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十三哩(犬は風の眷属のはずだ)

 泣いたら負けよ、あっぷっぷ。      ♂  ひょろ長い男が立ちふさがった。教室の出入口。ぼくは音楽の教材をかかえて、思わず鼻に皺を寄せた。葛󠄀城力のワイシャツの胸にオーストラリア大陸みたいな薄茶の染み。やつは()()を剝きだす。 「おい、ホクロ」 「ホクロじゃない。他にやることないのか? チンパンジーの芸につきあうほど、こっちは暇じゃないんだよ」  葛󠄀城がすねを蹴った。骨に来る痛み。ぼくはしゃがみそうになる。ごみ集積場のカラスじみた笑い声。こいつはすぐ暴力に訴えてくるようになった。言葉なら言葉でやりかえす。でも、暴力に暴力で応えたくはなかった。こいつと同じになりたくない。ぼくはすっと背を伸ばしていう。 「もし、おれが人間なら、おまえは人間じゃない。もし、おまえが人間だというなら、おれは人間じゃない」 「はぁ? あにわけわかんねえこと抜かしてんだ、ボケが」 「どうせ、おまえには解りっこない。話すだけ時間の無駄だよな」  ぼくは葛󠄀城の脇を擦り抜けた。ごったがえした廊下を早足に進む。人の少ない北校舎のほうへ。階段をくだった。  踊り場に洗いたての体操着群。懐かしい。元クラスメイトの五十嵐楓(♂)だ。ぼくの知らない友達としゃべってる。よお、とぼくはいった。五十嵐は唇をゆがめた。嘲った笑いかた。胸がサッとつめたくなった。五十嵐は友達と苦笑いしつつ行ってしまう。ぼくは立ちつくした。……もしかして、あの中傷メールのせい? 理由はそれしか思い当たらない。  でも、なんで? なんでだよ、五十嵐? ぼくら、友達だったじゃん。      ♂ 炎天に蟻を殺している俺も君らにとって蟻でしかなく      ♂  グランドピアノの鍵盤を、ぼくは叩きだす。Cocco《Raining》。この歌はメロディも詞も好きだ。噓をついていない気がするから。音だけの記憶を頼りに奏でつつ、全体の配分をつかんでゆく。Coccoのクリアな歌声を思う。ぼくは彼女のことをよくは知らないけれど、きっと、とても強い人なんだろう。ほんとうの強さというのは、自分の弱さをしっかりと自覚することだ。そう感じさせてくれる。何かになれそうな気がする。何にもなれない気がする。百年、生きられる気がする。明日、死んでしまう気がする。此処にいたくない気がする。何処にも行けない気がする。誰かと話したい気がする。誰にも見られたくない気がする。きれいでありたい気がする。汚れている気がする。うつむきたい気がする。胸を張りたい気がする。型に嵌まりたい気がする。掟を破りたい気がする。全てが欲しい気がする。何も要らない気がする。そんな気がするぼくだから、あんたを少しは解るはず。そんな気がするぼくだから、あんたも少しは解るはず。そんな気が、しているんだ。  ねえ、あんたは、どう?  拍手がはじけた。工藤斗南だった。くしゃんと笑うと狐目がほとんどとじてしまう。 「北浦、ピアノ弾けるんだ。すごいじゃん」  偵察してこいって河合に命令されたのか。授業まえの音楽室を見わたすと案の(じょう)、河合省磨と音羽カンナ以下四人がにやにやしてた。ぼくと目が合うと菊池雪央はわずかに首を振った。 「いつから弾いてんの」  ぼくは黙ってた。工藤は困り顔になる。ぼくを河合たちから体で隠して、手を合わせてくる。ひそひそ声。 「頼むよ。ネタ持って帰らなきゃいけないんだ。つまんないことでいいから」  あのグループのなかで工藤の立場は強くないのかもしれない。ぼくが所属していたころから、こいつは使いっぱしりみたいなあつかいだった。それでも、こいつは河合の部活仲間だから、逃げるわけにもいかないんだ。つきあいは短かったけれど、工藤の人間性がいいのは知ってる。 「今は遊びで弾くだけ。三歳から習って、小四でやめた。コンクールじゃいつも二位どまりだったから。河合たちには本番に弱いだめなやつっていえばいいよ」  工藤の表情が明るくなった。が、思いなおしたのか、顔をひきしめた。 「あの、おれ、北浦のファンだから。じゃあ」  ぼくはまばたきした。ぼくのファン一号はサッカー部での活躍をうかがわせる俊敏さで椅子の林をジグザグ擦り抜けていった。      ♂ おもてから裏へ裏からおもてへと返るてのひら人間オセロ      ♂  記入式のレポートに書く。/北浦竜也・菊池雪央・工藤斗南・榊言美・篠崎由江・河合省磨。/スチールウール・臭気瓶・ヴァット・ピンセット・針金・酸素スプレー・マッチ。/ごわごわしていて、光沢がある。  理科室の黒塗りの実験台に、六人のメンバー。ぼくは三〇〇ミリリットルビーカーの水をヴァットに注いだ。篠崎が力作の針金の台を浅い水中に置く。菊池が針金の先にスチールウールの玉を刺す。工藤が桃の絵の箱のマッチを擦っていう。蜜柑色の火。 「いくよ」  臭気瓶と酸素スプレーを構えて榊がうなずく。工藤は火をスチールウールへ。橙色に発光し、じわじわ燃える金属の繊維。そこへ素速く瓶をかぶせる榊。瓶には酸素がいっぱい。とたんに激しく炎があがる。おおっ、と一同。瓶の内側でみるみる水位が上昇してゆく。つかのま華ばなしく輝いたそれは水没寸前で鎮火した。榊が瓶をはずす。菊池がピンセットでスチールウールをパラフィン紙にとる。ピンセットの先でつつくと、それはもろもろと崩れた。殉職。二階級特進はない。  ぼくはレポート用紙をとりだす。/光沢がなくなり、もろくなった。 /酸素いりの臭気びんをかぶせると燃えかたが激しくなり、びんの内側で水位があがった。