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十四哩(不倶戴天)
イヌサフランの思慕よ。
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曇天と緑、ぼくはそわそわと窓辺の席にいた。金曜の一時間目を終え、二年F組の教室はつかのまのにぎわい。いつもの光景と少しちがうのは、二年C組の芝賢治がいること。ロッカーの前で、シバケンは黒のTシャツに血に染まったアロハシャツを羽織って、歩哨 のように佇む。そのステンレスピアスは鋲 の尖ったパンクなやつに替わってた。
後ろの席の矢嶋健はきょうも片手にペーパーバック。「あいつ、何」
「芝賢治」
「誰とはきいてない」
「それは、その……」
ぼくが言葉を見つけるまえに、後方戸口から葛󠄀城力のアバタづらが現れてしまった。矢嶋はすかさずウォークマン装着。シバケンの目つきが変わった。全部まかせろってシバケンはいったけど、具体的にどうするかはきかなかった。でも、少なくとも平和的な話しあいにはなるまいと思った。
「おい、ホクロ」
葛󠄀城がぼくの机を蹴った。こいつが何をやっても、クラスの連中は動じなくなっていた。たんなる日常の一コマだ。どうすべきか迷って、ぼくは席を立った。葛󠄀城の頬は新しいニキビでいっぱい。酸化した脂のニオイ。ぼくは鼻に皺を寄せた。
シバケンの右手が葛󠄀城の肩にかかった。ふりかえる葛󠄀城に、シバケンは無言で左肘を大きくひいた。葛󠄀城は腕をあげて防御姿勢。だが、それはフェイント。葛󠄀城の股間にめりこむシバケンの左膝、鈍い音。ぼくのタマも縮みあがった。葛󠄀城の口がOの字になった。声もだせないらしい。
シバケンは体重の乗った蹴りを葛󠄀城の膝にくらわせた。葛󠄀城が机にぶち当たる。榊言美と篠崎由江が悲鳴をあげる。沈黙が教室を支配した。葛󠄀城は横倒しになった。
シバケンの顔に感情は無い。シュート練習のように淡々と葛󠄀城の腹を蹴った。肉を打つ音、四分の三拍子。みんなは表情筋をこわばらせ二人の劇を見ていた。誰も動かない、声もあげない。
ぼくはシバケンの二の腕をつかんだ。「やりすぎだ」
「こんぐれえやんなきゃ、こいつはわかんねえ」
シバケンは片足を葛󠄀城の頭に乗せた。吸殻みたいに踏みにじる。
「こんなもんじゃねえよな、カツラギ、てめえがシュンタンやキタにしたこたぁよ。てめえは人をいたぶるのが楽しんだもんな。てめえはどおせ反省しねえし、同じことをまたやる。けどな、このガッコにいるあいだは、おれが許さねえ。てめえがこんど誰か痛めつけたら、おれが必ずやりかえしにいくかんな。わかったか。……おい、きこえてんのかよっ⁉︎」
シバケンは葛󠄀城のすねを蹴った。横たわった背中が震える。シバケンは再び蹴った。
「立て!」
「そのくらいにしといたら?」矢嶋は腕組みして、ミツバチの巣箱めいた木製ロッカーの前。「シロートが腹なんか蹴って、ヘタすると内臓破裂で死ぬよ。人殺しになりたいなら、べつにいいけど」
険悪になるシバケンの顔つき。「おめえ、こんなやつんことかばうくせに、なんでキタを助けねえ?」
「かばっちゃいない」イヤパッドを押さえる矢嶋。「さっきからうるさいんだよ。バルトォクのNo .4 が台なしだ」
「おめえはダチなのに、どおしてキタを助けてやんねんだってきいてんだよっ⁉︎」
シバケンの怒りの矛先は、二年F組一の問題児へと逸れてしまった。矢嶋の気どった態度は人の癇 に障るのだ。いや、こいつはダチなんてもんじゃ断じてないんだ、ってぼくはいおうとした。それより先に矢嶋が口をひらく。
「助けてってそいつがいわないからだ。助けられたがってないやつに手を貸すほど、おれはヒマじゃない。こいつがおまえにいったのか、助けてくれって?」
シバケンは黙って大きく息をした。矢嶋は皮肉な笑みを浮かべた。
「そういうのをオセッカイっていうんだよ、Mr.ヒィロゥ」
