17 / 31

十六哩(弥次喜多協定)

 その金曜日は朝から不安定な空模様。雨が降ったり止んだり。昇降口で傘を差そうとしてぼくは、それが自分のものじゃないと気づいた。木製の柄に無地の緑のそいつは色といい形状といい、ぼくのそっくり。だが、よく見れば新品で留具がスナップボタン。ぼくのはマジックテープ。ミステイク。ぼくはその傘をきちんとたたみなおして、とってかえした。三階へ。  ぼくらの教室には放課後の清掃当番と、部活を控えたやつら。鉄のスタンドには傘が半分ほど残ってる。そこに突っ立ってるステンカラーコートの長身、矢嶋だ。ヤな予感。ぼくはおそるおそる傘を見せてみる。 「これ、もしかして、おまえの?」  眇められる三白眼。「おまえが犯人か」 「わざとじゃねえよ。おれのに似てたんだ。悪かったな」  矢嶋は無言で傘を奪う。ぼくは改めて傘を探す。見つからない。テキトーな清掃を終えたやつらが大挙して傘をさらってゆく。スタンドの傘はさらに半減。ぼくの傘は明らかにない。ぼくみたいなマヌケがもうひとりいたか、河合のシンパの陰湿な嫌がらせか。後者の気がして、いたたまれなくなった。矢嶋は一部始終を眺めていたが何もいわない。ガラスのむこうはしとしと雨。どうしよう。ぼくは思いきって声をかける。 「あのさ、傘いれてってくんないかな。途中まででいいから」  矢嶋の眉間におもいっきり皺。「なんでおまえと相合傘しなきゃならない」  傷ついた。やっぱり、こいつは冷たい。ぼくは手ぶらで教室をでた。濡れて滑りやすい廊下と階段をしょぼくれて歩く。矢嶋の気配が後ろにずっとあった。  昇降口の庇の下で、矢嶋が追いついた。淡い期待を込めて、あいつを見た。矢嶋は見かえしたが、傘をひらいてさっさと歩いてゆく。グラウンドに広く雨が煙っている。とても止みそうにない。ぼくは腹を決めて、駆けだした。雨のなかへ。中庭で矢嶋を抜き去った。右の足を蹴りだし、左の足を蹴りだす。右の足を蹴りだし、左の足を蹴りだす。  数億の雨粒を轢き殺しつつ自動車が行き交う幹線道路。ぼくは歩道をひた走った。西へ。顔面にべたつく冷たい雨。ぼくもワイパーが欲しい。きっと、激しい水音で耳が麻痺していたんだろう。追跡者の気配に気づかなかった。いきなり、どかんと追突された。どうにか、すっ転ばずに踏みとどまった。  矢嶋だった。やつは息を軽くはずませて傘を差しかける。 「いれてってやる」  驚いて、それから腹が立った。「もう手遅れだよ。こんな……」 「おまえんち、どこ」 「今井町だけど?」 「遠い。おれんちのが近い」 「だから?」 「おれんち来い」  矢嶋は傘を振った。ぼくは動かなかった。 「早くしないとカゼひくぞ」 「……」  ぼくは強情に黙ってた。あいつはじれた声をだす。 「カウフィーいれてやるから」  ぼくはしっぽを振った。「行くっ」      ♂ 桃色のチョークで藹々傘をかく きたうらたつや↖慕集中です      ♂  新桜ヶ丘3‐9‐6。電信柱の住所表示を、ぼくはたしかめた。暗い雨の矢嶋邸は、横溝正史ミステリーの舞台みたい。ぼくと矢嶋は玄関へ。ドアがひらくとサー公の声。やつは駆けてきて矢嶋の胸に寄りかかる。その鼻づらを押さえこんで矢嶋は苦笑。 「なんべん教えても、これだけは直らないんだよな」  白足袋の女の足。薄香色(うすこういろ)の着物に、紫に菊の花を染めた帯。耳たぶの小ぶりな真珠。アップの髪は褐色、目は緑色っぽい、透きとおった頬。一見して白人と東洋人の混血とわかる。その色素の薄い目が大きくなる。ぼくは緊張し、居ずまいを正した。ずぶ濡れだけど。 「Oh, dear! タケシのお友達?」  彼女が日本語をしゃべってくれて安心した。 「はい。クラスメイトの北浦竜也です。