大量の酸素がスチールウールといっぺんに化合したためと思われる。その結果、使われた酸素の体積のぶんだけ水嵩(みずかさ)が…… 「腹へんない? こんなかったりいこと、やってらんねえよな」  河合が工藤にしゃべりかける。河合のレポート用紙の欄は空白。あとで工藤のを丸写しする算段なのだ。これで評価が同じじゃ工藤がかわいそうだ。工藤は困ったように笑うばかり。ぼくはつい口をだしてしまう。 「何も手伝わなくても腹は減るのな」  ぎょっとした目を向けるみんな。額を皺にする河合。 「なんだ、北浦タツヤの分際で。このホモのド変態が」  その言葉で、あの中傷メールのでどころがこいつだと直感した。ぼくは侮蔑を込めて睨んだ。ぼくはレポート書きに戻る。……増えたのだろう。結論:実験の結果からどんなことが言えるでしょう?/燃焼とは急激な酸化である。感想:学習した内容について感じたことを書こう/まじめに実験に参加した人とそのレポートを写しただけのやつが同じ評価じゃ納得できない。なかばヤケクソでそう書いてやった。ぼくはわざと鉛筆の先に力を込めて、折った。      ♂ 優等生と呼ばれ久しいぼくたちの夜を突き刺すための鉛筆      ♂  任期満了が近づいて、工藤も学級委員が板についてきた。やつはワイシャツの襟をぴしっと正す。 「まず、きょうの議題を決めたいと思います。意見のある人は……」  工藤が終いまでいわないうちに手があがった。せっかちなやつ。 「河合くん」  工藤の声で、ぼくは発言者を見やった。めずらしい。いつだって面倒なことは他人まかせで、あとから勝手な文句をつけるだけなのに。廊下寄りの河合は膝裏で椅子を押して立ちあがった。 「授業中のグループなんだけど、分けかたに異議がありまーす」 「というと?」 「出席番号で杓子定規に分けてるでしょう。それってチョット問題じゃないかと思うんですよ。そこでみんなの積極性とか自発性の芽が摘まれちゃうというか。もっと生徒の主体性を大切にすべきだと思いまーす」 「それは、つまり」と工藤。「学習班を、出席番号順でなく、自由に組めるようにしたい、ということですか?」 「そう。わかってんじゃんか、名探偵くん」  急にくだけた口調になる河合。みんなが笑った。なんだ、と思った。もっともらしい言葉をならべたてているが、ようするに河合はぼくと一緒の班にされるのが嫌になっただけだろう。  他に挙手するやつもなかったので、議題は河合の意見の是か非かになった。もちろん友達の多いやつらは大賛成し、友達の少ない/いないやつらは大反対。しばらく賛成派と反対派の応酬が続いた。意見がひととおりでそろったところで、学級委員長は採決に移った。ぼくは賛成に一票を投じてやった。河合との冷戦に嫌けがさしてるのは、ぼくも同じだった。あがった手を律儀にかぞえて工藤はいう。 「それでは、賛成十九、反対十五で、河合くんの意見は採用ということになりました。よろしいですかぁー?」  みんなの拍手。河合は満足げに鼻の穴を膨らませた。ぼくを見て底意地悪い笑み。不愉快のN乗。ふん、と思った。  後ろの席の矢嶋は、ぼくと河合の静かな攻防には無関心にAndrew H. Vachssのペーパーバックをひらいていた。根回しなど一切してないこいつは、任意のグループ分けじゃ不自由するにちがいない。こいつは自分の陥った状況をわかっているのか、いないのか。  でも、わかってなかったのは、ぼくだった。      ♂ 午後の雨 窓辺の席のしんがりで冥王星のようにさみしい      ♂  四時間目の終業チャイムと、雨音の高まりと、どっちが先だったろう。ぼくは窓から掌をかざし、雨の程を測った。勢いこそないが、まとわりつくような小糠雨だ。ぼくは窓を細くしつつ、後ろの席の男にいう。 「公園は無理そうだな。ここで食う?」 「視聴覚室に行く」  モダールカットソーの矢嶋はそういって、ランチボックスと教科書類を小脇にした。五時間目の授業は社会科の映像鑑賞だ。 「まだ、あいてないだろ」 「(キイ)を借りればいい。予習したいっていえば通じる」  矢嶋はこうしたいと思ったものを遠慮しない。てんで気兼ねのない態度が、ぼくは少しうらやましくて、少しうとましかった。さっさと行ってしまう矢嶋。ぼくも教科書と弁当を手に追いかけた。  北校舎一階の職員室前で、矢嶋はいう。 「おまえが借りてこい」  あきれた。派手なグリーンの髪に私服の矢嶋よりも、かたちだけは優等生でとおってるぼくのほうが適役と考えたんだろう。変なところは要領がいい。稲永(いななが)(やすし)先生は何も疑わず、ぼくに鍵を預けてくれた。ついでに資料のプリントのぶ厚い束も持たされた。  視聴覚室は南校舎二階だ。スチールの親子開戸に、ぼくは長い鍵を差しこんだ。一二〇インチのスクリーン・黒い遮光カーテン・整然たるロングデスク。最前列の机に、ぼくはどさりとプリントを置いた。窓際最後列の机で、矢嶋はサンドウィッチを齧りだす。 「おまえ、いつもサンドイッチだよな」 「一〇分でつくれるからな」 「自分でつくってんだ?」 「自分のことは、自分でやる」 「鍵はおれに借りさせた」 「それは、テキザイテキショってやつだ」 「ものはいいようだな」  ぼくも自前の弁当をひらいて、手を合わせた。あらかた冷凍食品だったけど、ピーマンの肉詰めと玉子焼きは自家製だ。ぼくの弁当を、矢嶋はものめずらしげに覗いた。いつもの公園じゃ離れて座っていたから、ぼくが何を食べてるかなんて気にしなかったんだろう。 「そのマズそうな色の、何?」 「失礼な。色は悪いけどイケんだよ。ピーマンの……グリィーンペパーの肉詰めだよ」 「ピーマンくらいわかる」 「そうかよ。