「助けが必要なことぐらい、見りゃわかんだろがっ」シバケンは矢嶋の襟をつかんで前後に揺さぶった。「助けてっつわれなきゃ、てめえは溺れて死にそうなやつほっとくのかよ。それじゃ、それこそ人殺しだろっ」
窓ガラスが割れんばかりの迫力。みんなが不安げに視線を交わす。ぼくはバカみたいに立ちつくしてた。矢嶋の表情は変わらない。頬がほんのり紅潮してるだけ。矢嶋を睨んだままシバケンは吠える。
「見てるおめえらもだよっ! ぜーいん、人殺しの、腰抜けの、卑怯モンだよっ」
矢嶋は橄欖 色の麻シャツと象牙色 のチノパン、いつかの腕相撲勝負の日と同じコーディネイト。肩は百科事典の厚さ、腰の位置がぐっと高い。ファッションモデルとしてなら有利だろうが、格闘家としては不利だ。重心が高いほど倒されやすい。
XLのアロハシャツに際立つシバケンの細さ。しかし、その腕はしなやかな筋肉に覆われている。喧嘩の場数ならシバケンのほうが踏んでいるはず。
どうなる、この勝負? 誰もが固唾を飲んで見守った。
が、こいつらのガチンコは、ぼくの望むところじゃなかった。TBSのファイトクラブじゃあるまいし。あの番組、大っ嫌い。ぼくはふたりに割ってはいった。
矢嶋のグラヴみたいな手が、ぼくらを張り飛ばす。シバケンは腿を机にぶつけた。ぼくは尻もちをついた。そこから、ぼくは仰ぎ見た。
矢嶋が跳んだ、ピーター・パンみたいに。
空中の矢嶋は脚を鞭のごとく振るう。小気味よい音。その三〇センチの上履きの足の甲が捉えたのは、ゾンビさながら復活した葛󠄀城の横っつら。葛󠄀城の手から飛ぶカッターナイフの光。ボーリングさながら葛󠄀城が机の整列を薙ぎ倒す。ぴくりとも動かなくなる葛󠄀城、白目。
啞然・呆然・愕然のその他大勢。ぼくもシバケンも言葉がなかった。一人すかしたポーカーフェイスの矢嶋。
「Are you satisfied, Mr.Hero? 敵に後ろをとらせるなんて、まだまだだな。もうちょいで、こうだ」
矢嶋は太い親指で喉を掻っ切るジェスチャー。こわばるシバケンの頬。床のカッターの刃に錆。そこへ遅れ馳せした超うざい小ウザイ先生の美声。
「誰だぁーっ⁉︎」
「はぁーい。ぜぇーんぶ、おれがやりましたぁー。すぅーいませんしたぁー」左手を振ってシバケンはちゃかすみたいに告げた。そして矢嶋にささやく。「……そのくらい、おれにかっこつけさせろよな」
肩をすくめる矢嶋。お好きにどうぞ、ってところかな。
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青い血の漲る管をぶった切りコンクリートを花園にする
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生徒指導室のパイプ椅子に、もういっぺん座るはめになった。人生って、わからないもんだよな。オイスターホワイトの壁をシバケンが指差してノックしてみせた。音が立たない。プライヴァシー保護のためか防音壁なのだ。さすがヤンキー、指導室慣れしてる。
ロングテーブルごしに、葛󠄀城と小ウザイ。ティッシュの鼻栓二つの葛󠄀城のいいぶんは、こう。休み時間に遊んでいたら、いきなりコイツにタマを蹴られてボコボコにされた、自分は悪くない。最後以外は、まあ、あながち噓でもない。一方、シバケンは頑なに黙りこくっていた。このままじゃ、こいつだけが悪者にされてしまう。ついてきて正解だった。
「葛󠄀城はおれをいじめてた。芝はおれを助けてくれようとして、こんなことしたんだ」
「ほんとうか、葛󠄀城?」
小ウザイはもったいぶった声をあげた。しらじらしい。
「はぁ? あにいってんの、おまえアタマおかしんじゃねえの?」
葛󠄀城はあくまでしらばっくれる肚らしい。どこまで性根が腐ってんだ。
「人に裸になれって強要したり、休み時間のたび押しかけて悪口いったり、プールに沈めたり、脚をこんなになるまで蹴ったりすることが、いじめじゃないって?」ぼくは片足を椅子に乗せてズボンの裾をまくった。痣だらけのすね。「ほら、これが証拠だ」
