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十五哩(Stand by Me Quartetto)
秋の紺碧から戦闘機の轟音。機影は無い。音のみがそこを飛んでいる。音速を超えるストライクイーグルは、その遥か先の空を突き進んでいた。理屈はわかるけれど、やっぱり不思議な光景だ。
中間試験明けの木曜日、ぼくは公園のいつものベンチのうえ。今週から象牙色のヴェストを重ねてる。朝夕はめっきり冷えこむようになった。真昼の今も南のそよ風は涼やか。左イヤホンからシプリアン・カツァリスの弾くリスト《メフィスト・ワルツ第一番――村の居酒屋での踊り》。管弦楽版も有名だけど、ぼくはもったいぶらないピアノ版が好き。居酒屋でのメフィストフェレスの大立ち回りの第一主題。悪魔の奏でる、ワルツよりかスケルツォに近いそれを、カツァリスは絶妙にアクセントをつけたり自在にテンポを揺らしたりして自分のものにしてしまってる。このおっさん、最高だな。
「なんで一コしかやんねえの?」
背もたれ側からシバケンの金髪イガグリ。ミッドナイトブルーの長袖Tシャツに羽織った定番のアロハシャツ。やつは自分の左耳を指差す、鋲の尖ったフープピアス。ぼくはイヤホンを押さえる。
「片方ずつ使えば聴覚機能が長持ちすんだろ」
「なるほど」
ぼくの隣に清水俊太のふさふさ坊ちゃん刈り。着こんだダックブルーのブレザー、手に大判の漫画本。しりあがり寿の弥次さん喜多さんの物語。シバケンが覗きこむ。
「変な絵」
清水は鼻を鳴らした。「ガキにゃわかんないね、この渋さは」
「同い年じゃん」
「十月うまれだろ。ぼくは五月だ」
葛󠄀城力を暴行 ったときにシバケンが清水の名前をだしたのがよかったみたい。清水はシバケンと口を利くようになった。この二人は幼稚園のアンパンマンバスに乗っていたころからのつきあいらしい。芝賢治を最初にシバケンと略したのも清水なんだそう。
六角形ルーフの亭 に矢嶋健。皇帝緑 のラギットストリームショートが、夏のなごりの帰化植物のよう。白シャツにココナツボタンの青鈍色のカーディガン・淡い藍のルーズストレートジーンズ・ぴかぴかのヴァンプローファー。インテリ青年風。矢嶋は村上春樹にハマってる。世界の終りと固ゆでタマゴがなんとかってやつ。ページを行ったり戻ったり苦戦してる様子。日本語は読むのに時間がかかるんだとか。
シバケンは秋の蝶々みたいにシャツをはためかせ、矢嶋の隣に開脚一三〇度で座った。そのページを覗きこんでシバケンは、嫌いな顔でも見たように眉間を皺にした。
「おまえ、よくそんな字ぃばっかの本よんでられんなぁ」
矢嶋はシバケンを一瞥し、すぐ活字を貪りはじめる。シバケンはいう。
「何がいいの、そんなの?」
矢嶋はページから目を離さない。「ほんものの知恵を学べる。いい本には書いたやつの人生のエッセンスがはいってる、たっぷり凝縮されて」
「ほお」感心顔のシバケン。「でもよ、てめえでじかに体験したほが楽しくねえ?」
「自分の経験でしか学べないやつはバカだ」
「なんでよ?」
「いちいち自分で経験していたら、そのあいだに人生が終わっちまう」
「それはそうだな」
「そのバカな他人の経験から学ぶほうが、ずっと手っとり早い」
矢嶋はシバケンを見やる。にやりとするシバケン。
「なにげに喧嘩うってんべ?」
「買うか?」
「じゃ、買ってやる」シバケンは身を乗りだし、膝を打つ。「おめえはそのバカな他人のセックスのハナシきいただけで、イけるか?」
矢嶋はぽかんと口をあけた。シバケンはニヒルに唇をゆがめる。
「てめえでやってみてえっておもわねえの?」
何も反論できない矢嶋。シバケンは中指をおっ立てた。
「このドーテーが」
矢嶋は頬をピンクに染めてページへうつむいた。ぼくのイヤホンから森でのファウストとヒロインの逢瀬の第二主題。ぼくと清水は大うけした。あの皇帝さまを恥じいらせるとは。さっすが経験者、貫禄と説得力がちがう。
♂
伸び悩む飛行機雲の下 僕が生きているのは青春らしい
♂
予鈴が鳴ったら速攻で帰らなきゃいけない。公園から教室まで急いで五分。中庭中央に煉瓦の花壇に囲われたシロツメクサの緑地、右近中学校の名にちなんだヤマトタチバナが植わってる(右近の橘/左近の桜ってね)。矢嶋が個人的に公然の 秘密の園 と呼んだので、ぼくもそれにならっていた。ぼくら四人組は消火栓の蓋と浅蘇芳色の化粧ブロックを踏んで、その緑地をかすめた。
北校舎裏手から、見おぼえあるリーゼントヘア二人組、般若と鷹だ。黒のダボシャツの般若はバットを担いでいて、白のダボシャツの鷹はボールとグラヴを持っていた。ボンタンをゆったりと波打たせて向かってくる。むこうも睨みを利かせてきた。やつら二人組と、ぼくら四人組の軌道は直角に交わった。衝突地点で一斉に止まる靴一ダース。矢嶋の頬が厳しくひきつってる。シバケンは無表情に直立不動。清水が不安げに全員を見回す。ぼくの心臓が肋骨の檻から逃げだしたそうに暴れていた。左イヤホンから《メフィスト・ワルツ第二番》の悪魔の音程 。
「まだフザケた頭してやがんのかよ、メリケン野郎。おれはさんざん警告したよな。バカは死ななきゃ治らねえみてえだな」
茶髪リーゼントの庇を整えつつ般若がいった。おまえの頭だって負けずにふざけてるだろ、と思った。矢嶋の鋼色 の三白眼が細くなる。