帰国子女だからわかんないかと思ったよ」  矢嶋は首をひねった。「帰国……?」 「帰国子女ってのは、海外生活の長かった子供のことで……」 「言葉の意味は知ってる。ただ、ひっかかっただけだ。おれは帰ってきた気はしないから」  矢嶋はツナと胡瓜のサンドウィッチを千切った。ぼくは甘い玉子焼きを頬ばって、時間をかけて咀嚼した。 「おまえって、あっちで生まれたの?」 「そうだ」 「じゃ、二重国籍なのか。いいな、査証(ビザ)いらないじゃん」 「その代わり、国家公務員にはなれないけどな」 「そうなの?」 「なれても、州知事止まりだ」 「充分だろ」  矢嶋は歯列矯正器を光らせた。ぼくも笑った。こいつとの皮肉っぽいやりとりは、あんがい楽しかった。いざってとき助けてくれないのが、わかっていても。      ♂  薄闇のなか、隣の矢嶋はずっと目をとじていた。これが授業じゃなかったら、イヤホンも嵌めたかったかもしれない。清水の強制オナニーショーのときと同様に。  社会科の映像鑑賞の内容は、昭和二〇年八月六日について。その晴れた朝、広島県立高等女学校二年西組の生徒たち三十九名は勤労奉仕の建物疎開に駆りだされていた。ぼくらと変わらない、十三、四歳の子たちだ。そのとき、一機のB-29がパラシュートを投下し逃げ去った。少女たちはパラシュートを指差して笑ってたという。米軍は何度も偵察機を飛ばし、市民を油断させていた。そのパラシュートについていたのは、ウラン爆弾だった。  午前八時十五分、閃光。太陽の表面温度の約一万倍の熱。爆心から一.一キロメートルの場所だった。  視聴覚室の大スクリーンに、熱線を浴びて目を焼かれ皮膚が剝がれ骸骨みたいになった女学生の写真。みんなは悲鳴をあげた。ぼくだって目を背けたかった。でも、ぼくは真っ直ぐ見た。それが死者へのせめてもの礼儀だと思ったから。  ビデオの映像が終わって、室内に明かりが戻った。稲永先生はぼくらを見まわした。 「先生の故郷は、北九州の小倉(こくら)です。小倉は、広島・長崎とともに最終的な投下予定地になっていました。小倉が無事だったのは、いくつかの偶然が重なったためです。あの八月六日、もし広島が曇っていたら、最初の被爆地は小倉になっていたでしょう。あの八月九日、もし小倉に(もや)がかかっていなかったら、長崎ではなく小倉が第二の被爆地となったでしょう。もし小倉に原爆が落とされていたら、先生は今ここにいません。初めは横浜も原爆目標候補地の一つでした。横浜が候補から外されたのは、カーティス・ルメイ司令官が、ここを焼夷弾で焼き払ってしまったからにすぎません。横浜に原爆が落ちていたら、きっと、きみたちはいなかった。いわば、広島と長崎の人びとは、わたしたちの身代わりになったんです。原爆の被害を、遠い場所の遠い昔のできごととしてではなく、自分の身にひき寄せて、日本全体、世界全体の問題として考えて欲しいと、先生は思います」  まるで自分も被爆してしまったような苦しさが抜けなかった。矢嶋はプリントに感想文をさらさらと書きだす。ぼくはあきれていう。 「何も見てないくせに、よく書けるな」 「ちゃんときいてた。さわっただけで皮膚が剝がれて、生きたままウジに食われたんだろ」  矢嶋はしれっといった。腹が立った。 「なんでそんな他人事なの。まさか、おまえも原爆投下は正しかったって思ってるクチ?」  矢嶋はシャーペンの手を止めた。光る三白眼。「戦争を終わらせるためだ。ニッポンは降伏する気がなかった。軍は被害を最小限にとどめようとした。本土を攻めることで失われるかもしれなかった兵士たちの命を救ったんだ。小学校(グレイド・スクール)じゃ、そういうふうに教わった」 「アメリカの数千人の兵士を守るために、なんで日本の何十万人の無関係な市民が虐殺されなきゃなんないの。おかしくない?」 「それが戦争だ」  ぼくは黙りこんだ。矢嶋はすかした顔でペンを走らせた。  重たい気分だった。いつもの教室へと廊下を歩きながら、液体窒素の血が流れてるかもしれないターミネーター矢嶋のことを考えた。爆弾がその頭上で炸裂しても、あいつはいうのだろうか。それが戦争だ、って。ぼくはつい顔をさわって確かめた。すべすべした柔らかな皮膚があった。  教室の戸口をくぐって、違和感をおぼえた。ぼくの席付近の窓が全開だった。たしか、さっき窓は細くしておいたはずだ。ぼくの机のおもてに光る雨粒。ぼくの後ろの席に矢嶋が着くところだった。先週のブラジャー混入事件を思いだし、ぼくは自分の机のなかをうかがった。置き勉の教科書類が、すべてなかった。  まさか……。ぼくは全開の窓を覗いた。九メートル下の裏庭、黒ずんだアスファルトに教科書とノートが散乱してた。いったい、どのくらい雨に濡れていたのか。ぼくと矢嶋が視聴覚室でランチしてたころ、やられたのかもしれない。一時間以上たってる。絶望的だ。 「拾いにいかないのか?」  矢嶋は丸きりよそごとの口調。ぼくは睨んだ。こんなターミネーター野郎に当たったってしょうがない。わかっていたが、割りきれなかった。ぼくは社会科の教科書を机に叩きつけ、教室を飛びだした。  三年生のクラスは一、二階に分かれており、裏庭は前半の組の教室に面してた。上級生の縄張り。でも、雨あがりのせいか、帰りの学活が近いせいか、出歩く先輩はまばら。地べたの教科書類を気にする人は皆無だ。ぼくはそれらを拾って、砂を払った。防汚加工の教科書はマシだったものの、キャンパスノートはふやけてた。もしかして、北浦竜也って書いてあるから、誰も拾ってくれなかったんだろうか? 惨めさがいっそう涙腺にこたえた。泣いてたまるか。ぼくは唇を嚙んで、腰を伸ばした。  