「おれがやったなんて証拠ねえんだよ、バーカ。自分でコケたんだろ」
おまけに葛󠄀城から悪臭がしてしょうがなかった。ちゃんと風呂はいってんのか、こいつ。
「目撃者は大勢いるんだよ。しらを切れると思うな」ぼくはテーブルに叩きつけた。段ボールの荷ほどきに使うような武骨なカッターナイフだ。「こいつはこんなもんを振り回した。殺人未遂だ。そうでしょ、先生?」
小ウザイは頭痛の予感を鎮めるようにこめかみを押さえた。面倒事になったと思ってるにちがいない。「それがほんとうなら、E組の柳沢先生と話をしなきゃならん。今回のことは、親御さんにも連絡する。とくに芝、先に手をだしたのは、おまえなんだろう?」
シバケンは初めて口をひらいた。「ちげえよ。カツラギが先にキタに手ぇだしたんだ。キタは偉えよ、そんなにされても黙って耐えてたんだから。それにつけこんでコイツは、ずーっとキタを苦しめてた。おれを処罰すんのは、べつにかまわねえよ。その代わり、このクソ野郎のことも、きちんとケジメつけろよな。それがスジってもんだろ」
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ポケットに闇を拡げて少年は罪と罰など買うことはない
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薄曇りの空からヒィーヨヒィーヨヒィーと鵯の悲鳴がした。秋だ。
「三日の停学だってよ。また自宅謹慎」
シバケンはいった。例の亭のある公園の狭い木製ベンチ。シバケンが一〇〇度くらい開脚しているせいで腿が腿にくっついてる。スクールズボンごしのぬくもり。初秋の午後の光のなか、やつの肘のガーゼが白くて目に痛い。
「まあ、秋休みだって。気にすんなよ」
「気にするよ」
「断言すっけど、あいつコリてねえぞ。こんどは、おれんとこ通いつめるかもな」シバケンは八重歯を剝きだした。「そしたら、また同じ目にあわせてやる。あのバカがわかるまで」
こいつが葛󠄀城を蹴っていたときの冷たい横顔を思いだしていた。ぼくは拳を膝に押しつけて、甃 を睨んだ。
「暴力によって得た勝利は敗北に等しい。一瞬でしかないのだから」
「あ?」
「ガンジーの言葉だ」
「ガンヂーぢいちゃん。おれ、あの人すきよ」シバケンは頬笑んだ。「わたしは自衛におけるそれを暴力と呼ばない。知性と呼ぶ」
「え?」
「マルコムっつう黒人のオッサンの言葉。おれはマルコムおぢさんにサンセー。ガンヂーを気どんのはいいけど、ああゆうやつぁアイツ一人じゃねんだよ。いつの時代にも、どこの国にも、ああゆうのはたくさん生まれてくんだ。工場の欠陥品みてえにさ。キタはこれから何人ものカツラギチカラに出会う。今のままじゃキタはいつか潰される」
シバケンのいうことは、たぶん正しい。でも、納得はできなかった。
「イイヤツになろうとすんな。もっとズルくなれ。テメエのことだけかんがえろ。自分が悪いんだなんてぜってえおもうな。そうおもわせるのが、あいつらの手だ。おれができるアドバイスは、そんだけ。わかった?」
シバケンの骨張った手が、ぼくの髪をくしゃくしゃにした。自分でやると落ちつくけれど、人にされると尻の据わりが悪くなる感じ。ぼくはさりげなくその手をはずしつついう。
「どうしてあそこにいたの」
「あそこ?」
「おれが屋上にいたとき。校庭から、おれを見つけたわけじゃないだろ」
シバケンは左手を見つめて黙ってしまう。いいにくいのだろうか。ぼくは急かす気はなかった。いちめんに薄く細かな層状雲。まだらな空の青さ。
「死にそうなやつがわかんだ、おれは」
「え?」
シバケンは相変わらず左手を見つめている。「もうすぐ死ぬやつぁ、おれには真っ黒な煙につつまれて見える。廊下で見かけたとき、キタの後ろ姿が薄っ黒かったんだ。だから心配んなって学校じゅう探しまわった。なあ、おれのゆうこと信じる?」
なんといっていいのか、わからなかった。事実とはすんなり信じがたい。つくり話にしてはあまりに突拍子もない。シバケンは手をおろして前を向いた。