いつも矢嶋……くんにお世話になってます」  彼女はハッと息を飲んで、口を両手で覆った。目が潤んで頬が薔薇色。なんだか色っぽくなる。ぼくはどきどきして尋ねる。 「あの、矢嶋くんのお姉さんですか?」 「母のヘレンだ」 「えぇっ!?」  本気でびっくりした。若すぎる。矢嶋は偉そうにいう。 「Hey, get him a bath towel.」 「You're the boss.」  ヘレンさんは別のドアへ。ゴキゲンな鼻歌。昔なつかしいカーペンターズのヒットソング。たしかにあのころが青春だった人のようだ。矢嶋がいう。 「おれがおまえの何を世話したんだ」 「そういう決まり文句なんだよ、昔から」  ぼくは小声で返した。ヘレンさんがバスタオルを手に戻ってくる。ぼくは頭から羽織った。清潔なにおい。彼女はバスルームまでの通り道に古新聞を敷いてくれる。読売新聞とニューヨークタイムズだった。  矢嶋んちの風呂はほんとうにジャグジーじゃなかった。バカでかい大理石のバスタブ・ぴかぴかの琺瑯タイルの壁・十帖以上の落ちつかない広さ。ったく、あのアホたれ、これのどこが普通だってんだ。シャワーをホルダーに戻し、ぼくは体をふいて脱衣所へ。  大きな鏡と広い洗面カウンター、蛇口と鉢が二つずつ(朝の混雑をさけるためだろうか?)。籐籠(とうかご)に、ロングスリーヴカットソー・チノパン・ショートソックス・未開封のボクサーショーツ。おそらく矢嶋の服だろう。ぼくの制服とトランクスはない。ヘレンさんが持ってったのか。ああ、もっとカッコいいパンツ穿いてくりゃよかった。あいつの服を身につける。ぶかぶか。知らない洗剤のにおい。  キッチンから三十帖のリビングルームにコーヒーの香り。矢嶋は約束を果たしてくれるつもりらしい。雨の窓辺でサー公はアンニュイな表情。窓寄りのロングソファーにヘレンさん。明るみで見ると、着物は唐草文様の地紋だった。むかいに腰をおろしかけたぼくに、彼女は隣に来るようしぐさで求める。ぼくは緊張を隠して頬笑んだ。 「キタウラ・タッツヤくん、だったわね。わが家へようこそ。お話をきかせてもらっていいかしら」  ~かしら、っていう女の人に久しぶりにお目にかかった。ぼくは距離七十センチの彼女の目を見てうなずいた。その虹彩は、グリーン・褐色・萌黄・オリーヴ・黄金・カーキ・チャコールグレー……極小のガラスモザイクみたい。人間の目玉だと忘れて見とれてしまいそうになった。ぼくは視線をその(ひい)でた額へ移した。 「タケシ、気難しいでしょう」  たしかに、お世辞にも愛嬌たっぷりとはいいがたい。ぼくは困って首をかしげた。彼女は真摯な声。 「どんなふうかしら、あの子、学校では?」  大問題児です……とか正直にいっちゃ駄目なんだろうな。いうまでもなく知ってるだろうけど。ぼくは言葉を選びつつ話す。 「読書家ですね。休み時間は、だいたい本をひらいてて。あんまり積極的に人の輪にはいっていくタイプじゃなくて、孤りでいるのがすきみたいで。でも、べつに仲間はずれにされてるってこともなくて。いうべきことはきちんといいますし、まわりのやつらは一目おいてるんじゃないかな。ちょっとポーカーフェイスというか、なかなか心のうちは見せないから、おっかないやつって誤解してる人も多いけど、ぼくはあいつシャイなのかなって思うことあります」  かなり甘口の人物評だ。息子の悪口などききたくないだろう。彼女はほっとしたふう。 「そうなのね。授業のときは、どうかしら」 「授業態度はまじめです。体育んときは、すごくいい動きするんですよ。とくにバスケ。もう一人でポイントとり放題って感じで。ぼくは運動音痴だから、うらやましいです。それ以外の勉強も、できるんだと思います。矢嶋くん、先生に当てられても、答えに詰まったことないですし。とくに英語の先生には気にいられてて、毎回、発音のお手本やらされてます。