三階のぼくらの教室の窓辺に、知った顔。菊池は市松人形みたいに無表情だった。ぼくはその背の低い女子を見つめた。菊池は短いポニーテールを振って、奥へとひっこんだ。      ♂ 教室の窓から鳥を追いかけた しばらく海を見ていない目で      ♂  水曜の昼まえの授業は理科室だった。河合案の発動。みんなは好きな相手と組んで十ある黒い実験台を埋めてゆく。ようはランチタイムの顔ぶれの再現。黒一点ハーレムの河合一派・工藤を中心とする地味め男子・田村宗近を擁するヤンチャ男子・どんくさい三人組Mスリー・榊言美副委員長を筆頭とする優等生女子・飯田(いいだ)今日(きょう)()が仕切るガサツ女子・染谷京と成瀬(なるせ)璃沙(りさ)凸凹(でこぼこ)コンビ。  清水は工藤のグループに身を寄せていた。実験台のすみっこで資料集を捲ってる。あの学級委員長を頼るのは賢い選択に思えた。ぼくは男子ばかりがひしめく実験台へ近づいた。 「ごめん」  工藤はぼくの目を見ずにいった。 「どうして」  一応、ぼくは尋ねた。工藤はぼくの胸に向かっていう。 「だって、おれら、もう六人いるし。これ以上ふえると狭くて実験やりにくくなるもん。悪いけど、ほか当たってくれないかな」  たぶん、たんなる口実だ。ショックだった。モンゴル力士みたいな萩山(はぎやま)大輔(だいすけ)がいう。 「おれが幅とっちゃってるからさ。ほら、Mスリーのところとか、すいてるぞ」  清水は黙っていた。こいつは形だけのメンバーにすぎないからだ。歓迎されてないのに強引に割りこんでいけるほど、ぼくは図太いやつじゃなかった。  気を使ってくれただけ、工藤たちはマシだった。Mスリーの実験台では無理無理無理の一点張り。田村のいるグループじゃ完全無視された。思いきって飯田今日香に声をかけたが、苦笑されただけ。  立ってる生徒は、ぼく一人になった。あの一匹狼レインボー矢嶋でさえ、ちゃっかり一員として迎えられていた。それも工藤のいる実験台に。ぼくは焦って室内を見わたした。河合が実験台を背凭れにしてふんぞり返ってる。にやにや笑い。すべてはあいつの思惑どおりなのだ。菊池の不憫そうな目。それがたまらなかった。 「どうした、北浦。班にはいれないのか?」  倉持(くらもち)(まなぶ)先生に気づかれた。ぼくは何もいえずうつむいた。 「おい、北浦が余ってるぞ。誰かいれてやれ」  倉持は大声をだした。最低だ。これじゃ、さらしもんだ。笑い声がした。ぼくは身をすくめた。おーい、誰か! なおも声をあげる倉持。立候補者はでない。笑い声。      ♂ H+O2の式理科室に満ちて酸欠金魚の呼吸      ♂  九月も下旬だった。まだ暑いことは暑かったけれど、放課後の昇降口に吹く砂まじりの熱風に往時のきびしさはなかった。アロハシャツもそろそろ時季外れかもしれない。シバケンの真っ青な背中を見つけて、そんなふうに思った。北・南校舎連絡口で、シバケンはいつものツレとだべってる。  蓋なしの下駄箱から、いい感じにくたびれてきたスニーカーをぼくは抜いた。両足をつっこんで、ドアマットの踏みごたえに違和感。片足をあげたら、ワッフルソールのでっぱりに画鋲がびっしり。反対の足も。人気のエアマックスでもエアジョーダンでもない、ランニングスタイルのナイキだ。ミドルソールのエアクッションは無事だろうが、ぼくの気分は台なし。  ぼくは掲示板前でこそこそと画鋲を抜き、うつむきがちに昇降口をでた。なんとなくシバケンと顔を合わせたくなかった。裏庭を通ろうかと考えたが、そこまでして避けるのもどうかと思いなおした。もし声をかけられたら、いつもどおりに軽く挨拶を返せばいい。その心積もりで両校舎連絡路を横切った。 「キタウラタツヤぁ~。きょうは脱がねえのかよぉ~?」  どら声は髙梨与一だった。カッと自分の顔面が真っ赤になるのがわかった。  シバケンが髙梨を弩突(どつ)いた。うんこ座りの髙梨は顔面から地べたにつっこみそうになり、強引に立ちあがって大股にたたらを踏んだ。髙梨はびびった顔。シバケンの怒声。 「恥を知れ!」  その場の下校の生徒たちが凍った。ぼくは恥ずかしくてたまらなくなった。からかわれたことも、かばわれたことも。ぼくはシバケンを見ずに、そこから全力疾走で逃げた。  右の足を蹴りだし、左の足を蹴りだす。右の足を蹴りだし、左の足を蹴りだす。ぼくは息を切らせて、排気ガス混じりのなまぬるい風を通り抜けていった。すぐ横を砲弾みたいに行き交う車。ぼくの尻で中身のないショルダーバッグがはずんだ。苦しくなって走りが止まりそうになると、さっきの羞恥が甦る。思いださないためにフルスピードで足を動かした。このまま十キロくらい走れそうな気がした、遠くのどこか知らない街まで。      ♂ くず籠と化した自転車おそらくは風だった日へやや傾ぎつつ      ♂  いじめのターゲットはヒエラルキーの最底辺だ。一度ついた汚れ役のレッテルは剝がすことができない。みんながぼくを軽蔑する。ただ、他のみんながそうしてるからって理由で。小さなゴミの落ちてる場所に、さらに大きなゴミが捨てられるようなものだ。これから不特定多数の悪意が雪ダルマ式に殺到するだろう。ぼくは顔を羽根枕に突っこんだ。あらゆる毛細血管と尿道と涙腺が痺れる。涙腺をとおってきた水が、目の玉からぼろぼろこぼれる。さらに涙道をとおった余分な水が、鼻の穴からだらだら流れる。呼吸すると胸が痛い。ぼくは息を止める。呼吸しないと苦しい。ぼくは息をする。息を止める。息をする。息を止める。息をする。ぼくはパジャマのうえを脱ぐ。したを脱ぐ。トランクスを脱ぐ。タオルケットをきつく素肌に巻きつける。