「屋上のへりに立ってたとき、キタの腰から上は、もう火事みてえだった。顔もわかんねえくれえだった。煙ってゆうより黒い炎に見えたな。こわかったよ。むちゃくちゃ、こわかった。でも、ぜってえ連れていかせねえっておもった。その煙のなかから、キタの右手だけがでてた。だから、助けられるっておもった。コッチつれもどしてしゃべってるうちに、煙はだんだん薄くなって消えた」
「今は?」
「あ?」
「今は、おれに、その煙は見える?」
シバケンは穏やかな目で首を振った。「このこと人にハナしたの、これが初めてなんだ。たぶん、信じちゃもらえねえだろうし、信じたとしてもブキミがられるだけだろうし」
「その煙、いつから見えてたの」
シバケンはまた、しばし黙った。記憶を手繰り戻すように。「最初は幼稚園の年長さんだった。五才か六才。近所の夫婦のおぢさんとおばさんがさ、子供がいなかったからかな、おれんこと、よくかわいがってくれてた。ケンちゃん、ケンちゃん、ってさ。その日も空き地でひとりで遊んでたら、おぢさんが帰ってきて、ケンちゃーんて呼んだ。そっち見たら、おぢさんから黒いモンがでてた。かげろうみてえに全身からユラユラユラって。ものすごくこわくて、おれは逃げだした。その次の日にオフクロからきいた。あの奥村 のおぢさん、きのうの夕方に亡くなったのよ、ダイドーミャクカイリって病気で、って。おれが煙を見た、すぐあとだった。おれは逃げちゃったこと、すげえ後悔したよ。おぢさん、さみしかったろうなって。お葬式んときのおばさん、二、三日でもうゲッソリしちゃって、涙もでないって顔で、見てらんなかった。おばさんは、どっかへ引っ越してっちゃった。
二度目は、小三んときだった。そんときの担任が、ものすごくイヤなやつだった。おベンキョできるやつばっかひいきして、おれみたいなオチコボレのことはミソッカスあつかい。そいつがおれを気にかけるのは、おれが宿題やってこなかったり、クラスのやつ殴って泣かしたときだけ。おれを立たせて、授業つぶして、ずーっとお説教。見せしめだよ。あとは、何かモノがなくなったりしたとき。社会科見学いくために集金されたんだけど、そのカネがなくなったことがあったんだ。あの女、ハナっから犯人がおれだって決めてかかったような態度でさ。おれんちがビンボーだからって。結局、そのカネは持ってきたやつのカンちがいで、そいつのランドセルんなかにちゃんとあったんだ。それでも、その担任は、おれにひとっことも謝んなかった。マヂで死にゃいいのにって、ずっとおもってた。そんときも、おれはお説教されてた。理由は忘れた。おれはほとんどきき流してた。ボーッとしてたら、担任の下腹にモヤモヤって黒いもんが見えた。おれの目のせいかとおもってコスってみたけど、やっぱり見えた。おぢさんのことおもいだした。その煙がだんだん濃くなってって、急に担任の顔色が悪くなってきた。担任は腹おさえてヘタりこんだ。大騒ぎんなった。しばらくしてキューキュー車が来て、担任は運ばれてった。あの女、妊娠してたんだ。まだ二ヶ月だった。お腹の子、助かんなかったって。それで、わかったんだ。そっか、そおゆうことなんだ、って」
沈黙。夏の日焼けを残した肌を、涼しい風が撫でていった。額をくすぐる前髪。ぼくは何もいわなかった。どんな言葉も無駄な気がした。ぼくらはニワトコの低木のむこうを、ここではない遠くを見ていた。
「今もときどき街で見かけるんだ、あの黒い煙。あゝ、あの人、もお死んじゃうんだっておもって、おれはとおりすぎるだけ」
「教えてやらないの?」
「信じないよ。それに人はいつか死ぬ」
あなたはもうすぐ死ぬ……だなんて見ず知らずの中学生にいわれたって、たしかに誰も信じまい。腹を立てるか、気味悪がるのが関の山。どうにもできないのに、そんな黒い煙が人に見えてしまうとしたら、ぼくだったら耐えられるだろうか。
「自分が死ぬときも見えんのかな、あの煙。まわりが真っ黒んなんのかな。だとしたら、こええよ。死ぬことよりも、それが見えちゃうことのほが、ずっとこええんだよ」