「アホみたいにスゴんで威勢いいこといえば、ハイソウデスカってきくと思ったわけ? そのほうがバカなんじゃないの」
やばそうな上級生相手でも矢嶋の生意気さは鈍らなかった。ぼくは矢嶋をぶん殴りたくなる。般若が金属バットで地面をぶっ叩いた。
「ほざいてんじゃねえ。こんどはテメエんちのガラス割りに行くぞ、コラ」
鷹が喉をくつくつ鳴らしてボールをグラヴに叩きこむ。ぼくはぴんと来た。そうか、四月に音楽室の窓を割ったのはこいつらだ。
清水がダッシュした。助けを呼ぼうとしたのか、単純に逃げだしたかったのか。すかさずシバケンが追いかけて、清水をひょいと羽交い絞め。清水はハムスターみたいに手足をばたつかせた。シバケンはいう。
「シュンタン。だめよ、人の喧嘩に水さすようなコトしちゃ」
戦闘機の轟音が本鈴を掻き消すように降ってきた。北校舎の裏手は立入禁止の非常階段と、波板屋根の廃棄物置場があるばかりの場所。埃っぽいアスファルト、ぼくら四人を挟んで立つ般若と鷹。グラヴとボールを捨てる鷹、その掌を反対の拳で殴る。般若がバットを振る。ぼうんっ、十月の澄明な空気が鈍く鳴った。迫力。清水の脚が震えてた。さすがの矢嶋も顔が青い。ぼくはいぶかしく思った。シバケンは左手で右肩をつかんで薄笑い。この場の誰よりも落ちつき払って見えた。シバケンがハスキーヴォイスを張る。
「メンドいのはナシにしましょおよ。ちょおど三対三じゃないすか」
その場の十本の視線がシバケンに刺さった。こいつ、寝返ったか。ぼくと目線が合うとシバケンは、両目をつむってしまう不器用なウインク。般若が冷淡にいう。
「おまえ、芝の弟だべ。族 の仲間だろ」
シバケンの頬がこわばった。「走りに参加したのは二、三回っすよ。幽霊部員みたいなモンっす。メグさんとユーヒさんのコトはよーく知ってますし、センパイとしてソンケーしてます。手伝わしてくださいよ。タイマンの三番勝負、得物なしのガチンコで、最後に立ってたほうが勝ち。負けたほうは二度と文句はいわない、逆らわない。それでどおっすか?」
シバケンと般若は十秒たっぷり見あった。意外と整った歯を見せる般若、ボンタンのポケットから黒いものをとりだす。スタンガンかと思った。バリカンだ。どうしてそんなもん持ち歩いてんだ?
「そうだな。負けたほうはついでに、その場で丸ボウズってなどうだ?」
「待ってくださいよ」と清水。「ぼくと北浦は関係ないじゃないですか。なんで殴られたうえにハゲんなんなきゃなんないんです」
「おまえはな、おチビちゃん。そのナイキは無関係じゃねんだよ、なあ?」
般若がいった。ぼくの靴は腐ったナイキ。ぼくは唇を嚙んだ。去年の終り、ぼくがこいつらの喧嘩の仲裁にはいって、矢嶋を逃がしたのは事実だ。矢嶋は友達じゃないし、こんなやつどうなってもいいんだ、ってほんとうはいいたかった。きっと見苦しいから黙ってたけど。シバケンがいう。
「さっそく行きますか。じゃ、おれはキタと……」
般若は鼻を鳴らした。「そのメリケン野郎は、おれがやる。そのナイキはユーヒがやれ。そのチビはどうでもいい、おまえテキトーにやれ」
シバケンは途惑い気味にうなずく。「はい」
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十月の風を打つため振り抜いた 不良はホームランを知らない
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一回戦目、清水VSシバケン。
初めにシバケンが清水に耳打ちした。困惑顔の清水。二人は向かいあった。清水が歯を食いしばってかかってゆく。なんの構えもせず突っ立ってるシバケン。シバケンの股間を遠慮がちに蹴る清水。シバケンはスクールズボンの前を押さえて、しゃがみこんだ。大げさにうんうん唸ってみせる。清水はおどおどとシバケンと般若たちを見くらべた。明らかな八百長に苦笑の鷹。般若は表情を変えずにバリカンのスイッチをいれた。ヸヸヸヸヸヸヸヸヸィー……!
シバケンは正座で受けいれた。やつの五分刈りは一分刈りになった。
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二回戦目、ぼくVS鷹。
対戦まえにシバケンがささやいた。「テキトーなとこでギヴしとけ。髪ならすぐ生えてくっからさ」
黒髪リーゼントの鷹の背は高かった。体は筋肉がみっちりと詰まって横に広い。水木しげるの妖怪漫画のぬりかべみたい。押し潰されたくなかったので、ぼくは礼儀正しくいう。
「あの、ユーヒさん。おれ、ケンカって自信ないので、不戦敗ってことにしてもらうわけにいきませんか」
鷹は大きな唇を薄くひきのばす。
「だめ」
手招きしてくる。それでしかたなく、ぼくはへろへろの攻撃をしかけた。
三分後、ぼくは鼻血をだして大の字。背中に秋のアスファルトが心地よく冷たい。鷹は屈みこんで、ぼくにだけきこえる声量でいう。
「あのウソよかった」
「……え」
「まだ信じてっかも」鷹は般若のほうへ顎をしゃくる。「あれ怒らすと、こええぞ」
ぼくが何もいえずにいると、鷹は大きく笑った。
「ダチは大事にな」
般若がスイッチをいれて、ぼくへ近づいた。ヸヸヸヸヸヸヸヸヸィー……!