中間テストじゃオール満点に近い点数をとった、とか噂んなったりしてましたよ。あ、けど、それはきっとお母さんのほうがよくご存知ですよね」 「わたし、あなたのお母さんみたいね」  頬笑むヘレンさん。月下美人のほころび。恥ずかしくなってぼくはうつむいた。 「すいません。おばさんとは呼びにくくて……」 「あなた、紳士(ジェントルメン)ね。よかった、いいお友達がいて。不安だったの。このごろ、あの子、プライヴェイトのことを何も話そうとしないから。もしかしたら、いじめられてるんじゃないかって。先週の木曜日も、ひどいケガで帰ってきたのよ。あの子、階段から落ちたんだ、なんてごまかそうとした。けど、あれは殴られたケガよ。わかるわ、そのくらい。あなた、事情を知らなくって?」  ぼくは自分の坊主頭を撫でた。ざらざら。「……いえ。すいません」 「そう。でも、うれしいわ。初めてなのよ、あの子がお友達をつれてくるなんて」  このあいだ清水やシバケンが来たことを知らないらしい。ぼくだって学校や友達のことを父に逐一しゃべったりしない。思春期の男なんて多かれ少なかれそんなもんだろう。彼女は世間話の口調になる。 「どちらにお住まいなの」 「今井町の西のほうで、かろうじて保土ヶ谷区内ってところなんです。遠いんで、通学に苦労してます」 「ご家族は?」  躊躇した。「父と二人きりです」 「お父さまと。お母さまは?」  取調べされるようなプレッシャーを感じた。ぼくはきっぱりという。 「母はいません」  彼女は息を飲んだ。モザイクガラスの目が涙ぐむ。 「Oh, no……あなたは、まだ、こんなに若いのに」  ぼくの母が亡くなったと思ったみたい。あえて訂正しなかったのは、事実を告げると余計に同情を買いそうだったから。ぼくは何もいえずにうつむいた。できるなら、今すぐに席を立って家へ帰りたい。ぼくはこんなところで何をしてるんだろう。 「Don't be a blabber mouth.」  タイトな土気色(アースカラー)のTシャツの矢嶋は超絶不機嫌そう。トレーをウェイターよろしく片手で支えていた。ヘレンさんの目のグリーンが爛々とする。美人が怒るとこわいよな。 「We had small talk. What is your complaint?」 「Are you blind? He is put out by your talk.」矢嶋はぼくを見る。「おい、早くあっち行こうぜ。Hey, Sir!」  だるそうだったサー公が急に尾っぽを振りだす。失礼します、ってぼくは立ちあがった。矢嶋とサー公を追って廊下へ。吹抜けの細長い天窓に雨粒が盛大にはじけてる。ヘレンさんはリビングの戸口から身を乗りだす。 「キタウラくん。タケシ、悪い子じゃないのよ。仲よくしてやってね。お願いね」  矢嶋はトレーをぼくに押しつけて叫ぶ。 「I've had it!」  母親の肩を押した。ドアを叩きしめる。小窓のフロストガラスがびりりと震えた。他人の第二反抗期の激しさに、ぼくの胃袋がよじれる。矢嶋はため息まじりにつぶやく。 「……つれてくるんじゃなかった」  ぼくはコーヒーを載せたトレーを手に慎重に歩く。飲みものを運ぶときは水面を見ないほうが却ってこぼれないんだ。 「いいお母さんじゃんか。もっと大事にしてやれよ」 「マジで思ってる?」 「マジでそう思えるだろうよ、おれの母親に会えばさ」  沈黙が返った。矢嶋が途惑ってる気がした。 「それよりさ、おまえってなの、じゃねえの?」 「いやなんだ。Take a shit! っていわれるから」 「テイカッシッ?」 「」 「それはそれは」 「それに、おれの父もタケシっていうんだ。まぎらわしいんで、外ではケンって名乗ることにしてる」 「でも、家じゃタケシなんだ。