ぼくは身震いして、自分の二の腕を両手でさすった。
「どおした」
「その話きいたら、おれもこわくなった」
シバケンは頬笑んだ。三和音の着メロが響いた。きみを守るために生まれてきた……ってラヴソングはSMAP。ケータイがぱこっとひらく。
「あいよ、了解」シバケンはたった二語で通話を終え、大輪の向日葵のように笑った。「おれ、これからヨイチと名古屋いってくんわ」
「名古屋ぁ」ぼくの声は裏返った。「愛知の?」
「そ。デンシャ乗りついでさ」シバケンはピースサイン。「パチンコ長者んなって帰 ってくっから。そしたら、なんかおごってやんよ」
「自宅謹慎は?」
「誰が守んだよ、そんなもん」
あきれた。シバケンは唇の端を吊りあげた。
「ま、キタはイイコだもんな」
穏やかな光と風のなかを、青い背中が裾をなびかせてゆく。不意にさみしくなって、ぼくは立ちあがった。
「芝ぁ」
逆光のシバケンはひらひら手を振った。そして道を曲がって見えなくなった。ぼくは立ちつくしていた。別れたばかりなのに、あいつとまたしゃべりたくてたまらなかった。
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でも、停学期間の三日間をすぎても、シバケンはなかなか帰ってこなかった。あいつがいないあいだ、ジョージ・ウィンストン《ロンギング/ラヴ》ばかりきいていた。
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空約束かもしれないな からめあう指のながさがどうにもちがう
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土曜の午後の生徒指導室は満席。ロングテーブルを囲む男六人、E組担任の柳沢享ご教授先生(ウィンドブレーカー)・F組担任の小ウザイ(ジャージ)・ぼく(ブレザー)と父(スーツ)・葛󠄀城(ワイシャツ)とその父親(トレーナー)。むさくるしい絵づらだ。ご教授が気の弱い声をだす。
「ですから、葛󠄀城さん、力くんの態度は普段から目に余るものがありまして、担任のわたしも手を焼いているんです。まだ本格的な調査したわけではありませんが、力くんの竜也くんへのたびかさなる暴力行為は何人かの子が証言しています。こういう難しい問題の解決には保護者と教員の連携が欠かせません。これから、われわれと話しあいを重ねて……」
「そんなことだったのか」葛󠄀城の父親は黄色く濁った目を剝いた。「学校でいじめがあるなんてあたりまえのことだ。いじめられるような弱いやつに問題がある。学校でのことは教師の管轄だろ。なんでおれが呼びだされなきゃならない。きょう店をあけられなかったぶんのカネは補償してもらえるんだろうな?」
啞然。この男の辞書に責任や反省という言葉はないようだ。この親にしてこの子あり。葛󠄀城はふてくされたふうにどこかを睨んでる。相変わらずの不潔なにおいが鼻をついた。やつのワイシャツの胸に、いつかも見た憶えのあるシミ。国語教師と体育教師は困惑顔を見あわせた。ぼくの父の厳しい横顔。
「わたしの息子は弱くない。息子はあなたの子の攻撃から友達を守ったんだ。この子はわたしを心配させまいと孤りで闘ってた。あなたの子は息子を罵倒し、授業を受けるのを妨害し、アザができるほど脚を蹴った。おまけに刃物まで持ちだしたそうだな。それで悪びれない、謝ろうともしない。そんな人間らしい温かみのない子供を育てたのは、あなただ。その子はまだ十三、四だろう。あなたが責任を持つべきだ。その子はずいぶんな格好をしてるじゃないか。ちゃんと食べさせてるのか?」
葛󠄀城ががさがさの唇を曲げた。「うっせーよ、オッサン。自分ちだって女房に逃げられてるくせにエラそうなこといってんじゃねえ」
葛󠄀城の父親が息子を張り飛ばした。爆 ぜるような鋭い音。ぼくは息を飲んだ。葛󠄀城は頬を押さえてきつい目をする。父親の顔つきはイグアナみたいに冷たかった。