ぼくも正座した。十万本の髪が風に吹かれてアスファルトにばらばら散った。
♂
三回戦目、矢嶋VS般若。
ふたりは二メートルほど距離をあけて対峙した。般若は黒ダボシャツの袖を肘のあたりまでまくる。右の前腕に大きな手術痕。矢嶋はカーディガンを脱いだ。麻シャツの胸板がエアコンの室外機みたい。矢嶋はいう。
「おれの祖父は戦場 写真家 だった」
般若の顔に浮かぶ当惑。ネイヴィーのカーディガンが般若へ舞った。払いのける般若。矢嶋はもう目のまえに迫ってる。推定体重七十キロ超の体が時速三十五キロで衝突。般若はぶっ倒れた。
乗ろうとする矢嶋の腹を、蹴あげる般若のカンフーシューズ。しりぞく矢嶋。
般若がリスニング不能な奇声をあげて襲う。右フック。それを腕の一振りで往なして矢嶋は般若をひき寄せた。頭突き。般若の血が麻シャツを汚す。鼻のしたを赤く濡らした般若の目はぎらついてる。阿修羅の眷族。
般若は連続で左右の拳を繰りだす。何発目かの左フックが矢嶋の耳のあたりにヒット。こんどは矢嶋がダウン。般若は矢嶋の腹を蹴った。その右足を矢嶋がふん捕まえた。般若はふらついて横倒しになる。
二人はもつれるようにアスファルトを転がって転がって転がった。般若が上をとった。矢嶋の胸ぐらをつかんで、さっきの礼とばかり頭突きを見舞う。二発、三発、四発、五発……。
般若が息を切らして立ちあがった。矢嶋は横を向いて動かない。般若は鼻血を二の腕でぬぐって、鮮やかなグリーンの髪をつかんだ。バリカンのスイッチをいれてもみあ毛に当てた。ヸヸヸヸヸヸヸヸヸィー……!
般若の手首を威喝い掌がつかんだ。その握力に顔をしかめる般若。矢嶋は三白眼を剝いて唸る。
「……It's not over yet.」
バリカンのモーター音が急に小さくなって、途切れた。舌打ちする般若。
「ちっ、バッテリー切れしやがった」
矢嶋の右手はほどけない。般若の細い顎を矢嶋の左の掌底がぶちあげた。横ざまに転がる般若。バリカンは放さない。矢嶋はゆらりと立ちあがった。矢吹ジョーみたいに笑いながら。
♂
般若が右フックを打ったが、もうキレがなかった。矢嶋の頬をこするだけ。矢嶋の掌底が般若の顎に当たったが、こちらも威力がない。般若に上を向かせただけ。ふたりとも十二ラウンド目のボクサーみたいにボロボロだ。よろめいた般若の背中を、ぬりかべじみた鷹の胸が受けとめた。
「メグ」
鷹は目で矢嶋を制した。踏みこたえる矢嶋。般若は戦意を失ってない。鷹の腕を振りほどこうとする。
「引き分けだ」
鷹の断固とした声。般若の目の光が落ちた。鷹は般若の頭をいたわるふうに叩いた。そして般若の腕を自分の肩に回した。崩れたリーゼントの庇を整えて般若はいう。
「……このままじゃ、すまさねえかんな。おぼえとけよ」
矢嶋は黙っていた。ただ、ぶ厚い胸が大きく膨らんでは萎んだ。般若は鷹に支えられて年寄りのゾウガメほどの速度で去っていった。
矢嶋がくずおれたのは二人組の姿が見えなくなってから。
「バリカン目黒 とか、髪狩り目黒っていわれてんだぜ、あの人。オヤジさんが床屋でさ。チン毛刈られたセンパイもいるってよ。いやー、頭の毛だけでよかったわ。うっへっへー、キタと髪型がオソロだぁー」
パーフェクトな坊主頭のシバケンがいった。自身の頭とぼくの頭を交互に撫でてにこにこ。ぼくは泣きたかった。こんなアニメの一休さんみたいなってしまって、これからクラスの連中になんていわれるだろう。河合省磨が嬉々としておちょくってくる顔がリアルに浮かぶ。あゝ、教室に帰りたくねえ。
午後の北校舎の陰で車座になったぼくら四人に秋風。ぼくの髪の残骸が落葉樹の縁石に吹き溜まる。シバケンは人差指を立てる。
「おれのおかげで、最小限のダメージですんだじゃん。みんな、カンシャしろよ」
ぼくの鼻栓のティッシュが飛ぶ。「どこがっ」
「重傷だ」と片瞼を腫らした矢嶋。目のかたちが鮭の切り身みたい。「もっとマシな提案はなかったのか」
シバケンは睨む。「あのままバットでメッタ打ちのほがよかったか? おめえはアレ以上のアイディアだせたのかよ」
唯一、無傷の清水。「ぼくだけ味噌っかすで、つまんなかったな。みんなはカッコよくていいな」
清水のフサフサ頭を、ぼくは張っ倒した。なにすんのー、と涙目の清水。さらにその頭をぐりぐり押さえつける矢嶋。
「なんなら、おれが相手してやる。三分の一に縮められんのと、つづれ折りにされんのと、どっちがいい」
どっちもヤだー、と清水。ぼくは化繊のヴェストに刺さった細かい髪の毛をちまちまつまんだ。刈られた横頭を矢嶋は手で隠す。
「これからソッコーで美容室 いく。おまえ責任とって、おれのバッグ持ってこい」
「あゞ?」とシバケン。「おめえの子分じゃねえよ。おもいあがんな、ドーテー」
「Are you talkin' me ?」
「ぼくが行ってくるよ」清水が腰をあげて尻をはたく。「北浦もでしょ?」
「頼む」とぼく。
清水は小走りに校舎の壁のむこうへ。矢嶋はジッポーを手にした。クロームメッキ鏡面仕上げ。こいつってナルシストだからな。ライターに顔を映して憂鬱そうにする。傷よりも髪が気になるらしい。シバケンがいう。
「ソリコミっぽくてかっけえじゃんよ。堂々としてりゃキズも勲章だって」
「そうか?」と矢嶋。
「おまえはチョイ刈りだからいいよ」ぼくは僧侶めいた頭をこする。「おれなんか全刈りだぞ。おまえのせいだぞ。どうしてくれんだよ」
「なんで、おれのせいなんだ」
「そもそも去年だよ。あの昭和なリーゼンツに目ぇつけられるようなことしたんだべ? あんなとこでモタモタ捕まってるから、おれまで巻きこまれるハメになったんじゃん。ったく、あんとき助けなけりゃよかった」
矢嶋の腫れてない左目が睨む。「おまえが勝手にやったことだろ。悪いのはあいつらだ。あいつら、八つ当たりしてきたんだ。おれのサイフに円 がはいってなかったからって」
「ドル札かよ?」
「しょうがないだろ。クリスマスはヨォクヴィルに帰る予定だったんだ」