ヘレンさん、旦那さんのことはなんて呼ぶの」 「タケシ」 「ややこしくない?」 「おれがそばにいるときは、ビッグ・タケシ。おれはBTって呼んでる」 「へー」家族カルチャーショックだ。「なあ、なんで外国の人って自分の子に同じ名前つけんの。たとえばヨハン・シュトラウスとか、いつも一世なのか二世なのかわかんなくて困るんだけど」 「親心だろ、自分の名声を子供に継がせたいっていう。余計なお世話だけどな」  地下への階段の入口で、ぼくは矢嶋を見やる。 「ほんとはわかってんだろ、Mr.反抗期?」  矢嶋はあさってを向いた。ほの暗い階段を、ぼくらはゆっくりとくだった。      ♂  何百って楽譜と音楽書籍。アンティークグランドピアノ。空っぽになったモーニングカップふたつ。ロングソファーで矢嶋はセッタを咥え、ジッポーで火をつけた。フィルターを吸うと先端の橙の火が強くなる。色の薄い唇から、ほの青い煙。  ぼくはサー公をかまっていた。毛皮ごしの頭蓋骨の確かさ。うっとりととじるアイスブルーの目。雨の気配の感じられない地下スタジオで、いつになく安らかな気持ちだった。それは絶品のコーヒーの余韻のせいかもしれなかったし、サー公の体温のせいかもしれなかったし、ソファーの心地よい硬さのせいかもしれなかったし、矢嶋のタバコのにおいのせいかもしれなかった。ぼくはあくびした。  矢嶋はカップを灰皿代わりにした。ぼくらのまわりに煙が縞になる。矢嶋は目を眇める。 「おまえは煙いやがらないな」 「昔、じいちゃんが()ってたから」 「むかし?」 「タバコと酒と料理がすきな人だったよ。おれが十歳んなったばっかのときに、心臓で逝った。きょうみたいな、朝から寒い雨の降ってた日だった」  矢嶋は相槌を打たなかった。ただ無表情に口にタバコを運ぶ。それでも、やつが耳を澄ませているのが、なんとなくわかる。ショートヴァージョンの思い出話を、ぼくはとつとつと語る。サー公を撫でまわしながら。 「じいちゃんちは、おれんちから街道を渡ってすぐだった。当時のおれの足でも五分くらい。半分は信号待ち。菜園つきのボロの木造平屋だ。おれが遊びに行くと、じいちゃんはたいてい畑仕事してた。おぅ、来たかぁ、って顔面しわくちゃにしてよろこんでくれてさ。やさしい人だった。  じいちゃん、犬飼ってた。八雲(やくも)って雄のスピッツ。スピッツは騒がしい犬ってイメージが強いけど、八雲はめったに吠えなかったな。年寄りだったからだろうな。おれがものごころついたときから、もう動きが鈍かったよ。つぶらな焦茶の目ぇしてて、いつもちょっとだけ舌だしてた。ずいぶん体が大きかった気がするけど、おれが小さかったせいかもな。  じいちゃんも八雲も大すきだった。おれは毎日のように遊びに行った。なのに、じいちゃんが倒れた日にかぎって、行かなかった。雨だったからだな、きっと。じいちゃんは、卵を拾おうとしたのかな、鶏小屋で心筋梗塞を起こした。通報してくれた隣んちの人の話じゃ、八雲が尋常じゃない声で吠えたから、気づいたんだって。じいちゃんは横浜市大に担ぎこまれて、その夜に死亡宣告を受けた。次の朝、おれは八雲を迎えにいった。犬小屋で冷たくなってたよ。じいちゃんが助かんなかったのが、わかったんだろう。だから一緒に逝ったんだよ」  矢嶋は余計なことはいわなかった。ただ、ぼくの耳のあたりを見つめていた。ぼくはつけたす。 「たぶんな」  ぼくはサー公を膝からおろした。やつは悲しげにキュンと鳴いた。ぼくは明るくいう。 「なあ、ピアノさわっていい?」 「すきに」  ぼくはクッションつきの猫足の椅子に飛び乗った。椅子の位置はあの土曜日から動いていなかった。腕時計を前腕へずらして、蓋をひらく。  鍵盤を静かに叩きだす。ソステヌート(音を長く保て)。