そうすると息をするのが、少しだけ楽になる。欲しいのは、こんな薄っぺらな布じゃない。ほんとうに欲しいのは、だれかの腕。あたたかい掌。だれの? こんな姿、だれにも見られたくない。  久しぶりにチンコにふれてみる。握りしめると、そいつは心臓と連動してどきどきと脈打っている。生きてる、って思う。闇のなかで、かすかに軋む安いパイプベッド。声を殺して、喘ぐ。快楽で痛みは打ち消される。ようやく、ちゃんと呼吸できる。可能なかぎり時間をひき延ばして、ティッシュに射精した。空っぽになる。しんとした心持ちで、部屋の闇と瞼の闇を見較べる。雨戸をしめて電灯を消した部屋のほうが、ほんのわずかに明るい。VHS用のテレビのスタンバイランプ/ノートPCのアダプターの通電ランプ。ささやかな光が、ぼくに輪郭をつくる。自分の手の格好を眺めて、いいかたちだと思った。両手をおろして、ぼくは何も考えずに眠る。      ♂ 深海に似ている夜の底にいて潰されぬよう踏んばっている      ♂  朝一番の教室。ぼくは席で石田衣良の青春ハードボイルドを読んでた。池袋の八百屋の兄ちゃんがクラシックをお供に街のトラブルを解決する話。朝の学活までの数十分間は、葛󠄀城に邪魔されず使える貴重な時間だ。でも、うまく集中できない。室内で笑い声があがるたび、その対象が自分のような気がしてしまう。  いや、気のせいじゃない。キタウラタツヤ、って誰かがいってる。マジきもい、って誰かがいってる。意識が活字をうわ滑りして、気づけば何度も同じ行を読んでいた。ぼくは単行本をとじて、その表紙に突っ伏した。  後頭部に衝撃。ぼくは飛び起きた。丸めたノートを握りしめ、怯えたふうな顔の工藤。河合と萩山と鈴木結人が爆笑していた。おそらく何かの罰ゲームでぼくを殴ってくるように命令されたんだろう。工藤は無理やり笑おうとして頬が痙攣していた。ぼくは何もいえず、その目を見た。工藤はまなざしを伏せた。後ろの席の矢嶋の目つき、冷凍倉庫の食肉でも見ているようだ。  河合たちがとりかこんだ。ぼくを小突いて、椅子の脚を蹴る。黒板から拝借したチョークで机に落書きする。ぼくは抵抗しなかった。しんそこ疲れきっていたんだ。  ある動物実験を思いだした。実験の第一段階、犬をハンモックに縛りつけて感電させる。一頭は鼻でスイッチを押せば電流を止めることができる。その犬は脚に電流が流れたらスイッチを押すことを学習する。一方、もう一頭のスイッチは押しても電流を止めることができず、どう足掻いても電気ショックから逃れられない。その犬は自分が無力だということを学習する。実験の第二段階、二頭の犬を低い囲いのうちに置いて再び感電させる。ちゃんとしたスイッチの犬はあっさりと柵を飛び越えて安全地帯へ逃げる。ところが偽のスイッチの犬は蹲って苦痛にただ耐えるばかりになる。それを学習性無力感という。  ぼくは自分の無力さを学んだ犬だった。  伸びてきた小さな手が、机の汚い言葉を擦り消した。菊池だった。やつは震えながら、それでも毅然という。 「もう、やめて」  河合たちは笑った。だめだ、そんなことしちゃ。菊池まで標的になってしまう。それで、いじめがまた性的な方向へ傾いたら……ぞっとした。ぼくは早口にいう。 「菊池。いいから」 「でも……」 「お願いだから」  哀願する口調になった。ヒューヒュー、お門ちがいな奇声をあげる河合たち。ぼんやりしてる工藤。何もいわない矢嶋。泣きそうな目の菊池。ぼくは黄色と赤の粉でぐちゃぐちゃの机を睨んだ。女の子にかばわれるなんて、なんて情けないんだろう。  河合たちが急に潮のひくように去ってゆく。教室前方の戸口から小ウザイが顔をだしたところだった。やつは書類籠を教卓に置いて、今さら気づいたように声を張りあげた。 「北浦。なんだ、その机は」  菊池が何かいうよりも早く、ぼくは小ウザイに告げる。 「なんでもありません」  それ以上、小ウザイはふれてはこない。この惨状を見れば何があったかわかりそうなものだ。菊池は唇を嚙んで、ふいっと短いポニーテールを振って行ってしまう。矢嶋の表情のない目。憐れんでもいないし、蔑んでもいない。そのことに安堵する。ぼくは本の汚れをウエットティッシュで丁寧にぬぐった。キタウラタツヤが、って誰かの低い声。鼓膜を刺す下品な笑い声。ぼくは何も感じていないかのように、ぼうっと前を見ていた。ほんとうに何も感じなくなればいいのに。  どうして、ぼくらはいじめを隠そうとするんだろう? 加害者はともかく、傍観者も、被害者のぼくでさえ。なぜ、何もなかったことにしたがるんだろう?  いじめは人類最大の恥だからかもしれない。      ♂ 逆光にチョークの粉が舞いあがり誰も彼もが影を引き摺る      ♂  完璧な青を、街の底の公園で仰ぐ。左イヤホンからエンドレスリピートする、マルケヴィチ《イカロスの飛行》。七楽章のうちの第五楽章。対位法のもちいられた複雑なオーケストレーション。不協和音。  イーゴリ・マルケヴィチは指揮者としてのほうが有名だろう。アムステルダムの著名な管弦楽団の指揮台に立ったとき彼は十八歳だった。ストラヴィンスキー、チャイコフスキー、ムソルグスキーなんかの録音をたくさん残している。  マルケヴィチは作曲にも早熟な才能を示した。この《イカロスの飛行》を作曲したときは、弱冠二十歳(はたち)。その十一年後、彼はこれを改訂し《イカロス》と名づけなおした。ある評論家へ宛てた手紙のなかで、マルケヴィチは《イカロスの飛行》を〝未熟な果実〟になぞらえている。それは私の進歩・辛苦・経験によってつくられていなかった、と。ぼくは聴きくらべてみた。