「ふん。ナッシュヴィルでもアルファヴィルでもすきな街に帰ってろよ。そのすかしたツラ見てっとムカついてしょうがねえや」
「じゃ、なんでおれにくっついてあの公園に来るんだよ」
「おれはあそこが気にいってんだ。おまえがいなくなりゃパーフェクトだっつうの」
「あそこはおれが先に見つけたんだぞ。いやならおまえがヨソ行け」
「おまえは縄張り意識の強いホームレスか。もういっそ二十四時間あそこの番してたらいいじゃん。お似あいだよ」
「なんだと、ハゲ」
「っんだよ、コラっ」
シバケンが声をあげて笑った。「こりゃ喧嘩するほど仲がいいってんだな」
「「よくねえよっ‼︎」」
ぼくと矢嶋の声がハモった。
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三人ぶんのバッグをかかえてきた清水がいう。「そういえばさ、まえに権藤さんがいってたお祭り、あさってからなんだって。行く?」
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剃髪の青き地帯に少年が見いだす遠い春の感覚
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保土ヶ谷宿場まつりは、毎年十月なかばに催される商店街のイヴェント。その二日間だけ、保土ヶ谷駅西口商店街宿場通りは歩行者天国になる。初日の土曜、駅前のマクドナルド脇に、ぼくと清水と矢嶋はいた。
ぼくは紫のニット帽でハゲ頭を隠して、サイケデリックカラーのボーダーシャツの腰に、薄鼠のパーカーを巻いてる。サンフランシスコジャイアンツの帽子の清水は空色のセーター、草色の七分丈パンツに厚底スニーカー。アシンメトリーに剃りこみをいれた矢嶋は伯林青 のTシャツに白シャツを羽織って、インディゴジーンズと白テニスシューズで決めてる。その爪先が四分の四拍子でいらいらと動いた。赤いJ-PHONEのサブウィンドウを一分おきにたしかめる。約束の時刻にシバケンは大幅に遅れていた。あいつの良くも悪くもいい加減なキャラを清水とぼくは承知してるけど、矢嶋は許せないみたい。矢嶋は大きな動作でふりかえる。
「あいつ、来ねえんじゃねえの。もう三人で遊んでようぜ」
「まあ、シバケンはぼくのケータイ知ってるからね。そうしようか」
清水がいった。ぼくはうなずいた。いらついてるやつがそばにいるのは気分がいいもんじゃない。
協賛の団体名いりの提灯が鈴なりの櫓。きょうの宿場通りは、平日朝の横須賀線の車内くらいの混み具合。広くない道の両脇にブルーシートが敷き詰められ、ところどころパイプテントが設営されてる。そこで橙色の法被の人たちが呼びこみをしたり、黙々と作業をこなしたり。この祭りの出店 に特別な資格はいらないんで、商人 も素人もいる。特設ステージでシルクハットの男が赤いスカーフを投げあげ、ステッキに変えた。拍手。木製の的に小学生がカラーボールをぶつけてハシャいでた。はい、五〇〇点! 醤油を網焼きグリルの玉蜀黍に塗りたくりつつ、高校生たちが首の手ぬぐいで汗をふいた。いかがですか、焼きたてですよ。あたりに香ばしいにおい。税務署の駐車場に集結した岩崎中学校吹奏楽部による、久石譲《海の見える街》。
矢嶋は日本の祭りが新鮮なんだろうか。いつになく好奇心むきだしのガキっぽい表情できょろきょろ。八月の膝栗毛以来、清水は写真が趣味になった。親戚一同からのお年玉をはたいたデジカメで、心のおもむくものを撮りまくってる。そんな二人を、ぼくはぼんやりと眺めた。二百メートル区間の人間の森。ここでしゃべったり笑ったり食べたりしてる人たちはみんな、百年後にはいない。なんだか深遠な気持ちになった。車線規制の終りの東海道踏切まで、ぼくらはひととおり冷やかして折り返してくる。
矢嶋の足が止まった。古物商か、古銭・煙管・根付・印籠・懐中時計・二眼レフカメラ……レトロな品ばかりが陳列されてる。恰幅のいいおじさんが番をしてた。矢嶋はしゃがみこんで根付を一個一個いちいち拾って観察。清水は二眼レフに興味津々。これを写してもいいですか? って交渉。ぼくは印籠を手にした。この紋所が目にはいらぬか! って無論、葵の御紋じゃないけど。きれいな紅葉の蒔絵だ。時代劇でよく見る家紋いりのやつはなし。まあ、よそんちの家紋なんかしょうがないもんな。ぼくは懐中時計に浮気。蓋ありタイプと蓋なしタイプの二種類。いかにもメッキって感じの金ピカのやつ、ごくシンプルで機能的なアラビア数字のやつ、ネックレス型の文字盤に石をちりばめたやつ――
ぼくははっとした。三十センチの頑丈そうなチェーン、その時計は直径四センチ。蓋なし。針は止まっていたが、ゼンマイの巻きが残ってたらしい、さわったら動きだした。裏表両面ガラス張りのスケルトン、地盤と歯車を囲むローマ数字の文字盤。機械部の明るい金色と、文字盤の暗い銀色の対比にため息がでる。ただ惜しむらくは、風防がⅦから中心へ向かって罅入ってること。まさに玉に瑕。おじさんが声をかけてくる。
「香港製だよ。きれいだろう。ゼンマイが見えるから、巻きすぎちゃって壊すこともないし。あんちゃんみたいな、ゼンマイ式に慣れてない若い子にもオススメ。傷モノだから、だいぶお安いよ。どう?」
欲しい! チェーンの値札は[×3000⇨2500]。ぼくの財布には千円札二枚と小銭がいっぱい。ぎりぎりで買える。あとの極貧生活さえ忍べば。でも、この罅。鳥の足のような枝分かれ。ひっかかるのはそこだった。
「いいなコレ、割れてさえなきゃ」
「どれ?」
寄せられた緑の頭。矢嶋も瞬間で気にいったらしい。目の光でわかる。ぼくの手から奪って、ためつすがめつする。十秒もそうしてから、矢嶋は尻からパイソンの長財布を抜いた。これください、っておじさんに告げる。即決。値札すら見ない。
「おまえの月の小遣いっていくらなの」
「基本給がユキチ三人で、あとは交渉次第」
