりそうだった。ぼくはかぶりを振って、ケータイをたたんだ。気を抜いたら、泣きそうだった。シバケンのいたわしい声。 「なあ。おれ、ほんとうに、いつもどおりでいいの?」 「……帰る」  ぼくはバッグをひっつかんで立ちあがった。襖がつっかかって軋む。敷居の金属バットのせいだ。それを爪先ではずして叩きあけた。シバケンが何かいった気がした。ぼくは振りかえらなかった。逃げるように古い家を飛びだした。     ♂ ジーンズを着こなす脚がしなやかに少年法をはみだしている

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