たしかに《イカロス》のほうが垢抜けている。  でも、ぼくはに、より心惹かれた。未熟は悪で、成熟が善なのだろうか? 荒々しさは不正義で、洗練が正義なのだろうか? 若者はまちがっていて、大人が正しいのだろうか? あるいはそうなのかもしれないが、ぼくはそんなシンプルに割りきりたくも割りきられたくもない。なんてったって、ぼくは未熟で、荒々しくて、若いのだ。空が青いのが不思議だ。天の白い穴みたいな太陽から光がどしゃぶり。ぼくはベンチの背凭れにのけぞったままいう。亭で矢嶋はRay Bradburyを読んでいるはずだった。 「なあ、キャベツ。太陽の寿命があと五十億年だって知ってたか? あれって、でっかい水素ガスの塊なんだよ。その水素をヘリウムに変える核融合反応で、エネルギーをつくってる。つまり、太陽は自然の核融合炉ってわけ。地球は毎秒一〇〇〇個の水爆に照らされているのと同じなのね。残り半分の水素を使いきるまでに、あと五十億年弱っていわれてんの」 「五十億年だろうが五億年だろうが関係ない。おれは百年しか生きない」  こいつらしい返事だ。相手を(おもんばか)るポーズや、その場しのぎの同調なんて、矢嶋健はしない。その非情さが心地いい。ぼくがどんな立場にいようと、この態度は変わらない。ぼくが矢嶋のそばにいるのはそのせいだ。侮蔑も、同情も、まっぴらだった。 「おまえは自分のこと以外、どうでもいいもんな。おまえを残して人類が滅んだって平気な顔で本よんでんだろ、どうせ」  ぼくは汗にまみれて薄ら笑う。容赦ない九月の太陽。太陽と死は直視できない。大むかし誰かがそんなことをいった。ぼくは太陽に目を凝らす。光は千の針となってぼくの目ん玉を刺す。まばゆい放射のなかに、白い真円。黒点も見えないものだろうか。痛みに負けて、目をとじた。瞼を透かす光が赤い。まっかに流れる僕の血潮。トランペットと変則調弦ヴァイオリンのクリアな音色はイカロスのよろこびの爆発だ。なだれるティンパニと唸る低音弦が彼の運命を暗示する。 「《The Rite of Spring》きいてたんだ、あのとき」  唐突に矢嶋の声。春の光(ザ・ライト・オブ・スプリング)? ぼくはベンチにのけぞらせていた背すじを伸ばした。亭の陰のなか、矢嶋の三白眼の白がやけに際立って見えた。 「《春の祭典》のこと?」 「そう、それ」 「あのときって?」 「おまえが教卓のうえでイったとき」  反射的に筋肉がこわばって、首から頬が嫌な感じに火照った。あの羞恥と屈辱感がフラッシュバックする。ぼくを凝視しつづけていた矢嶋の目も。今もまた、こいつは無表情にまっすぐに睨んでくる。抑揚のない低い声。 「マーケヴィーチ指揮の五九年(フィフティナイン)のレコォディング。そのときが、ちょうどパァトⅡのフィナァリィで。その光景と、その音楽が調和してて、舞台でも観てるみたいだった。その印象が強烈すぎて、あの曲きくたびアレを思いだしそうだ」  ぼくは両手を拳にする。「じゃ、きくなよ」 「あれからきいてない。すきな曲だったのに」  まるで、ぼくが悪いようないいぐさだ。ぼくは睨みかえした。 「おまえは気分わるかったかもしんないけど、おれだってすきこのんでやったんじゃない。思いださせんなよ」 「おまえ、楽しそうだった。ポーズ決めたり、手ぇ振ったりして」 「ポーズなんかしてない」  矢嶋は頭の後ろで手を組んで斜に構えてみせる。「これ、無意識でやってたわけ?」 「はなっから性格いいたぁ思っちゃなかったけど、おまえは人の傷口に塩なする真似はしないやつかと思ってたよ。ガッカリだな」 「初めから? おじいさんが危篤なんですぅ~、っておまえがいったときから? ずいぶん見る目があるんだな」  これまで、あの十二月の放課後の逃亡劇が話題にのぼったことはなかった。ぼくは眉をしかめる。 「おまえは何を怒ってんの」 「わかったような顔で人をあげつらってんじゃねえよ。ヒィロゥ気どりで余計なオセッカイばかりして。それだけの力もないくせに。今のおまえは、ただのマケイヌだ」  言葉に心臓を刺された。掌に痛いほど爪が食いこむ。自分の唇が震えるのがわかる。矢嶋はまっすぐナイフを振りおろすようにいう。 「あの教卓のうえにいたときが、おまえのピィクだった。おまえの負けだ。勝ち目のない戦争だったんだ」  ぼくはやっとのこと声をふりしぼった。「勝ち負けじゃない」 「いや、勝ち負けだ。ここは戦場(バトルフィールド)だから。負けたやつは、せめて潔くしりぞくんだな」 「どういう意味だよ」 「もうガッコ来るな」 「偉そうに指図すんなっ! 何様だ?」 「おれは提案してる。おまえ、限界だろ? 逃げたって、誰もおまえを責めないよ。こんなくだらないところで命を懸けるのはバカだ」  諭すようないいぐさだ。矢嶋の真意が読めず、ぼくは口をつぐんだ。 「おまえのしたことは、意味があった。少なくとも、あのチビは助かった。でも、それでおまえが潰れたらしょうがない。こんどは自分を救え。ヒィロゥごっこはおしまいにして……」 「ヒーローじゃないっ。おれは人間だ。ただ人のために、できることをやっただけだ」 「おまえは月の明るい側しか見ようとしない。強くて優しくて気高いばかりが人間か? やつらがおまえにしたこと、思いだせよ。弱くて汚くて卑怯だ。それも人間だ。いや、そのほうが人間らしいかな」あいつは悲しい目をした。いや、これは哀れんでる目だ。ぼくの一番大嫌いな目だ。「人を信じるなんて、おまえはバカだ」 「ちが、う。そうじゃ、ない」  声がガタガタだった。こんなに動揺するなんて思ってなかった。 「何がちがう」 「ち、がうよ、おれは」こらえていたものが静かに溢れだした。