豪勢な話。ぼくは漱石三人でカツカツの暮らしだってのに。それと同じ金額がおじさんに支払われる。お釣りが五百円。矢嶋は時計を手にご満悦。欲しいものを我慢するなんてこと、こいつはしないんだろうな。べつに羨ましくない、っていったら噓になる。けど、望むものがみんな手にはいっちゃったら、虚しくなったりしないのかな。威喝い手のなかの小さな時計。他人のものになってしまうと、なおさら魅力的に映った。
「そのヒビがおしいよな」
「何いってんだ。このヒビがいいんだろ」
矢嶋は太い指で竜頭をつまんで巻きあげた。時計をその左耳にあてがう。チクタクチクタク。うっとり。こいつって変わってるよな。
肩を背後から叩かれた。栗色のセミショートヘアがふちどったかわいい顔。だぼだぼの白のトレーナーの襟ぐりから黒いタンクトップの肩紐、その襟にひっかけた丸いサングラス。どこのギャルだ、逆ナンか? と思って、よく見たらシバケンだった。髪はカツラらしい。やつは薄茶の紙袋を抱いていた。袋から何かをつまんで、ぼくの口に突きつける。
「はい、あーん」
ためらいつつ、ぼくは口をあけた。砂糖のざらつく鈴カステラ。ぼくはもぐもぐという。
「遅えじゃん。何やってたんだよ」
「東口のバス停の上にチョーでかいゴリラのビニールの、中んはいれるトランポリンみたいなヤツがあって。アレってなんてゆうの?」
「バルーンドーム?」
「バルーンドーム! キタは物知りだな。そんなかでちっちゃい子らが、きゃあきゃあいって遊んでんのね。楽しそだなー、って覗いてたら、マッポに職質されたんだわ。学校ドコ? ってきかれて、クソ中 ですっつったら、すぐトイレ行ってきなさい! って。何いってんだって感じだったし。でさ、あっち側にもちょびっと店でてんの知ってる? カステラ屋あったから買ってみたんだけど、そこの兄ちゃんたら、おれんこと女だと思ったらしくて、やたらいっぱいオマケしてくれたんだわ。せっかくだから黙ってニコニコしてたけどさ。こんなに食えねえよ。手伝って」
そういってシバケンは他の三人の手に鈴カステラを盛った。あきれた。
「変なヅラかぶってんからだろ。何よ、それ」
ぼくはシバケンの頭からカツラを奪った。野球部みたいな一分刈りの頭があらわれる。そうなると、どこからどう見てもヤンチャ坊主だ。シバケンはニカッと八重歯を剝きだす。
「オフクロが劇団にいたころ使ったヤツだって。なんかオモシロそうだから持ってきた」
ぼくはカツラの内側の網目を検分した。シバケンは半笑いでいう。
「キタ。かぶってみ」
「えぇ?」
「ちょっとでいいから」
ぼくはしぶしぶニット帽を脱いだ。失くしてわかったんだが、髪の毛のない頭は軽くて肌寒かった。カツラを装着してみて、そのなつかしい重みにセンチメンタルな気分になってしまう。シバケンの口もとがゆるんだ。それをやつはあわてて手で隠す。シバケンは清水を見て、ぼくをつんつん指差した。あぁー……と清水がほうけたように口をあけて、いきなりシャッターを切った。フラッシュ! ぼくは立ちあがった。
「おい、なに撮ってんだよっ」
「うん。いいんじゃないかな、それ。ね?」
「うんうんうん」うなずくシバケン。矢嶋を見やる。「いいよな?」
矢嶋はなんだか困ったふうなまばたき。「おまえ……」
変な空気に耐えられなくなって、ぼくはカツラを投げ捨てた。
「ビミョーって感じの目ぇすんじゃねえ!」
ぼくの衝撃ヅラ画像をデジカメから削除するかしないか大騒ぎしながら、ぼくら四人組はゴリラウォッチングに東口へ。こっちにも商店街はあるものの、空き店舗ばかりで寂れてる。ぼくは東口行きのバスの終着点として利用するだけ。バスターミナル上の歩道橋の先のホワイトタイルの広場。古ぼけた巨大ゴリラは電動送風機にエアを送りこまれ常に揺らめきながらロッキーのポーズをしてた。その周辺で母親たちに見守られて就学前のガキンチョどもがポップコーンみたいにハジケてる。それをシバケンは幸せそうに眺めてた。
樹冠の葉を薄く色づかせた欅。植込みと一体の円形ベンチに、ぼくらは思いおもいに座った。カツラのシバケンがぶりっ子して手を振った。むこうの鈴カステラ屋台、店番のゴリラ系の兄ちゃんが手を振りかえした。平たい鼻のしたが伸びてる。ぼくらは忍び笑い。
「おまえ、イヌ飼ってんだろ?」西口で買ったイカ焼きを頬ばってシバケンがいった。「イヌ飼ってるヤツってイヌくせんだよな」
矢嶋は鼻を袖につけて納得いかない表情。「おまえの鼻がイヌ並みなんだろ」
「シバケンだからな。おめえはタバコなんか吸ってっから鼻が利かねんだ」
三白眼を剝く矢嶋。「おまえ、むしろイヌだろ」
「へへ、ジッポなんざ見せびらかしてりゃな。で、なに吸ってんのよ?」
矢嶋は答えず、ミリタリーポーチからタバコをとりだした。ぼくはなんとなくわかってたから驚かなかった。清水はぽかんとした。矢嶋は箱をとんとん叩いて一本を咥えると、白地に黒のドットの箱をシバケンによこした。シバケンは眉間を皺にした。
「けぇ。セヴンスターかよ。ラッキーストライクでも吸っとけよ、メリケンなんだからよ」
矢嶋は傷の残る顔で大きく笑った。咥えタバコに着火し、一セント硬貨がはいりそうな立派な鼻から煙を噴く。堂にいったしぐさ。吸いだしたのは昨日きょうじゃないんだろう。
「うるせえ。おまえこそシバケンなんだからドッグフゥード食っとけ。おれんちの、やろうか?」
「あゞん、おまえんちドコだよ。つれてけよ。食ってやっからよ」
「いったな。食えよ。絶対くえよ」
売り言葉に買い言葉。ぼくらは美立 橋 行きの相鉄バスの二人掛の座席に分かれて、矢嶋の住む町をめざした。通路を挟んでのガキ四人のおしゃべり大会に、シニアパスの年寄りたちは迷惑顔。まのびした女声アナウンス。お降りになるかたは座席付近のボタンを押してお知らせください、つぎは新桜ヶ丘第二、新桜ヶ丘第二でございます――
ぼくらは早押しクイズのように降車ボタンを叩く。ピンポーン!