四分の四拍子。ショパン《二十四の前奏曲》の十五番、通称《雨だれ》。技術的には難しい曲じゃない。もっと小さいときに発表会でやったことがある。けれど、とても表現を問われる作品だ。雨だれの連続音の微妙なニュアンス。しめやかな主部とドラマティックな中間部のメリハリ。それが肝心。豊かな音のするピアノだ。二割増で腕がよくきこえそう。鍵盤蓋の裏に、この両手が左右反転して映る。虚像のそれは、どうしてか実物より美しく見える。クレッシェンド(だんだんと強く)。ここでいつも高鳴る鼓動をイメージする。雨天の暗さのなかに立ちあがる一瞬の希望。一度目よりも二度目を力強く。ペダルをいれる。終結部をフェードアウトで静めてゆく。Bのフォルテのひと雫。余韻を残して雨だれがやむ。  手をそっとおろす。納得のいく演奏だった。矢嶋は眠っているふうに見えた。その白い薄い瞼が、ゆっくりとひらく。雨を含んだ雲の色の虹彩。矢嶋はややうつむいて指のあいだのちびたタバコをねじ消した。 「久しぶりにちゃんとピアノ弾けたよ。サンキューな」 「持ってないのか?」 「あるよ、オンボロのヤマハが。けど、ここみたいに防音しっかりしてないし、隣んちから苦情きたことある。それと、おれ、母親に習ってたんだ。うちの親、離婚してて、おれは父親と住んでてさ。おれがピアノ弾くと、父さんに別れた妻のこと思いださせちゃうかなって。いろいろ気を使うんだよ。これでもさ」  ぼくは両手で脚のあいだの椅子のへりを握った。ルームシューズの爪先で床を蹴る。やつは二本目のタバコに火をつけた。深く吸って、煙を細く長く吐く。 「そのピアノ、おまえにやるよ」 「え……?」  ぼくはまぬけに口をあける。ぼくを見すえるグレーの目から、感情は読みとれなかった。 「すきなときに弾いていい。その代わり」 「その代わり、何」 「おれのいうこときけよ」  がっかりした。そりゃそうだ、ほんとうにタダで貰えるわけがない。ていのいい交換条件。でも、好きなときにこのスタインウェイを弾けるというのは魅力的な提案。ぼくは矢嶋のようにポーカーフェイスをとりつくろう。 「きけることなら、きくけど。裸踊りしろとかいわれても無理だぞ」  矢嶋の目に軽蔑の色。「じつは露出狂か? なんで、そんなもん見せられなきゃならない。いっぺんだってたくさんだ」  あの六月の教卓上公開処刑のことをいってるんだろう。カチンと来た。ぼくは意地の悪い声をだす。 「あんとき、ずいぶん熱心に見てたじゃんか。おれに気でもあんのかと思った」  矢嶋の顔が瞬間で赤くなった。マグナムをぶっ放しそうな目つき。嫌な動悸。ぼくは目を逸らす。 「冗談に決まってんだろ。バカか」  居心地悪い沈黙。ぼくは自分のざらざらの髪を撫でた。矢嶋がタバコを嚙みつついう。 「おれのほうがデカいと思ってただけだ」 「あっそ」  日暮れまでピアノで遊んだ。思いつくかぎりの曲を弾いたあと、矢嶋のリクエストをきいた。J.S.バッハ《フランス組曲》第三番の全六曲。おもしろいチョイス。ヴァイオリン弾きはピアノ弾き以上に音楽へのこだわりが強いって説はほんとうかもしれない。  いつのまにかピアノの下にサー公が寝そべってる。ふさふさの尾っぽが床板を右に左に掃く。矢嶋は自然な笑みを浮かべる。 「よかったな。サーはおまえのプレイ気にいったってさ」 「えぇ?」 「そいつ、耳がいいんだ。グレン・グールドを流すとよころぶ。けど、ジョン・オグドンを流すといやがる」 「飼い主バカか? いや、バカ飼い主か?」 「信じないな? なら、実験しよう。AVルゥム行くぞ」  むきになる矢嶋がおかしくて、ぼくは笑った。そんなふうに秋の一日(ひとひ)はすぎていった。      ♂ 忠犬の尾っぽがグレン・グールドのテンポでさよならさよならという

ともだちにシェアしよう!