頬をくすぐる熱い水。「おれは、を、信じ、たかっただけだ」  あいつは三白眼を瞠いた。ぼくはいう。 「誰も、証明し、てくれないなら、自分がその証明に、なりたかっ、た。それが、悪いのかよ?」 「……」 「気高くあり、たい、と願うのが、悪い? おれが、悪いの?」  矢嶋は途方に暮れたふうに、ゆっくりと首を水平に振った。そのしぐさが否定なのか肯定なのか、ぼくにはわからなかった。目のなかに溜まった初秋の光。そいつをワイシャツの袖に吸わせて、ぼくは公園を飛びだした。      ♂ なかぞらを一瞬石のごとく降るあれは絶望寸前の鳥      ♂  教室には戻りたくなかった。頬が火照ってる。きっと、ひどい顔だ。誰にも見られたくない、一秒だって、一瞬だって。人のいないところ――北校舎一階の教員用便所に、ぼくは飛びこんだ。  横長の鏡を覗くと案の定、目も鼻も真っ赤。水道の栓をひねって冷水を顔に叩きつける。そのそばから、嗚咽がまた湧く。情けない。あんなやつに泣きっつらさらすなんて。タイルに跪いてステンレスの洗面台を握りしめた。ミニチュアの滝に頭を突っこむ。冷たい泡が頭皮・こめかみ・頬を滑ってゆく。  矢嶋に近づいたのが、そもそものまちがいだったんだ。人の痛みがわかるようなやつじゃないって知ってたのに。マケイヌ。化膿した傷のように胸がじくじくと疼く。胃が痛い。  入口のノブが鳴った。ぼくは立ちあがった。髪の先から雫が滴る。はいってきたのは、よりによって小ウザイだ。ぎょっとした表情で、ぼくの腕をつかんだ。ぬるい掌。 「何があったんだ。話してみろ」  ぜんぜん心配してる口調じゃなかった。面倒だ、って顔に書いてある。小だか大だかをこらえてるせいかもしれない。ぼくはその手を振り払って、清潔な便所のドアを蹴りあけた。水道の水はだしっぱなしだった。  最悪。      ♂ 飛行禁止区域に指定されている学校にある開かない扉      ♂  北階段をぼくは駆けあがった。人けのない二階の廊下を走って、中央階段をのぼった。四階の先にプラスチックチェーンと[立入禁止]の札。跨ぐとチェーンはちゃらちゃら鳴った。上の踊り場に大小の綿埃・ガムの紙・チャコールフィルター。壁の無数の落書き、。下からは死角のここは恰好のたまり場だ。ぼくはしゃがみこんで息を整えた。もう誰にも会いたくない。突き当たりの壁に赤いスプレー痕、LEAP BEFORE YOU LOOK。その右手が屋上の入口だった。扉はガラスを失って変形し、戸枠に寄りかかっているばかり。派手にやったもんだ。申しわけのようなバリケードテープと[キケン]の紙が風に震える。そいつをくぐって外へ踏みだした。  九月の太陽に、ぼくは目を細める。あたりに消火剤の粉は残ってない。コンクリの荒野の輪郭はテトリスブロック群のいびつさ。ざっと二百坪か。全校生徒でヒップホップダンスは無理でも、ベリーダンスならできそう。地上から見るよりは鉄柵は背が高かった。パラペットに隠れていたのだ。、って西側に黄色いサイン。ひと文字が畳二枚ぶん。ぼくの佇む東側には給水タンクの乗った塔屋と、枯木じみた八木アンテナ。わずかな土に揺れるネジバナ。見慣れた校舎の未知の光景。  裏門の雑木林から生き残りの蝉のシュプレヒコール。幾重もの送電線、家いえと野球場のむこう、あまたのビルディングを従えて横浜ランドマークタワーは近いようで遠い。その不思議な距離感。  ぼくは腹に鉄柵を押し当てる。昼休みのグラウンドの生徒たちは縮尺サイズ。ぼくの思いとは無関係に、はしゃいだ声をあげてる。  唐突に、やつらが憎たらしくなった。  ぼくは鉄柵を乗りこえた。濡れ髪に風を感じた。こわごわ真下を覗きこむ。二十メートル下は、昇降口まえのコンクリ製化粧ブロック。  もし、ぼくが墜ちたら、やつらは多少のショックを受けるだろうか?  翼のように腕をひらいて、ぼくはパラペットに乗った。幅五十センチの平均台を、廊下を歩くほどのテンポで時計回りに行く。スーパーマリオのBGMを口ずさむ。屋上の輪郭に沿ってパラペットは迫りだしたり、いりくんだり。ぼくのバランスはわずかに振れつつ安定している。右に倒れれば生/左に倒れれば死。死と隣りあわせの孤り遊び。不思議だった。グラウンドにも、裏庭にも、正門にも、中庭にも、人は大勢いるのに誰ひとり、ぼくに気がつかないんだ。透明人間になったのだろうか。  パラペットの平均台は塔屋で行き止まり。方向転換、こんどは反時計回り。左に倒れれば生/右に倒れれば死。ぼくは笑ってた。自分が生と死を超越した者に思えた。ぼくは十三歳だ。迷宮の幽閉から逃げだしたイカロスは、きっと、こんな気分だったんだ。 「……っにやってんだよっ!」  男の怒声。ぼくは足を止めた。塔屋から人影、ブルーのアロハシャツ。なぜ、シバケンが? 怒った顔が弾丸のように声を放つ。 「こっち戻れっ!」  大股に迫るシバケンに、真朱(まそお)のオーラを錯覚した。反射的にこわばる体。ぼくはパラペットの内側へおりようとした。上履きの踵がつっかかり、軸足がふらついた。崩れる生と死の均衡。鉄柵にすがろうとした手が、むなしく空をつかんだ。両足が、浮く。背中に感じる、果てしない空間の広がり。  目に映るものすべてが鮮明に、緩慢になった。ハイスピードカメラの映像みたいに。  シバケンは顔がゆがむほど口をあけた。その叫びはきこえなかった。世界から音が消失していた。  シバケンが猛ダッシュする。砂漠のチーターじみた躍動。  ぼくの視界はうわ向いてゆく。給水タンクの錆びた鉄骨・残暑のくすんだ空の青・九月の真っ白な太陽。あゝ、頭から落ちる。きっと死んじゃう。  ぼくは顎をひいた。