♂
新桜ヶ丘は一、二車線が碁盤の目状に交差する閑静な住宅地。一軒家がつらなり、団地が建ちならび、コンビニやスーパーが点在する。歴史の資料集の、平安京の想像図を思いだす。矢嶋の白シャツの背中は直角のストリートを曲がっては進み、進んでは曲がる。ぼくと清水、シバケンはぞろぞろとついてゆく。矢嶋んちは三丁目だという。やがて矢嶋の白テニスシューズが止まった。
「ここだ」
ぼくら三人はアホみたいに口をあけた。二〇〇坪は軽くありそうな庭に、棟寄屋根のモダンな豪邸。河合んちの高級マンションなんかぜんぜん目じゃない。だいたい高級ったって僻地 の今井町じゃたかが知れてるのだ。
芝生の庭を囲む低い化粧煉瓦、槍立てみたいな鉄柵と鉄扉。先頭の矢嶋があけて、最後尾のぼくがしめた。ハナミズキの鮮やかな紅葉。刈りこまれた芝生の飛石を踏んで、ぼくらは玄関へ。ヨーロッパ風の玄関ポーチで矢嶋は鍵を鳴らした。鍵っ子?
樫のドアがひらくと、犬の声。天窓から自然光さす吹抜けのエントランスホール。オフホワイトの壁に大きな姿見。ワイドな両返し階段。無垢材のドアがたくさん、奥のひとつから大きな獣が現れる。狼かと思った。シベリアンハスキーの成犬だ。自力でノブを回したらしい。肩胛骨を盛りあげて駆けてきて、後ろ足で立ちあがった。でけえ。やつは矢嶋の胸に寄りかかり顔を舐めようとする。その鼻づらを押さえて矢嶋がいう。
「Don't kiss me, down!」
犬は腰を落とす。ふさふさの尾っぽがスクリューみたい。シバケンはびびり顔。
「なんだ、おめえの弟か?」
「みたいなもん。サー っていうんだ」
清水は胸のまえにデジカメを構える。「こいつ、撮っていい?」
「すきに」
ぼくはあっけにとられてた。「おまえって、いつもジャグジー入って、湯あがりはバスローブ羽織って、グラスのワインぐるぐるしたりする?」
矢嶋は苦笑。「うちのバスタァブは普通のだよ」
ぼくんちの倍のリビングルームも白が基調。南が一面ガラス戸。庭で色づいたハナミズキが鳴った。秋の昼さがりの陽が四角く射しこんだ。床は矢筈模様 。四六インチの大画面テレビ。食卓とソファーセット。広さのわりに家具の少ない空間だ。矢嶋以外のぼくら三人はロングソファーに身を寄せあった。天井がバカみたいに高い。シーリングファンつきのウッドシェードの照明器具。シバケンがぼやく。
「なんか、広すぎて落ちつかねえ」
「うん、ぼくも」
清水が同意した。ぼくだってそうだ。腹這いのシベリアンハスキー。アイスブルーの目、賢い横顔。サー、ってぼくは呼んだ。やつは穏やかに尾っぽを振って、ぼくの手を注意深く嗅いだ。犬は目がよくない。そのぶん嗅覚が発達している。人間の臭細胞は約五〇〇万個。犬のそれは約二億二〇〇〇万個、四十四倍だ。どんな感じだろう。たとえば何キロも先の海が蒸発するにおいや、DNAの同じ双子の兄弟の差も嗅ぎ分けられるんだろうか。サーは腰を落とした。ぼくはサーをハグした。上等のコートみたいな毛皮。獣のにおい。高い体温。せつなくなった。長いこと、ぼくはそうしていた。
ハグを解くと、サーはくるっと後ろを向いた。ふさふさの尾っぽでぼくの膝をはたく。尻を向けるのは犬の挨拶だ。ぼくはサーの腰を撫でて、頬をほころばせた。
「いい子だな、おまえ。飼い主とちがって」
シバケンがこっちを見てた。こわばった表情筋。
「もしかして、犬こわい?」
「いや」シバケンはそっぽを向いた。「あいつ、コーヒーいれてんな」
「うん、すごくいいにおいがするね」清水も団子っ鼻をひくひくさせる。
キッチンから矢嶋がワゴンを押してきた。切り分けられたケーキの皿と、湯気の立つカップ。リゾートホテルのルームサーヴィスみたい。三人は色めきたった。矢嶋はクールな給仕ってところ。そつのない動作。ケーキにてんこ盛りの苺・クランベリー・ブルーベリー・八朔・グレープフルーツ・白葡萄。濡れた宝石細工みたい。清水とシバケンはすぐにフォークで切り崩しにかかったが、ぼくはつくづく眺めてしまった。ノリタケのブルーソレンティーノ、白磁に青の釉薬の花。ミルクはついてない。砂糖壺もない。
「ミルクと砂糖は?」
「いいから、飲んでみろ」
むかいのソファーで矢嶋が顎をしゃくる。ぼくはカップの暗い水面を見つめる。
「なんかアブラ浮いてるけど、ちゃんと洗った?」
「バカ。カウフィーオイㇽだよ。豆が新鮮な証拠なんだ」
矢嶋はあきれ声。ぼくはおそるおそるすする。まろやかな苦みとフルーツに似た酸味がして、ふっと消えた。変な雑味がぜんぜんない。ぼくの知ってるコーヒーとは別物。
「おいしい」
「だろ? コロンビアのファティマ農園 の豆だ。ケィクもうまいぞ」
ぼくは花奢なフォークでケーキの鋭角をえぐった。生クリームの上品な甘さ。うまい、うまい、を連発する清水とシバケン。ぼくは矢嶋を見た。ケーキは三つしかなくて、矢嶋にはコーヒーだけ。ぼくら三人を眺めて満足げな顔。
「おまえは食わねえの?」
ぼくはきいた。矢嶋はすましてコーヒーをひとくち。
「それ、イヌ用ケィク。栄養満点、糖分ひかえめだ」
「「「えー!!!」」」