「この恥さらしが。もっとかわいい子供らしい口でも利いたらどうだ」
「クソジジイ。おめえこそ親らしい口きいたことあんのか。あんな汚え店ツブれりゃいいんだ」
葛󠄀城は父親の肩に拳を振るった。父親はさらに殴りかえす。
「おれの店のおかげで食わしてもらってんだろが。このノータリンのクソガキが」
「ノータリンの子はノータリンに決まってんだろ」
「意気がりやがって。おまえがそんなだから悦子も帰ってこないんだ」
「おれのせいにすんじゃねえ。てめえがワリいんじゃねえか」
座ったままの殴りあいはドラミングのように激しくなる。ぼくの父が肩を抱きかかえて、ぼくを強引にひきずってテーブルを離れた。そんな過保護なことをされると思ってなかった。ぼくの身長はもう、あと十数センチで父に届こうとしているのに。やつらに父は険しい目を向けた。ご教授と小ウザイが必死で親子を止めにはいる。この親子はずっと憎みあい、いがみあって暮らしてきたのだろう。その寒ざむしい家庭を思った。でて行きたくなった母親の気持ちがわからなくなかった。
ぼくと父はおたがいの顔を見た。これじゃ話しあいなんて成立しそうにない。
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怒り狂ったチンパンジー親子が息切れしておとなしくなったころ、小ウザイが親チンパンジーに切りだした。
「とにかくですね、学校側としては現状を見過ごすわけにはいかんのですよ。息子さんが今の態度と行動を改めないかぎり、あなたにも何度も学校に足を運んでもらうことになりますよ。それでもいいんですか?」
葛󠄀城の父親はうるさそうに鼻を鳴らした。「なら学校に来させない。それで文句ないだろう。こいつに勉強なんか無駄だからな。十五になったら、すぐ働いてもらう。いままでの恩は返してもらうぞ」
息子に対する愛情も配慮も、まるでない。てめえの都合だけ。葛󠄀城はそれが当然みたいに黙っていた。ぼくは初めて、この男子が気の毒になった。話はすんだとばかり父親は立ちあがった。どうしてもカネはでないのか? と教師たちを困らせてから、指導室の扉へ向かう。葛󠄀城はだるそうに背中を丸めて父親に続く。何か言葉をかけてやらなくちゃ、と思った。痩せこけた後ろ姿に呼びかける。
「葛󠄀城」
あいつは射るようにぼくを見た。その目に憎悪。そして、悲寥 。鉄の扉が重たい音を立てて遮る。ぼくは扉の無表情なベージュを見つめつづけた。
それが葛󠄀城力を見た最後だった。
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九月が終わった。葛󠄀城が転校したという噂をきいた。あいつは新しい学校でまた誰かを苦しめるのだろうか。ぼくの気持ちは秋雨前線の空のように晴れなかった。
♂
列島の残暑に雨の幕を引く前線よ死は滞りなく
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いつもどおり登校してきたら、ぼくの机にビックルの壜 、エノコログサ二本。ぼくは後ろの席の男にいう。
「なんじゃこりゃ?」
矢嶋は肩をすくめた。「おれが来たときにはあった」
壜はラベルが剝げて、草の活けかたは雑。悪意のしわざだ。机の列のむこうで河合一派がこっちをうかがってる。やっぱりな。葬式ごっこなんて使い古された手だよな。ぼくは顔色を変えずにバッグを置いて教室をでた。
学校の裏手でセイタカアワダチソウをしこたま摘んだ。教室でその黄色い花を壜に活けた。燃えながらに静止した手持ち花火みたい。ぼくは矢嶋に見せびらかした。
「どうだ、きれいだろ」
矢嶋はあきれ顔。河合省磨は不満げ。菊池雪央は小さく笑ってた。ぼくは窓をあけ放つ。秋の薄曇りの朝はシベリウスのピアノ曲みたいな透明感だ。
その一日、十月の風がぼくの机のキク科の花を揺らしていた。
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