あっというまに距離を詰め、シバケンは鉄柵に体当たりした。全身で手を差しのばす。それはあやまたず、ぼくの手首をとらえる。すさまじい力で、ぼくは水中のボールのように浮きあがった。膝下を打つ鉄柵。  ぼくは柔らかいもののうえに落ちた。  ぼくの情報処理機能がノーマルに戻って、すべてがわっと押し寄せてくる。耳が塞がりそうな蝉時雨・活気あふれる生徒たちの声・朽ちかけたコンクリのざらざらしたグレー・アロハシャツの目覚ましいブルー・シバケンの脈打つ首筋・パンクしそうな二個の心臓・呼吸音・高い体温・男の汗のにおい・腰に食いこむ腕の力……こいつに抱きしめられるの、これで二度目だな。そんな意味のないことを思う。シバケンの低い声。 「おい。なんか、ゆうことあんだろ」  口から心臓がでそうだった。「……こっ、こわかった」 「こわかったのはおれだ、バッキャァロウ‼︎」  青空へ砲撃のごとくシバケンは吠えた。耳鳴り。ぼくは泣き声になる。 「……ごめんなさい」  シバケンの膝をおりて、ぼくは正座した。朝から日光を浴びつづけたコンクリは火傷しそうな温度。けれど、ぼくは立てなかった。腰が抜けて、手の震えが止まらなかった。やつの左手が手首をがっちり押さえている。ぼくらは苦行者みたいに無言で座りこんでいた。強打した右脚に、次第に膨らむ痛み。シバケンが顔をしかめた。その左肘から赤いものが滴る。コンクリに点々と血痕が咲く。 「おまえ、それ……」 「死のうとしてただろ」  シバケンはしゃくるふうに下から睨む。ぼくは喉がつかえたみたいになった。こわい顔がぐっと迫る。 「なんでだよ」 「……ちがう」弱よわしい声。ぼくはいつもどおりにしゃべろうとする。「おれの父さん、うつ病なんだよ。あの人は、きっと独りに耐えられない。おれが自殺なんかしたら、父さんまであと追い自殺しちゃうかもしんない。だから、おれは自分からは死んだりしない。おれは遊んでただけだ。驚かせて悪かったよ。大丈夫だから、もう放せよ」 「でも、いま落ちたら死んでた」  胸の底がひやりとした。男の声が掠れる。 「おまえがここで死んだら、おれの責任じゃねえかよ。ふざけんな」 「……ごめん」  ようやく左手がゆるんだ。ぼくの手首の白い跡は、季節外れの雪のように消えた。ぼくは右脚を伸ばしてすねをさすった。熱を持って脈打っている。 「見せろ」  シバケンが足をつかんだ。ズボンの裾をたくしあげ、男の手が止まった。ぼくの膝下はまるで紫と黄色のタイダイ染め。新しい打撲痕と治りかけのそれと。体育のたび痕が増えてゆく。シバケンはすねを睨みつける。 「キタがこんなことしたの、あいつのせい?」  あいつ。ぼくは矢嶋を思い浮かべた。 「カツラギチカラのせい?」  それも一因だけれど、そんなにシンプルな問題じゃない。けど、答えないと埒が明かなかった。ぼくは小さくうなずく。  ズボンの裾はおろされた。シバケンは自身の肘を見やって舌打ちする。血が青いシャツを汚していた。どう見ても、やつのほうが重傷だ。見ているだけで痛い。 「ごめん。保健室に……」 「いい。なめときゃ治る」 「でも……」 「じゃ、キタがなめろ」  やつは肘を突きだす。にじんだ血が溶岩みたいに筋をつくっていた。罪悪感で胸が潰れそうになる。ぼくは両手両膝を焼けたコンクリについて、顔を近寄せた。鼻腔に充ちる血のにおい。犬のように舌で傷口の砂をこそげとる。汚れを吐き捨てて、湧いてくる鮮血を嘗める。シバケンは眇めた無表情でじっと観察していた。なめても、嘗めても、血はあふれて止まらなかった。喉をくだる、ぬるい鉄錆の味。吐き気が込みあげて、目が潤む。 「もう、いい」  ぼくはやめなかった。シバケンは肘をひっこめ、肩を弩突いた。 「もういいっつってんだろっ!」  背中を打つ熱いコンクリ。ぼくもいつか、こいつを突き飛ばしたっけ。因果応報。きちんと返ってくるのは、こんなものばかりだ。ぼくはふらりと立ちあがる。朦朧とする頭。きっと、こんな暑い場所にいるせいだ。ぼくは右脚をひきずりつつ歩きだす。壊れた扉へ。  刺すような胃痛。ぼくはみぞおちを押さえて前かがみになった。とっさに押さえた指の隙間から、酸っぱい胃液がしたたる。ぼくは這いつくばって叫ぶように吐いた。さっき食べた米が、未消化のままコンクリに広がった。涙がでるのは生理的な反応だった。  シバケンが呆然と見おろしていた。 「見んな」ぼくは汚れた手をかざした。いやだ、見られたくない。いっそ消えてなくなりたい。「どっか行ってくれ」  顔を膝のあいだに突っこんで、石に擬態するようにじっとした。でも、どんなに固く目をとざしても、ぼくのゲロのにおいが、おまえは人間なんだという。上履きの足音が、そばで止まって、やつの膝関節が鳴った。後ろ頭にかぶさる大きな掌の感触。生乾きの髪を撫でつけて、うなじをなぞって、背中をさすった。  もう、だめだった。壊れたモーターのように、ぼくは高く低く唸った。目ん玉が熱く、液漏れしてしょうがない。やつの手が、背中で穏やかに拍子をとる。 「いいよ」  あいつがいった。意味がわからなかった。シバケンは真正面から目を合わせる。煙水晶の玉を嵌めこんだふうな目。矢嶋以外の人間に憐れみでも蔑みでもないまなざしを向けられるのは、ほんとうに久しぶりだった。強い、恐い、澄みきった目。宿した秋暑の光。 「いいよ。あいつを、なんとかしてやる」静かに、けれど力強く、シバケンはいった。「おれが、助けてやる」      ♂ 編集は不可能 フィルムの傷跡のごときお前の眼の秋暑光

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