ぼくとシバケン、清水がいっせいに叫んだ。サーがびっくりして、いっぺん吠えた。歯列矯正器を輝かす矢嶋。
「そんなわけないだろ。甘さ控えめなのはほんとうだけどな」
もう一度、ぼくらは明るいホールへでた。矢嶋を先頭に四人と一匹はL字の階段をくだった。地下へ。
「AVルゥムがあるんだ」
矢嶋がいった。シバケンはうれしそうな顔。
「アダルト・ヴィデオ・ルーム?」
うしろで清水が噴きだした。矢嶋はあきれ顔で訂正する。
「アゥディオ・ヴィジアル・ルゥム。視聴覚室だよ」
「なんだ、ハナからそおゆえよ。おめえ、やっぱメリケンだな」
ぶつぶついうシバケン。学校の視聴覚室を、ぼくは思い浮かべた。
「スクリーンがあんの?」
「あゝ。ステロスピィカァズとインテグレイテドアンプリファイァもな。父の趣味なんだ」
別世界の話だ。地下の薄暗い廊下に、ダウンライトの白熱電球が暖かに点る。双子のドア。矢嶋は奥のドアをあけた。窓のない地下室は真っ暗。矢嶋が腕を闇へ突っこんだ。点灯。十帖ほどの広さ・白壁・板張りの床・天吊りのプロジェクター・壁のスクリーンは一〇〇インチくらい・小ぶりな箪笥サイズのスピーカー・リビングと同じロングソファーが一脚。とくに目を惹いたのは、壁一面を使った棚、ぎっしりと詰まったCD・LP・LD・VHS。壮観。シバケンがはしゃぐ。
「なあ、なあ、裏ビデオねえの?」
矢嶋はにやり。「また今度な。まだ、そこまでの仲じゃないだろ」
♂
薄闇の一〇〇インチスクリーンにオレゴン州の自然の風景が映しだされていた。線路を歩く少年四人組。細いゴシック体の字幕。それはホラー作家スティーヴン・キング原作の友情物語。でも、ホラー要素は四人組の旅の目的が死体探しってことだけ。抑圧・思いやり・スリル・怒り・笑い・涙・勇気・死・思い出……ぼくら平民三人は爽やかに感動した。皇帝さまはもう何回も見てるんだろう。スクリーンの映像よりも、ぼくらの反応でおもしろがっていた。サーは忠実な侍従のようにおとなしく控えていた。
エンディングでベン・E・キングの掠れ声が響くと、ぼくは憂鬱になった。現実を思いだしたんだ。ぼくのハゲた頭のことや、月曜日からの学校での生活のこと。河合省磨のことや、菊池雪央のこと。
「おまえ、なんでクソ中なんかに来てんの。これだけの設備つくるカネと、英語も日本語もぺらぺら話すアタマあるならさ、インターナショナルスクールにでも通えばいいのに」
ぼくはいった。その質問は、たぶん、他のふたりも感じていたことなのだ。それが証拠にシバケンも清水も矢嶋を見やった。グリーンの髪の皇帝さまは無表情にエンドロールを見つめていた。
「バカな生きかたをするって決めたから」
「どうして」
清水が当然の問い。矢嶋は頭んなかで文法を組み立てるみたいに黙った。
「わかってる。あんな軽犯罪のショゥケィスみたいな場所で、得るものなんかないかもしれない、それどころか大事なものを損なうかもしれないってさ。でも、親の決めたガッコでエスカレーター式に進級して、適当な大学を卒業して、父親の会社に勤めて、親の認めた相手と妥協の末に結婚して? そのどこに、おれの人生がある? 自分のことくらい、自分で選べなきゃ、自分の人生じゃないだろ」
いつかの矢嶋の演説を思いだす。「おまえの、おまえによる、おまえのための人生?」
「そのためのドロップアウトだよ。おれは、おれ自身を実験したいんだ。自分の力が、方法が、世間でどこまで通用するのか。夢があるんだ。おれが安全第一の退屈な人生を送ることを、両親に諦めてもらわなきゃならない。そのための意思表示をやってる最中なんだ」
「ようするに、ただの反抗期だろ」シバケンは醒めた声。「次期シャチョーのイス蹴って、叶えたいゴタイソーな夢って何」
矢嶋が怒るんじゃないかと思った。やつの三白眼は青空を隠した淡い雲のように光った。
「見る?」
〽ダーウィン、ダーウィン、ステイン、バイミー、ヲーヲーヲー……シバケンが呀鳴った。いい声なんだが、発音がテキトーすぎる。ぼくら四人はAVルームをでた。ほの明るい廊下に双子のドア。階段寄りのドアを忠犬サー公は前足でひっかく。そこにいいものがあるのを知ってるみたいに。矢嶋はあけてやる。その闇の奥へサー公がするりとはいってゆく。
点灯。隣の部屋と同じ広さ。鎮座した漆黒のグランドピアノ、クラシカルな彫刻入りのどっしりとした三本足。胸が高鳴った。他のものが目にはいらなくなる。ぼくはまっすぐ歩み寄った。鍵盤蓋に鍵はかかってなかった。金色の竪琴マークとSTEINWAY & SONS。三十六の黒鍵と五十二の白鍵がまばゆいばかり。ぼくは左端から手の甲を滑らせる。二七.五ヘルツから四一八六ヘルツまで。うん、ちゃんと調律されてる。シバケンがつまらなそうにいう。
「おまえの夢ってピアニストかよ?」
「ピアーノは趣味だよ。おれの本業は、こっち」
矢嶋はビルトインの棚から楽器ケースを持ちあげた。緋色の強化プラスチック、七十センチ程度の平たい涙型。ソファーに置いて、留具をはずしてゆく。なかのシルクのスカーフを剝ぐ。現れたのはヴァイオリンだ。初めてまのあたりにしたその楽器は、歳月を感じさせるくすんだ琥珀色をしていた。f字孔の切り口があんがい鋭い。その黒い楔形のネックを握って矢嶋は抱き起こす。
「おまえ、伴奏してくれるんだろ?」
めんくらった。何も考えちゃいなかったんだが、ぼくの行動はそんなふうに見えたろうか。矢嶋は顎にヴァイオリンを挟んで、弓を軽くひく。弦を二本ずつ鳴らして、黒檀のペグとテールピースをいじる。矢嶋の窮屈さのない背中が逆さのコントラバスみたい。
「見てないで準備しろよ」
ぼくも弾くことは決定事項らしい。ぼくの腕は改めて披露するほどのもんじゃない。音大出の母親に三歳から教えられたが、けちょんけちょんにけなされてめげた。今は気まぐれにさわるだけで、まともに練習していない。だいたい、他の楽器と合奏した経験もない。
でも、この美しいピアノとふれあうチャンスを蹴るなんて、もったいない。矢嶋に気にいられようがいられまいが、どっちでもいい。ぼくはピアノの前屋根をまくって、大屋根を腰をいれて持ちあげた。慎重に手を差しいれて突上棒をセットする。腕時計を前腕へずらす。椅子に座って位置を微調節。意味もなくニット帽をかぶりなおして、ボーダーシャツの裾をひっぱって皺を伸ばす。準備完了。
観覧席たるソファー、あぐらのシバケンはなんだか仏頂づら、清水はデジカメを構えてる。矢嶋はチューニングに満足したように弦をはじいた。その渦巻 がなめらかにほどけそうに感じた。あの神秘的なかたちの楽器は、どんな音楽を奏でるんだろう。
「なに弾くんだ」
鍵盤にふれて、ぼくは尋ねた。矢嶋は弓をタクトみたいに振る。
「誰でも知ってる曲がいい。おまえ選べ。合わせてやるから」
ぼくは他の三人を見やった。中流ホワイトカラーの親を持つ清水。貧しい母子家庭育ちのシバケン。ブルジョアのご令息の矢嶋。こいつら全員が知ってそうな曲……、ぼくは片手を鍵盤に乗せた。ぼくんちのヤマハよりも明朗な音色が深みで響く。Oasis《Whatever》のサビを数小節。天下のSONYのCMソングだから、あんたもきいたことあるはず。矢嶋は四角い顎にヴァイオリンを添えてうなずく。
ぼくはイントロを鳴らした。ボーンヘッドのギターパート。サー公が急に駆けてきてピアノの下に滑りこんだ。矢嶋が弓を弦に乗せた。リアムのヴォーカルパート。この曲はシンプルだ。もしヘタクソなやつが演奏したら、聴くにたえなかったろう。ヴァイオリンの音 は皮膚を圧するようなのに、決して耳にうるさくはなかった。異国の街の海から吹きあげてくる明方の風のよう。おれは自由になんでも好きなものになれるんだ、おれは自由になんでも好きなことがいえるんだ……これはそういう詞の歌だった。
矢嶋は弾きながらアウトボクサーみたいに常に全身で動いた。屈んだり、腰をひねったり、ステップを踏んだり。矢嶋のグレーの目は光で濡れていた。心から楽しそうだった。その腕に確かな自信を持っているとわかる。自分のピアノが恥ずかしくて、ぼくは弾くのをやめたくなった。でも、矢嶋の演奏まで止まるのが嫌だった。ぼくは可能なかぎり丁寧に奏でた。十六ビートのサー公の尾っぽ。
フラッシュ! カメラマン清水が立ちあがっていた。大ぶりな耳が興奮で赤らんでる。フラッシュ! 矢嶋はカメラ目線で大きくのけぞってみせる。フラッシュ! 手がこわばった。いや、ここは発表会場じゃない。こんなの、ただのお遊びじゃないか。
それじゃおもしろくないんだ、そうさ、そんなんじゃおもしろくないんだ……って大サビで、感極まったように矢嶋は跳んだ。二回。音はまったくブレなかった。すげえ。ぼくは笑った。長いアウトロをどうしようと思った。矢嶋の目は、弾きたそうだった。ぼくはうなずいた。矢嶋は複雑なアレンジを加えた。音感がいいんだろう。その音が濁ることはなかった。ぼくは途中から伴奏をやめた。純粋に観客でいたかった。矢嶋は最後の音をだしてから、右腕をロックギタリストみたいにぐるぐる回した。
ぼくは拍手した。こいつに対して尊敬の念が生まれていた。矢嶋は顎にヴァイオリンを挟んだまま、弓を持った手の甲を叩いて拍手しかえす。屈託のない笑顔。
「楽しかった」
ぼくは気落ちしていた。「……うん」
「つぎはもっと練習してこいよ」
練習不足はほんとうなので反論できなかった。ていうか、次なんてあんの?
「すごい。プロみたいだった」はしゃいだ清水。「写真こんど現像してくるから……」
「つまんねえ」
シバケンの声が場の空気を凍らせた。あいつはソファーから飛び降りて血の色の唇を曲げた。
「そんなもんかよ。つまんねえ」
矢嶋の眉間に皺が寄った。怒ってるんじゃないようだ。
「もお帰るわ。そんじゃあな」
シバケンはでていった。あけっぱなしのドアと、他の二人をおろおろ見くらべる清水。ぼくは鍵盤蓋をとじた。ピアノの下から顔をだすサー公。矢嶋はいつものすかした無表情。だけど、こころなしか落ちこんで見えた。
「おれは楽しかったのに」
♂
陽の陰った帰り道で清水はいう。「シバケンの気持ち、わかんなくないな。あいつ、選べないんだもの」
♂
爽籟 の家がだんだん黄昏れる ひとりが去って ふたりが去って
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